星祭りの槍姫

星祭りの槍姫 第17話「第15章」

朝靄はいつまでも草の先を濡らしていた。リンナはいつものように村の通りをゆっくりと歩きながら、誰も知らない空白を数えた。空白は数字では測れない。疫病で失くした幼い記憶の断片と、術を使うたびに薄れていった自分の名がそこに混ざり合い、彼女の胸にずしりと沈んでいた。槍の柄が彼女の背に触れるたびに、緑の符がわずかにひんやりする。符はまだ、静かに光をためているように見えた。

朝靄はいつまでも草の先を濡らしていた。リンナはいつものように村の通りをゆっくりと歩きながら、誰も知らない空白を数えた。空白は数字では測れない。疫病で失くした幼い記憶の断片と、術を使うたびに薄れていった自分の名がそこに混ざり合い、彼女の胸にずしりと沈んでいた。槍の柄が彼女の背に触れるたびに、緑の符がわずかにひんやりする。符はまだ、静かに光をためているように見えた。

村は穏やかだった。子どもたちの声、羊の鈴、干し草を運ぶ車輪のきしむ音が日常を織っている。しかしその織り目の奥に、昨夜の夢が刺さっていた。夢はいつも同じ構造を持つ。夜空が低く、星々が木の枝のように手の届く位置に垂れ下がっている。彼女は若い女――自分ではない誰か――の側に立っている。その女は裸足で、血にまみれた細い糸を星へと投げる。糸は空を引き裂くように光り、地上には図形が浮かぶ。兵士の群れがその図形に従って動き、矢が整然と飛ぶ。女は唇を動かし、歌う。歌はリンナの耳には知らない旋律でありながら、幼い頃に聞いた子守歌のように深く共振した。

夢から覚めると喉の奥に金属の味が残る。昨夜は特に鮮明だった。女の手にはいつも小さな模様があって、それが今の槍の先の符と酷似している。だが夢の中の女は「乙女」なのか、「操作者」なのか――その二つの像が夢の間で揺れていた。彼女は救う者にも見え、同時に操る者にも見えた。どちらを当てはめても胸が締めつけられる。

村の広場で、カイロが朝の書類を広げていた。彼はリンナの姿を見ると眉を寄せ、小さく笑ってみせた。「寝不足か」と彼は言った。声にはいつもと同じ冷静さがあるが、目には警戒の色が混じっている。「隊は無事に戻った。だが、君は同行しなかった。それでよかったのか?」

「私が行っても良い結果は出せない」リンナは肩越しに槍の符を触りながら答えた。「ここに残るべき人がいる。交易の取りまとめと住民の見張りは重要だ。瘤のことは、調査隊が優先だ」

カイロはその回答に頷く代わりに、テーブルの上の小さな包みを指で押した。「これを見ろ。ミルナが見つけた。帰路に急いで持って来たらしい」

包みを開くと、薄紙に包まれた羊皮紙の一片が現れた。そこには古い譜が走り書きされている。筆致は擦れているが、旋律を表す符号と、いくつかの言葉が読み取れた。水、歌、代替──三つの言葉が、古い文体で並んでいる。ミルナがここにいるはずだとリンナは思った。彼女には、この断片が何を意味するのか、ある程度の予感があった。

そのとき、広場の端に足音がして、ミルナが駆け込んできた。髪は土で汚れ、手には古い石の欠片を抱えている。顔にはあざやかな興奮が見え、目はいつものように大きく輝いていた。彼女は息を乱しながらも、包みの羊皮紙を取り出すと、ふるえる声で言った。

「読める、リンナ。これは欠落していた別譜の一節だ。『清めは水、歌、代替の三段。水は場を洗い、歌は位を結び、代替は……位相の負い手を替える』――ここまでだ。欠けている部分は代替の方法の具体的な記述だが、重要なのは順序だよ。『歌は位を結ぶ』。つまり、歌が結び目の位相を直接触る部分がある」

