北壁の暦官

北壁の暦官 第19話「第17章」

砦の暦局に戻ると、冬の光は薄く、土間の木板は静かに冷えていた。長年の喧騒をしまいこんだ倉庫の奥に、彼らは作業台を据えた。布に包まれた三つの破片が、火鉢の赤い光を受けている。港の石片、凍原の草花の欠片、山寺院の鐘の破片——それらは瑠衣の絵の線とぴたりと合う寸法を示していた。箱を開けるたびに、琴音の胸の奥で何かが震え、額の裂け目がひりつくように疼いた。暦裂は、彼女が掌で触れた分だけ顔を露わにするようだった。

砦の暦局に戻ると、冬の光は薄く、土間の木板は静かに冷えていた。長年の喧騒をしまいこんだ倉庫の奥に、彼らは作業台を据えた。布に包まれた三つの破片が、火鉢の赤い光を受けている。港の石片、凍原の草花の欠片、山寺院の鐘の破片——それらは瑠衣の絵の線とぴたりと合う寸法を示していた。箱を開けるたびに、琴音の胸の奥で何かが震え、額の裂け目がひりつくように疼いた。暦裂は、彼女が掌で触れた分だけ顔を露わにするようだった。

斎藤が作業台の端に立ち、眉を寄せて言う。「監督は俺が務める。外の警戒は瑤と分担する。鳴海、手順はお前が指示しろ。無茶はするな」

鳴海は肩に巻いた白布を直し、興奮と疲労が混じった声で答えた。「理論的には、この三片が輪の一部となれば、鐘の調律の設計図が浮かび上がるはずです。位置と角度、符号化の向き——それらを合わせれば、暦輪の一端が再現される」

瑤が作業台の上に道具箱を置き、短く噛んだ。「鳴海、学問はいい。だが人は機械じゃない。お前の計算で誰かを痛めつけるなよ」

琴音は破片を前にして、ゆっくりと息を吐いた。彼女の手は震えていたが、声は落ち着いていた。「今回は私が、指先を合わせるだけにする。書かない。余白は使わない」

仲間たちの視線が一斉に向いた。朔日ではない。暦の朔日にしか余白を書き込めないという規則が、長く彼女の行為を縛ってきた。しかしここ数か月、琴音はその制約を超えて何度も余白を使い、代償を払ってきた。代償はいつも誰かの人生の変化として顕れ、己の記憶を一片ずつ奪った。朔日の一回に戻すことは、彼女自身の残存を守るためでもあった。

鳴海の顔が一瞬曇った。「でも、ことね——」

「書かない。ただ、私が触れて、破片の位置を示す。鳴海はそのデータを記録するだけ。斎藤は監督する。それでいい」琴音の言葉は静かだが、決意がこもっていた。自分の能力を乱用したと気づいた彼女は、今回は最小限の介入しか選ばないと決めたのだ。だが「触れる」だけでも、暦の破片に触れた本人に何かが起こることを、琴音は知っていた。

破片は木の碗のように並べられ、互いの縁がかすかな旋律を帯びていた。石片は低い渋い音、草花の欠片は乾いた鈴のような反響、鐘の破片は古い銅の残響を保っている。三つが揃うと、音は互いに絡み合い、空気がわずかに歪む。琴音は掌に温度を感じ、そこに触れた瞬間、目の奥に薄い映像が差し込んだ。

それは木の匂い、削りかすの舞う工房。低い声で誰かが呼ぶ。途切れ途切れの会話、ほんの一瞬だけ見えた薄い顔——琴音は前世の断片の一つを取り戻した。師の手が木材を押さえ、子供の自分が黙々と紐を結んでいる光景。彼女はその情景に心が満たされるのを感じた。笑い声のような温かさが胸に戻り、目頭が熱くなった。

同時に、後ろで鳴海が鋭く息を吸う音がして、彼が膝をぐらつかせた。座っていた椅子から崩れるようにして床に落ち、手の中のノートがばらばらと散った。彼の顔色は急速に青白くなり、口元には冷たい汗が光っていた。斎藤がすぐさま駆け寄る。

「鳴海!」

瑤が斎藤の隣で膝をつき、胸元から包帯を取り出す。鳴海の意識は薄れ、瞳孔は散漫だ。琴音の胸に戻った温かさは、同時に胸の重さとなって押し寄せた。触れた代償は彼女自身の記憶を媒介として働くだけではなかった。破片の結び目が一種の導線となり、接触の反動が、そばにいる者の身体を震わせることがある——それは過去の使用で散見された副作用だった。

