星祭りの槍姫

星祭りの槍姫 第19話「第17章」

朝靄が瘤の縁を洗い流していく。冷えた土の匂い、まだ湿った草の葉が闇の残像を手放すように光るなか、リンナは小さく息を吐いて符を掌に転がした。昨夜、符と石座がつないだ断片の幻影はまだ彼女の胸を押さえつけている。記憶の一部が剥がれるときの鈍い痛みは、実体の喪失よりもむしろ重い。そこにあったはずの自分がいつの間にか薄れていく感覚。彼女はそれを恐れつつも、草原の民を守るために槍を取ったのだと自分に言い聞かせた。

朝靄が瘤の縁を洗い流していく。冷えた土の匂い、まだ湿った草の葉が闇の残像を手放すように光るなか、リンナは小さく息を吐いて符を掌に転がした。昨夜、符と石座がつないだ断片の幻影はまだ彼女の胸を押さえつけている。記憶の一部が剥がれるときの鈍い痛みは、実体の喪失よりもむしろ重い。そこにあったはずの自分がいつの間にか薄れていく感覚。彼女はそれを恐れつつも、草原の民を守るために槍を取ったのだと自分に言い聞かせた。

「来たよ」

ベロが背を丸めて戻ってきた。宿営の東にある窪地から、暗い格子模様の外套をはためかせながら姿を現す。外形は変わらないが、昨夜の彼の顔にはいつもの軽やかな影が薄く、疲労と何かを秤にかけた痕があった。

「高固国の使者か?」カイロが地図を握りしめた手を緩めずに訊く。

ベロは短く頷く。「内廷の小さな派閥からの使者だ。名はセロン。総督ユルガンとは対立する立場にある。枢密の末席だが、影響力はある。彼らは、辺境から直接的な増援を出すつもりはないが、いくつかの成約を条件に支援はできると言ってきた」

リンナがゆっくりと顔を上げる。掌の符が朝陽を薄く透かし、緑が微かに揺れる。「支援って……何を?」

「物資と情報だ」ベロは目を細めた。「高固は正規軍をこちらに差し向けるつもりはない。だが交易通路を開け、食糧と種籾を送る。ユルガンの進軍を抑えるために、一部の官職者を説得して得られる『牽制』もある。さらに、港からの傭兵流入を制限する通告を出させる約束を取り付けた。代価は――貿易許可の優先枠と、今後の協議での土地利用の事前協定だ」

カイロの眉が跳ねた。「代償としては大きい。だが現状で英雄的な軍事支援を期待できない以上、物資と政治的牽制は貴重だ。尤も、セロンは君側の言質を何としてでも欲しがっていた。彼らが求める文書は、草原の永久的な通商権の一部を含む」

ミルナが譜面を抱えたまま、草に腰をおろす。目はまだ赤い。「高固の連中は策略家よ。ベロ、彼らは何を得ようとしてる? 結び目で儀式が行われることを知れば、介入の口実になるかもしれない」

ベロの口先が薄く笑った。「だから俺は『介入はしない』と明言させた。代わりに——彼らは我々が結び目を守るための技術者と、夜の視界を守るための簡易的な幕隊を出す。燈火隊の妨害に対抗する装置や、毒煙に対する簡易的な換気器具だ。これで夜天の確保は幾分か安定する。が、それは完全な保障ではない。セロンは『文書に署名すれば』と繰り返した。代価の大きさを理解していない者は少ない。だが物資が届かなければ、草原は早晩、さらなる疲弊を強いられる」

アサムが荒い息をつく。「じゃあ選択は何だ。手を取るか、取らぬか。俺は現場を守るべきだと思ってる。夜霧や燈火隊で儀式の成功率が下がるのはまずい。準備なしで結び目に固執するほど愚かではあるまい」

リンナは地面に符を置き、小さな円を描くように指先で溝をつけた。「共同体の合意が必要だと、私は言ってきた。だが共同体は飢えと戦力の損耗を見て、違う顔を見せる。私たちの選択は一つではない。高固の支援を受け、時間を買うか。独立して戦い続けるか。あるいは――第三の道、儀式の方法を変えるために時間を稼ぎ、象徴的な『受け皿』を用意して代償を散らすか」