リンナは静かに紙を受け取った。ミルナの言葉一つ一つが、彼女の内にあるものを震わせる。歌。位。結ぶ。彼女は自分がそれをやってきたことを思い出すのではなく、何かが彼女の中でそれを想起させるのを感じた。前世の細い断片が、灰色の海から浮かび上がり、眼前に形をなす。

「代替って……」リンナは呟いた。「誰かが代わりに代価を――それは……」

ミルナは握りしめた紙を胸に当て、悲しげに笑ってみせた。「私もそこが怖い。注記には『替り手』とか『替りの心臓』とある節がある。でもそれは寓話かもしれない。だが朽ちた像には、血をたらすような記号が刻まれていた。結び目を清めるには『替り』が必要だと書かれている。替り手を誰にするかというのは、ただの技術的問題じゃない。倫理の問題だ」

アサムが口を開く。いつもは短い言葉で済ます彼だが、今日は長く喋った。「替り手を決めるということは、誰かの一部を永遠に差し出すことを意味する。代償を転嫁するということは……我々が今、恐れているものに手を貸すのと同じだ。高固がそれを望むなら、彼らは喜んで代価の分担をするだろう。だが代償を分けるということは、同時に彼らに権利を与えることになる」

カイロは俯いて渋い声で付け加えた。「もし符が代償を転嫁する装置であるなら、我々がそれを高固と共有することは最悪の選択になりかねない。彼らは軍事利用に目をつける。連合の同意の下でしか術は使えないといっても、権力はルールを曲げる。だから我々は慎重でなくてはならない」

リンナの内で、違う種類の痛みが広がった。夢の中の女が糸を投げるたび、誰かの体が薄くなっていく映像。それは詩的で、残酷でもある。彼女は自分が「乙女」だったのか、「操作者」を補強するただの媒介だったのか、その境目が消えそうになっていた。過去の英雄譚はいつだって二面を持つ。生き延びるための手段が、別の誰かの喪失を生むこともある。

「私には、歌を再現する権利があるのだろうか」リンナは小さく言った。「もしそれが誰かの代価を必要とするのなら、私は……私は何を守ればいい?」

ミルナはリンナの手を取り、強く握った。「あなたは槍姫だよ。だが槍姫である以前に、ここにいる人たちの一人だ。私たちは代価を誰にも軽々しく負わせるわけにはいかない。だから、調査は続ける。代替の具体を知らずに決断は下さない。だが情報が出た以上、隠しておくわけにもいかない。私たちは真実を見届ける義務がある」

リンナはうなずいた。だがうなずきながら、彼女の中で別の懸念が音を立てはじめる。前世の断片が増えると、自分の輪郭が薄くなる。術の使用によって累積した疲弊は、記憶を濃くすると同時に個を侵蝕した。ミルナの歌が彼女の中の古い像を明らかにするほど、リンナは自分であることへの確信を失っていった。術の代償は土地にだけ落ちるのではない。術者の内側にも、じわじわと侵食を始める。

「注意してほしい」カイロは手をテーブルに叩いた。「情報は武器だ。使い方を誤れば、それ自体が刃になる。ミルナ、君が手にしたものは重要だが、今は村の合意を最優先にしろ。公にするかどうかも、我々で決める。連合の会議で、詳細を説明しなければならない」

ミルナは少しためらった後、静かに頷いた。「わかった。でも一つだけ言わせて。もし『代替』が本当に必要なら、それを『誰か』の名に委ねるのではなく、『何か』の形で完了させる方法を探したい。水や歌、そして符の配置――古譜には、人工的な『代替物』を用いる余地が書かれている。代価を人に求めるのではなく、象徴で終わらせる可能性を探る。それが出来れば、術の倫理的負担は軽くなる」

その言葉は、小さな希望の粒であった。リンナはそれを聞いてからだの中の冷えが少しだけ和らぐのを感じた。だが同時に、現実は厳しい。象徴で終わらせるためには、「結び目」を実際に見て構造を理解し、符と石座の相互作用を確認しなければならない。そこまで踏み込めば、リスクは確実に高まる。夜空の条件、歌い手の精度、槍に垂らす血の一滴――術の条件は一つでも欠ければ