冬宮の若き執政 第9話「第8章」
窓の外で雪が細かく砕け、夜な夜な街路を埋めていく。倉庫の内部は寒気が充ち、集められた硝子の断片が白い光を跳ね返していた。礼は茅がめくる帳簿の頁を見下ろし、ユウの言葉を反芻した。リュカス執政──都に顔の利く名。そこに、監督と称する北街の役人の印影。指名された者たちの名は、氷の下で長年眠っていた悪臭を引き剥がしたように、礼の胸に重く落ちた。
窓の外で雪が細かく砕け、夜な夜な街路を埋めていく。倉庫の内部は寒気が充ち、集められた硝子の断片が白い光を跳ね返していた。礼は茅がめくる帳簿の頁を見下ろし、ユウの言葉を反芻した。リュカス執政──都に顔の利く名。そこに、監督と称する北街の役人の印影。指名された者たちの名は、氷の下で長年眠っていた悪臭を引き剥がしたように、礼の胸に重く落ちた。
「その名が出た以上、ただの商会の陰謀とは言えない」と茅が低く言った。彼女の指先が帳簿の縁をたどると、符丁の線が地図のように連なって見えた。硝子片を製する工房、運送を仲介する倉、秘匿された港……符丁は北へ、さらにその先へ続いていた。礼は指の先に冷たさと、見慣れた景色の重なりを覚えた。匿名の部屋の床板と同じ木目が、帳簿の微細な走り書きと一致したことを思い出す。あの夢の断片は、確かにここに接続している。
「証拠は持ち帰り、整理して公に出すべきだ」と相模結が静かに言った。彼女の声は冷徹でしかし穏やかだった。相模は既に王室との接触を継続する手はずを整えようとしていた。だが礼には、彼女の目の奥に動揺の波紋が浮かんでいるのが見えた。王室は内部協力の疑いに敏感だ。表沙汰になれば、都の体面が損なわれ、無関係な村が責められる。礼はそれを恐れていた。
白沼拓海は拳を固く握ったまま、倉庫の隅にいた。彼の耳には既に港で聞いた噂が鳴り続けている。運び屋の名簿、賄賂の入金先。白沼の直感は一つだった――速やかに現場を押さえ、端から切り崩す。だが礼は深く息を吐いた。
「ここで公に曝け出すと、たくさんの『ただの従業員』が巻き込まれる。ユウだって、そのうちの一つだ」礼は硝子片を掌で転がしながら言った。掌に伝う冷えが彼の決意を冷やした。氷版を今使えば、場の真偽は一挙に浮かび上がるだろう。だが条件と代償が彼の胸を掴む。氷版は、発声と情動が揃ってこそ真を刻む。人の声を加減して場を作れば、氷は容易に嘘を栄えさせる。更に彼が氷版を過度に使えば、消える記憶が増える。礼は自分の中に残った友情や約束を、もう失いたくなかった。
「氷は使わない。少なくとも、今は」礼は断言した。「証拠を整理して――都に持ち帰る。ただしその過程で、運送路と工房の拠点は押さえる。白沼、君は港に行き、運び人と雇い主の痕跡を追ってくれ。葵、発声補助の機構を持ってきた者たちの名簿を洗い直して。相模、王室には時間稼ぎを頼む。茅、古律の抜け穴がここにも適用されるかを確認して」
相模は短くうなずき、白沼は歯を食いしばった。葵は既に共鳴器の破片を布に包み、器材の材質と刻紋を指先で確かめている。茅は帳簿の一角を指差し、そこに微かな符丁が隠れていることを示した。礼は見回した。皆がこの場にかけるものを持っている。だが、誰も氷版による一発逆転を望んではいなかった。望むのは、民を守る確かな手順だ。
「ただし、都に持ち帰るにしても、届く先を慎重に選ぶべきだ」と茅が声を潜めた。「この符丁にある印影は、官房を通じた補助がある。もし帳簿をそのまま上に上げれば、帳尻を合わせる者たちが動くだろう。条文化の手続をここで早急に固める必要がある。公開審理に持ち込む前に、我々の側で制度的な根拠を整備しておかねば」