ミルナの瞳が光る。「古譜にある『結び目の清め方』よ。石座を媒介にせず、象徴で代価を受け止める方法。私たちは試験をした。血を使わず、夜天も整わない状態での接触で、石座は反応した。あれは石座が器として代価を集めることを示した。もし器を人工的に用意して代償を局所化できれば、リンナの記憶が直接剥がれるリスクは下がるかもしれない。だが、確証はない――器が代わりに誰かや何かを傷つける可能性もある。象徴とはいえ、代償は代償だ」

カイロは唇をかむ。「それが成功すれば、我々は結び目のすぐそばで儀式を行える。成功しなければ……代価は局地的に、より濃くなる。石座が吸い上げていたものが、器の中で暴走するかもしれない。倫理的に選ぶべきなのはどちらか。前兆は我々に口をきかない」

沈黙が伸びる。風が草を撫で、遠くで水禽が羽ばたく。だがその静けさに混じって、別の音もあった。馬の蹄か、あるいは運搬車の軋む音。瘤の向こう側、道の方角から新しい足音が近づいてくる。カイロは即座に地図をたたみ、辺縁に目を向けた。「接近者だ。見張りが報せる」

見張りが走ってくる前に、ベロが先に口を開いた。「それは南縫派の者だ。残党の使者を見つけた。だが面白いことに、彼らは単独ではない。外部の商団と手を組んでいる。鉄製の筒――小さな火器を積んだ船が数隻、沿岸で待機しているという噂が流れている。私が聞いたのは、その商団が外れの港から火薬と簡易銃を運んでいるという話だ。彼らはヤバい手を使い始めた」

その言葉に、ミルナの手が譜面を握りしめる。リンナは符を掴み返し、指先が白くなる。「火器か……高固でも、ユルガンの軍でも、燈火隊と毒煙の次に火が来るとは。火石の類は夜戦の優劣を根底から変える。もし南縫派がそれを手に入れれば、結び目の守りはより複雑になる」

アサムは歯を食いしばった。「奴らが近づけば、夜の確保なんて話じゃない。銃は視界に関係なく一方的に殺せる。俺たちは隊を分ける余裕がない。高固の支援がないと、結び目を守るのは難しくなる」

ベロの顔に一瞬、後悔とも称賛ともつかない表情が走る。「だが聞け。俺がセロンと交渉したとき、彼は南縫派の動きについての情報を我々に流す代わりに、ある人物を引き渡すことを要求した。私はその人物を渡さなかった。だが彼らは公開文書を盾に、港の検査を強化する約束をしてくれた。それが意味するのは、商団の船は港で足止めされる可能性があるということだ。ただし、検査を破る迂回路は存在する。草原の海岸は長い。完全に封じる保証はない」

リンナの心臓が跳ねる。彼女は思い出す――第一章の夜、星を写したときの士気の躍動と、数週間後に見た幼い子羊の異形。勝利がもたらしたのは一時の歓声かもしれないが、その代償は無視できない。術の条件はあまりに厳しい。夜天、血の一滴、合唱の一致、そして共同体の同意。禁忌の数々。無断で使えば星断が待つ。リンナはその掟を胸に刻み、何度も自分に繰り返してきた。

「私たちには時間がない」とリンナは静かに言った。「高固の支援は物資と政治的牽制を与えるだろう。南縫派は外部から火器を入れようとしている。選択肢は三つ。ここで儀式を行う。遠隔で行う。象徴の器を準備してから行う。どれを選んでも代価はある。だが僕たちの守るべきは、まず連合の人々だ。私の記憶は重要だが、それは人の数に比べれば一人分だ」

ミルナの瞳が潤む。「あなた自身がその一人なんだよ。リンナ、あなたがいなければ誰が星を写す? 誰が前世の断片を解き、歌を繋ぐ? 私たちはあなたを必要としている。けれど――」

「けれど」とリンナは言葉を受け継いだ。「選ぶのは皆だ。共同体の同意よ。私が強行すれば掟を破る。星断という罰が、我々の最後の希望を永遠に奪いかねない。だから、軍議で我々は答えを出す。だが私は一つだけ約束する。もし合意が出るならば、完璧な夜天と合唱を整え、血は一滴だけに抑える。可能な限り代価を散ら