北壁の暦官

北壁の暦官 第11話「第10章」

雪がまだかすかに舞っていた。砦を出てから一時間も経たないうちに、道端の石ころは白い薄絹に覆われ、風が石畳の継ぎ目を撫でるたびに古い音が立った。琴音は厚手の外套を両手で引き寄せ、額の裂け目を軽く押さえた。そこは冷たく、いつもより深く疼く。昨夜の戦いの余波が身体に残っている。誰かの命を救うたびに、自分の輪郭が薄れていく不気味さの余震だ。

雪がまだかすかに舞っていた。砦を出てから一時間も経たないうちに、道端の石ころは白い薄絹に覆われ、風が石畳の継ぎ目を撫でるたびに古い音が立った。琴音は厚手の外套を両手で引き寄せ、額の裂け目を軽く押さえた。そこは冷たく、いつもより深く疼く。昨夜の戦いの余波が身体に残っている。誰かの命を救うたびに、自分の輪郭が薄れていく不気味さの余震だ。

「ここだ」

瑤の声が雪の中で低く響いた。行商の女剣士は雪に足跡をつけることなく、裸手で碑石の列を指す。そこに立つ石群は、道の脇へと並んだ古い墓碑のようにも見えたが、近づくと表面に刻まれた文様が暦札の罫線に似ていることがわかった。浅く彫られた線が円を描き、その中に欠けた文字の痕が残る。風雪はその凹凸にまとわりつき、墨跡のように見えた。

「古い石碑群。鉱山作業の記録だと思われるが…」鳴海は膝をついて刻印の縁を指でなぞった。彼の声は興奮を隠しきれず、学者特有の高揚が微細に震えている。「暦の行事名の断片がある。だが、これらの符号は現行の暦と一致しない。別の層、あるいは古い起点に繋がっている可能性が高い」

斎藤は腕組みして背後から眺めていた。彼の表情は硬く、砦の秩序を守る者のそれだ。琴音を見ると短く顎を下げた。「だが景刻院に情報が渡れば、すぐに監視下に置かれる。ここは北壁の外だ。民間に任せることはできぬ」

瑠衣は小さな手で一枚の紙切れを握り締めていた。それは彼女が描いた橋の絵の切れ端だ。雪の白の上で、子どもの描いた太い橋の線がくっきり黒く見える。琴音はその絵を見て、心がぎゅっと締め付けられた。瑠衣の絵に描かれた橋の欄干に似た模様が、石碑の一つに刻まれている。偶然の一致ではない。何かが、時間をつないでいる。

「この一帯は、かつて坑道の口だったと聞く」瑤が小声で言う。「作業の暦を刻んだ石だろう。だが、刻みが雑だ。古い時代の手つきだ。余白の扱い方が、今我々が知るものと違う」

琴音はゆっくりと石に手を伸ばした。掌を当てると、冷たさの中に微かな振動が伝わってきた。古い印が、薄く脈打っているようだった。それはまるで長年眠っていた何者かが、彼女の存在を確かめるために目を覚ますかのような感触だった。額の裂け目がまた熱を帯びてきた。暦の余白が自分を呼んでいるのだという確信が、胸に冷たく広がる。

「琴音、やめろ」斎藤の声が割り込む。彼は素早く近づき、石と琴音の間に立った。「お前の——その力がここで反応したら、どうなるか分からぬ。景刻を弄るのは禁忌だ。ましてや朔日でない」

鳴海は俯きながらもメモを取り続けた。「しかし、ここが起点ならば、我々は情報を持ち帰るべきだ。暦の構造を理解すれば——」

「理解すれば、景刻院が掌握するだけだ」瑤が吐き捨てるように言った。「ここで何が起きているかを外に出すな。俺たちが守る」

斎藤の目が琴音の顔に戻った。「一度でも勝手に書き込めば、局の規律を破ることになる。だが……お前が何をしたかを俺は見た。誰かが助かった夜、お前はもう一度世界を曲げた。今度は何が失われるか、想像してみろ」

琴音は答えなかった。言葉は喉の奥で薄れていく。彼女の前世の小さな断片が、残影のように胸に浮かんでは消える。古い店の木の匂い、誰かの笑い声、指先に残る真鍮の冷たさ――どれも手に取りたくても滑り落ちてしまう。代償は苛烈だった。だが石の脈動は止まらない。起点はこの触れ合いの先にあると、身体が訴えていた。

