潮騎馬の王朝 第3話「第2章」
王宮の石階は朝の湿気を帯び、潮の匂いが簾の間を流れてきた。潮澄は朔礼と並んで階を上り、手には朝に拾った古紙の片を握りしめていた。紙の端はまだ塩で硬く、指先にざらつきが残る。葉乃は一歩後ろで、肩を震わせながらも顔を上げていた。王宮の門をくぐると、黒光りする廊下に王の紋――三つの波形が織り込まれた緋の掛け布が垂れているのが目についた。三波。朝の陽を受けて、紋は低く、しかし確かな存在感を放っていた。
王宮の石階は朝の湿気を帯び、潮の匂いが簾の間を流れてきた。潮澄は朔礼と並んで階を上り、手には朝に拾った古紙の片を握りしめていた。紙の端はまだ塩で硬く、指先にざらつきが残る。葉乃は一歩後ろで、肩を震わせながらも顔を上げていた。王宮の門をくぐると、黒光りする廊下に王の紋――三つの波形が織り込まれた緋の掛け布が垂れているのが目についた。三波。朝の陽を受けて、紋は低く、しかし確かな存在感を放っていた。
「王子殿下。摂政衛瑠が間もなくお出でになります」案内の侍従が一礼して言った。潮澄は深呼吸をし、胸の中にぽっかり空いた穴の冷たさを確かめた。あの喪失はまだ生々しく、しかし彼にはそれを癒す術がなかった。潮読の代償は静かに、しかし確実に彼の内側を削っていく。
会議室には摂政・衛瑠(えいる)がすでに腰を下ろしていた。摂政の顔は厳格で、眉の間には疲労が刻まれている。隣には幾人かの廷臣と、朔礼のほかに一人、礁商連の代表らしき男が控えていた。男は商会の徽を胸に付け、丁寧だが自信に満ちた口調で礼をした。部屋の奥にはいつもの学者席が空いており、紗蓮の名札がそこに掲げられていたが、彼女はまだ来ていないらしかった。
衛瑠は潮澄を見据え、細く息を吐いた。「王子殿下、先刻の家系帳断片について、摂政庁は極めて重要と判断した。王室の系譜に関わる文書は国家機密に値する。故に、これを以て公にするわけにはいかぬ」
朔礼の手が潮澄の鞍の革を掴むときのように堅く、その言葉は房舎の湿気を切る。潮澄は紙を小さく折り畳み、懐に押し込んだ。「何故ですか、衛瑠さま」葉乃の声がはっきりと割り込んだ。若いがはっきりした声で、民の代表のように響く。潮澄はその勇気に、心の奥で小さな光を感じた。
衛瑠は葉乃を一瞥して、そして王子に向き直った。「王家の潮読は王の権威の根幹である。潮譜は国の航路であり、同時に治の基盤だ。もし系譜の一部が露わになれば、沿岸民の不安は計り知れない。秩序が崩れれば交易は滞り、何より潮騎馬隊の信頼が損なわれる。私は、そのような混乱を避けねばならぬ」
彼の言葉は実務的で冷たく、しかしそれは権力の論理だった。だが向かいに座る礁商連の代表は、軽く笑って反論した。「摂政様、しかし現代は情報の時代です。潮騎馬の技術を一定の手順で共有し、管理下で民間と協働すれば、交易は拡大します。秘密にしておくほうが、逆に不満と猜疑を生みます。我々は潮読器具の標準化や潮巻の図の複製を提案します。公正な利潤配分と監督機関を付ければ、王権の威光は保たれるでしょう」
その提案には、廷臣の何人かが眉をひそめた。朔礼は目を細め、内心の警戒を隠さなかった。潮読は「手順」だけでは済まない。馬との接触、干潮時の海底踏破――それ自体が儀式めいた行為であり、禁止事項と代償が伴う。朔礼は潮騎馬の技術を何よりも公共財として、国家の管理下に置くべきだと考えているが、民間商人に渡すことは、潮読の倫理を侵す危険を孕む。
葉乃は商人に向かって顔を顰めた。「あなた方はそれで自分たちが儲かることしか見ていない。うちの村は潮巻で生計を立てている。もし潮騎馬が商人の手に渡れば、私たちは値下げされ、追い出されるかもしれない。潮を読むっていうのは、ただの技術だと思っているの? 潮には人の記憶があるって、私たちはそう信じてる。勝手に弄らないで」