礼は茅の案の重みを理解した。茅はいつも、制度を盾に取る術を知っていた。だが制度の整備には時間がいる。虚冠の網は、既に都の内側に幾つもの糸を張っている。相模が王室との交渉で噛み合わす時間を稼げるか否か。礼は雪の外套をまとった影を思い出す――倉庫の窓外にいた、先刻の見張りだ。彼らは既に動き出している。
「今日のうちにいくつかの拠点を押さえられれば、都での動きを制限できる」と白沼が言った。「港は俺に任せろ。だが一つ言わせてくれ。静観ばかりしていると、あいつらは更に手を伸ばす。民の血で間に合わせようとするぞ」
礼は白沼の言葉に頷きつつも、彼の感情の昂ぶりが更なる過ちを呼ぶことを恐れた。白沼は行動の男だ。ときにそれは救いだが、ときに大きな波紋を立てる。礼は彼を止めるべきか、信じるべきかで揺れた。
「君が港で確実に押さえられるなら行ってくれ。ただし、無闇に暴力を振るってはならない。巻き込まれる民の顔を忘れないでくれ」礼は言った。白沼は唇を引き結び、厳しい目を礼に向けた。「わかっている。だが俺は――」言葉を切って頬をこわばらせる。白沼のその様子が、友の失わんとする熱を示していた。
葵は帳簿の匂いと硝子の冷えを確かめながら、ふと小さく声を上げた。「ユウの証言に、出荷前に『整えるための呪句』を唱えさせられたと書いてある。彼は最初は馬鹿にしていたと。だがある時期を境に、ラテン話のような音の連なりを覚えさせられ、唱えないと運搬を任せてもらえなくなったと――その音節が、礼さんの夢の一節に似ている」
礼の胸の内が冷たく締め付けられた。夢の中で彼が聞いた「忘却」の響き。匿名の部屋で低く反復されたあの言葉の音節が、現実の現場で再び用いられている。葵が読み上げた帳簿の走り書きを、礼はもう一度視覚化する。音節は符丁に刻まれ、硝子を渡る音として用いられていた。虚冠は古代の儀式語を模して、人々の情動を触発していたのかもしれない。
「この件は──ただの商会の利益追求を超えている」と相模が吐き捨てるように言った。「もし都の一部が深くかかわっているなら、我々だけで決着をつけることはできない。王室の隠蔽の可能性もある。私が王室側と接触する。だが、公の場に出すタイミングは慎重に判断する。礼、君が先に動くと、君が標的にされる。君を盾に使うようなやり方は――」
「僕を盾にするつもりはない」礼は強く言った。「だが、僕が逃げたら、もっと多くの犠牲が出る。氷版を使えば目の前の真偽は確かめられるだろう。でも代償は僕の記憶だ。僕は、失った記憶で人間関係を壊すほど安易ではない。だから我々は慎重に、内部から締めていく。証拠を積んで、決定的な一撃を与える──それが正しいならば」
相模は礼をじっと見つめ、やがて重い溜め息を吐いた。「わかった。だが私も動く。王室を抑えて、君の背中を守る。だがその代わりに、君は私に情報を委ねること。独断で氷を使うな。約束だ、礼」
礼は小さくうなずき、手の中の硝子片を再び抱え直した。それは冬灯の持つ断片と同じ空気を湛えている。触れた瞬間、また夢の底から何かが浮き上がった。匿名の部屋の床、低く囁かれた言葉、そして彼の手がどこかを押し留める冷たい感触。礼はそれを振り払おうとするが、完全には消えない。
そのとき、倉庫の外で足音がした。礼たちは即座に身を低くし、戸口に集まる。影が一つ、雪煙をかき分けて近づいて来る。黒い外套に隠れた者は短い笛を吹き、やがて相模の携帯していた小型の王宮印章を掲げた男が現れた。王室の使者だ。彼の顔は蒼白で、手には簡潔な文書が握られている。
「執政楠木礼殿へ」使者は凍えた指で文を差し出した。「王宮より、直ちに捕縛した者と物証を王室へ提出せよとの命が下されました。躊躇なく処罰を行い、秩序を回復せよ、とあります」
礼はその文に目を落とし、紙の上に押された印影を見た。王室の刻印が冷たく光る。相模の顔が一瞬硬直した。王室の指示は、これまで彼女が内部で交渉して