「もし、そこに欠けた頁の一片があるなら」鳴海が言った。「我々はそれを確認し、理論だけでも持ち帰るべきだ。これは学問の機会だ、琴音。君が触れたら、私が記録する。君が失うものの価値を、俺は科学的に返して見せる」

その言葉に、琴音の胸はかすかに裂けた。鳴海はいつも学者の眼差しで世界を測る。彼には保存と解析の論理が先に来る。だが今、保存が即ち掌握を意味する危険を琴音は知っている。景刻院の手に渡れば、余白は管理の道具になり、誰かの幸福が商品にされるだろう。琴音はその未来を、昨夜のような霧の中で垣間見ていた。

「やるなら、私たちだけだ」琴音は静かに言った。声は冷たく、しかし迷いはない。「外には出さない。鳴海、記録はするけれど、局には送らないで。斎藤、もし景刻院が動いたら、ここを守って。瑤、警戒を強めて」

斎藤は無言で目を閉じると、ゆっくり頷いた。「臨機応変だ。だが君が一人で決めるのはもう終わりだ。皆で決める」

瑤は短く笑って肩を叩いた。「いいだろう。ここから先は俺が前だ。余影党の残党がうろついている可能性もある。鉱山の廃坑の入り口まで行こう」

彼らは石碑の列に沿って歩いた。碑の一つの側面に、見慣れた紙片の縁が埋まっているのを瑤が見つけた。雪のまぶしさの中で、紙の裂け目が黒い筋となって浮かぶ。琴音は息が詰まるのを感じた。その紙片の縁は、彼女の手帳の欠けた頁と同じ紙質、同じ擦り切れ方をしていた。胸の奥で、震えるものが動いた。

「そこだ」琴音が叫ぶ前に、手が勝手に伸びていた。彼女は紙片を掘り起こすようにして雪を払い、指先でそれを引き出した。古い泥が縁にこびりついている。紙にはかすれた墨で小さな符号が記されていたが、そこに欠けた頁の輪郭がぴたりとはまる空間がある。まるで何かが、そこに嵌まるのを待っていたかのように。

琴音は懐から自分の手帳を取り出した。表紙をめくると、確かに欠けていた一枚の頁の空白がそこにある。指先に残る震えが、止められない。彼女は自分の意思で紙片を石の穴に嵌めた。冷たい刃のような感触が掌に走り、額の裂け目が断続的に疼いた。その瞬間、世界はぎくりと鳴った。

白い雪の向こう側で、鐘楼が不協和な低音を吐いた。割れた鐘の縁が、その響きにさらなる亀裂を重ねる。音は不規則に、幾重にも鳴り響いた。琴音の凝視する視界に、ふっと過去の一瞬が浮かぶ。古い店の戸にぶつかる風、幼い自分の手のぬくもり、誰かが歌った小さな子守唄。彼女はその一節を捕まえようとした。胸の奥で、暖かい光が広がったように感じる。

「見たか?」鳴海が息を呑んだ。彼の筆は震え、顔は白い。学者の目には、幻視が理論の断片として映ったのだろう。

だが次の瞬間、琴音の視界から別の記憶が滑り落ちていった。それはこの砦のある夜、斎藤と交わした言葉の断片だった。斎藤が初めて琴音を守ると誓った夕暮れの、あの細かな笑い声。琴音はその喪失を確かに感じた。胸が締めつけられ、喉の奥で何かが切れた。

「なにをした?」斎藤の声が低く震えた。彼は震える手を琴音に向けた。「……君はまた、何かを失ったのか」

琴音は小さく首を振るが、言葉が出ない。石の中に嵌めた紙片が微かに光を放ち、そこから薄い灰色の霧が立ち上る。霧は雪に溶けて消えるが、その残響が琴音の内側にしつこく残った。彼女は悟った。拾った断片が何らかの「鍵」になったのだと。欠けた頁が起点に組み込まれるとき、過去の時間の断面が一瞬だけ開く。しかし開く代わりに、彼女の時間の頁が別のどこかへ移動する。誰かの未来が揺らぐのと同じ仕組みだった。

「これは暫定的な回収だ。もっと破片があるかもしれない」鳴海は冷静を装って言ったが、その目に野心の光が差しているのを琴音は見逃さなかった。「これを