琴音は手を引き、後ずさった。掌の中に残る映像は、もう薄れていた。前世の一場面は確かに戻ったが、彼女の額の裂け目は深く疼き、薄い血の匂いがした。記憶を取り戻すごとに、何かが別の場所に消えていく。今、鳴海が伏せたのは、彼女の触れた力が予想外に大きく現れたためだと、琴音は理解した。鳴海は破片を扱う間、長く近くにいた。彼の体が反応の緩衝材となったのだろうか。

斎藤が慌てずに命令を飛ばす。「瑤、蘇生処置! 温かい湯を持って来い。窓を開けて空気を入れ替える。誰か、鳴海の首に力を与えて——手首に刃のような冷えがある、早く」

瑤は指示に従い、気をしっかりと握って鳴海の肩を揺する。手厚い手当の甲斐あってか、鳴海は浅く吐息をし、ゆっくりと瞳を開けた。目の中には驚きと恥ずかしさ、そして自責の色が混ざっている。

「す、すまない……ことね、無駄に巻き込んでしまった」彼は口ごもり、手を伸ばして琴音の手を取りかけたが、腕が震えてそれが届かない。琴音は震える唇を噛んで、静かに首を振った。

「あなたのせいではない。私が触れた——それだけで起きたことだ」琴音の言葉は柔らかく、だが痛みの鋭さを含んでいた。前世の断片の残像が胸を満たしては消える。それと引き換えに鳴海が倒れた現実が、冷たく残った。

鳴海は額に冷たい汗を滲ませながら、かすれた声で言った。「俺が強引すぎた。やり直せると思ったんだ。理論と実践の差を、読めなかった。ことね、君が触れた時の反応が、これほどまでに周囲へ波及するとは」

斎藤が短く息を吐いた。「研究は大事だが、命の代償で手に入る知識など要らぬ。お前には今後、俺からの許可が必要だ」

鳴海は俯いて小さく笑った。「――その通りだ。すまない。俺が己の欲で皆を危険に晒した。許してほしい」

瑤は鳴海の肩に腕を回し、ぶっきらぼうに言った。「次回は自分の欲を押し殺して、まともに指示出せ。それで皆が生き残れるなら、勉強も悪くない」

琴音はそのやり取りを静かに見守りながら、布に包んだ破片に視線を戻した。三つの欠片は、ただ並べられているだけで互いに呼応し合っている。鳴海が倒れたのは、彼の過度の近接性と、琴音の触れた影響の複合だった。彼女は再び決断の輪に立たされる。ここで余白に一行を書いて完全に輪を復元することもできる。朔日でなくとも、彼女はかつてそうして多くを変えてきた。だが、それは誰かの人生を必ず変える。代価はまた記憶の剥離であり、彼女自身の存在の摩耗である。

琴音は布をほどくと、破片の縁を指先でなぞった。触れるだけ。呼吸を合わせるだけ。余白には触れずに二つの破片をより精密に置き、角度を揃える。鳴海はノートを取り、斎藤が定規で位置を測る。瑤は周囲の警戒を緩めず、窓の外に目を配る。小さな行為だったが、破片は反応して微かな光を放ち、映像が再び差し込んだ。

今度の映像はもっとはっきりしていた。薄暗い室内、古い木箱、紙の匂い。誰かが細い筆で余白に一行をしたためている。文字はかすれているが、最後に「守りの約束」と読める一節があった。隣には、小さな子の手があり、誰かがその手を取って導いている。童謡のような唄が遠くで聞こえ、琴音は胸が熱くなった。視界の端に、瑠衣に似た子が橋を描いている姿があった。だがその鮮明さは長く続かない。映像は一瞬で溶け、琴音の肩から力が抜けた。

彼女は何かを得た。重要な断片が戻ったのだ。だが同時に、胸の奥に空白がぽっかりと増えているのを感じた。取り戻した代価として、何か別の記憶が薄れたのだろう。琴音はそれを確かめるために両手で額を押さえた。指先に触れた肌の下で、暦裂が微かに熱を帯びる。

鳴海はまだ椅子にもたれているが、目に涙をためていた。「ことね……取り戻したんだな」