商人の代表は流石に顔色を変え、言葉を選んだ。「我々は管理下での利用を提案しておる。国家と協定を結び、監視役を設けることもいといません。だが、技術を閉ざしては交易と繁栄を失うのも事実です」
衛瑠は沈黙のまま、潮澄を見た。王子は胸に押し込んだ紙片の重みを感じ、あの朝の冷たい喪失を思い出した。潮読の代償の個人的な痛みは、国家の問題として棚上げされがちだ。だが彼はまだ十七であり、王家の者としての立場が彼の行動を拘束する。
「王子殿下、ここは公的な判断が必要です。潮騎馬の運用に関し、王の名の下に声明を出すことも検討している。あなたの言葉を以て民心を鎮めることができるならば――」衛瑠の声は低く、誘惑めいて聞こえた。「王子が公式に公衆の前に立ち、王室の立場を示していただきたい」
朔礼の顔がわずかに硬直した。潮澄はそのとき、師の静かな警告を思い出す。潮読の使用は公共財であると同時に、王家の秘密が一片ずつ露わになる行為だ。公の場で王子が潮を読むという示威は、逆に更なる潮譜片の露出を招きかねない。だが摂政は「秩序維持」の名目で彼を前面に出そうとしている。
潮澄の口から出たのは、予想よりも柔らかい声だった。「私が…公に出ることで、何が守られますか。見せるだけで、本当に不安は消えるのですか」彼は自分の問いに苛立ちを感じた。体の中の何かが、忘れた顔の喪失を通して彼に静かな怒りを与えている。
葉乃がすぐに答えた。「見せるだけじゃ駄目だよ。示すならば、真実も示してほしい。どうやって守るのか、誰がその守りを操るのかを。隠すことが本当に民の命を守るなら、そりゃいい。でも隠すことがただ王の特権を守るためなら、私たちはそれを受け入れない」
衛瑠は唇を噛み、短く笑ってから言った。「王子殿下、摂政はあなたの立場を利用しようという意図はない。だが状況は流動的だ。家系帳の断片は重要だ。情報が流布すれば、取り返しのつかない事態も想定される。公衆の不安が暴動に繋がれば、沿岸の命が失われる。そのための統制は必要だ」
朔礼は一歩前に出て、低く声を落とした。「摂政、しかし統制と秘密は別物だ。我々は潮騎馬の倫理を守るために存在する。潮読は決して兵器にしてはならない。民を犠牲にして秩序を保つような選択は、隊として採れぬ」
会議室の空気が張り詰める。商人は舌打ちをし、侍臣の何人かは顔を伏せた。潮澄は自分の両手を見つめた。彼は王子であり、潮騎馬の継承者でもある。だが彼には個人的な代償がある。公の場で潮を読むことは、国家の信用を守るかもしれない。だがそのたびに、潮譜片が露出し、彼の私の記憶が更に消えていく。彼は何を守るために何を失うのか――その天秤が重く揺れた。
「王子殿下の判断を仰ぎたい」衛瑠は静かに言った。「国の安寧のために、あなたが短い声明を出ることを。公に王室の管理体制を示し、礁商連の提案に対しては一時凍結を宣言する。その代わりに、王室は沿岸代表と連携し、当面の保護措置を講ずる。従わぬ場合は強硬手段も辞さぬ」
潮澄の心臓は荒くなった。葉乃の瞳が彼を捕らえる。朔礼の指先が鞘の緒を掴むように硬直した。潮澄は紙片の端を爪先で押し、断片に潜む「浄化」という黒い縦線を思い出した。海が返したものは、王家の過去を示している。隠せば秩序は保たれるかもしれない。だがその隠蔽は、また別の代償を生む――誰かの命、誰かの土地、誰かの記憶。
「僕は……」潮澄は言葉を選んだ。「公に出ます。ただし条件を一つだけ。公の場で潮読は使わない。言葉で示すだけにする。代わりに王室は沿岸の代表と協議を重ね、今後の運用は民の声を反映させることを約束してほしい」
衛瑠の眉が上がった。彼は一瞬の沈黙の後、冷たい笑みを作った。「興味深い。あなたは王子としての権威を保ちつつ、技術的な行使から手を引くというわけか。だが口で示すだけで民