忘却王国のノア

忘却王国のノア 第14話「終章」

雨はすっかり上がって、瓦屋根の滴が乾いた。空気にはまだ湿り気が残り、石畳は夜の光をわずかに反射していた。王都の通りは、さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返っている。リゼはそれが不気味でならなかった。誰もが自分の過去をつまびらかに手にしていたあの国で、路上に残された沈黙は新しい種類の不安を孕んでいた。

雨はすっかり上がって、瓦屋根の滴が乾いた。空気にはまだ湿り気が残り、石畳は夜の光をわずかに反射していた。王都の通りは、さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返っている。リゼはそれが不気味でならなかった。誰もが自分の過去をつまびらかに手にしていたあの国で、路上に残された沈黙は新しい種類の不安を孕んでいた。

ノアは、並んで歩く彼女の横で顔をあげもしない。目は開いているが、その中にあるのは、採算を抜きにした機械のような注意だけだ。彼の指先が、古びた鉄の手すりに触れ、きちんとした順序で沿っていく動作を、リゼは無意識に追っていた。技師の所作だ。彼が誰かを憶えているかどうかは別として、身体が覚えている仕事の癖が確かにそこにあった。

「覚えているか?」と、リゼは訊いてみた。問いはリハーサルのように用意されたものではない。長くて冷たい裁判の夜の後、彼女の中に根を張った誓いが、まだ生きていることを確かめたかったのだ。リゼは約束した。ノアが自分で思い出せなくなってしまっても、彼の『今』を私が覚えていると。

ノアは口を開けたが、答えは彼女の期待を満たさない。言葉は淡く、空中に散った。——「君のことを、誰かが話しているのは聞いた。けれど、そこに僕の感覚はない」

その簡潔な無頓着が、リゼの胸を刺した。彼女の誓いは、言葉で支えられるのではなかった。守るべき相手が記憶の糸を失っているなら、彼女がその糸を代わりに紡ぐしかない。だがそれは前世の処刑人としての彼女にも、重い抵抗を呼び起こした。過去の判決が今の人々を締めつけるのを見過ごしてきた自分が、今度こそ「記憶を守る」側に立つことは、どこか贖罪めいていた。

リゼはノアの腕に手を触れ、掌の温度を確かめる。彼の手のひらは少し震えていた。震えは恐怖とは限らない。むしろ、身体の深い所で残された技能が、今ここでの選択を助けようとしている気配だった。リゼはその感触を信じることにした。かつて刃を握ったときの確信とは違う、別の確信だ。

「私は覚えている」と、リゼは静かに言った。「あなたが誰だったかを、言葉で返すことはできないかもしれない。だけど、ここにいること、今私があなたを見ていることは、忘れない。誰かにとってそれが証拠にならないとしても——私は、覚えている」

ノアは少しだけ顔を上げ、彼女を見た。目の奥に一瞬、何かが揺れた。それは過去の記憶ではなく、理解の芽生えだった。リゼは笑おうとしたが、笑顔はすぐに艶を失った。彼女の前世の影が、ちょうどその時に背中から伸びてきて、冷たく首筋を掠める。処刑台の木目、罪人の最後の声。彼女はそれを掌の中の炭のようにしてぎゅっと握りしめ、火が出そうな場所だけを指で塞いだ。

地下の炉室へと続く扉の手前で、トトとユリウス、カイ、ミナが待っていた。トトは額に汗をにじませ、紙片の端を指で押さえている。ユリウスはまだ顔に青白さが残り、王族の落ち着きを失っていたが、肩の上に乗る英雄人格の影は、たまに短く唸りを漏らす。カイは剣を納めた後でも筋肉の緊張を解かず、ミナはまだ自分の名前を口に出すことに慣れていないらしく、小さく息を飲んでいた。

炉の扉は開いていた。中からは、淡い光の帯が螺旋を描いて伸びている。記憶晶の回廊だ——だが今日はいつもと違う。晶たちは静かに浮かび、その表面に国中の人生が刃で刻まれた版画のように映っていた。その映像の輪郭は、どこか不安定で、たしかなものを拒む白い空白を帯びている。白い地図の余白だ。

奥のコンソールに近づくと、金属と晶の融合した機構が低く唸った。トトが手を伸ばし、細いケーブルを取り出す。装置はこれまでの解析で示されたように、経験と解釈と余白の層を分離しうる構造を持っていた。トトは繋げば炉の動作を限定できると言った。リゼはその理屈をある程度は理解していたが、それでも心の底では不安を抱えていた。装置が動けば、また――何かが失われるかもしれない。

「彼が操作を——」トトが言いかけた。

ノアは自分の足元にしゃがみ込み、床のひびに指を当てた。彼は誰かに教えられたわけでもなく、自然に周囲の傷や溝をなぞり、金属の継ぎ目を探した。そして、突然、手を伸ばして一つの小さなパネルを外した。その動きは躊躇がなく、まるで長年そこに触れてきたかのように正確だった。リゼの目にはそれが、彼の前世から残った技能の残滓に見えた。たとえ彼が自分の名や出会いを忘れてしまっても、彼の「できること」は残っている。

トトは驚きの色を浮かべたまま、ノアの行為を見守る。「やめるな、そこは——」と彼は言いかけたが、ノアは小さなレンチを見つけ、手早く噛み合いを直していった。彼の動きは技師のそれで、無駄がない。機械の呼吸が変わる。晶の光が一瞬だけ鋭く震えた。

だがその瞬間、炉の奥から声が返ってきた。最初は機械音の混じった残響のようだったが、次第に明瞭になり、耳に残る人の声へと形を変えた。ノアの耳には、自分の転生前の口調に似た響きが含まれていた。リゼはそれを聞いて背筋がぞくりとした。声は低く、飄々としているが、どこか優しさを湛えていた。

「この世界の前世は、ある観測者の夢の写しである。保存を継続するか否か、主体の意志に委ねる」

言葉は機械的だが、その含意は巨大だった。もしこれが真実なら、全ての記憶は一人の夢に端を発している。人々が抱いていた「固有の前世」とは、思い出の固まりではなく、誰かの観測によって生じた像に過ぎないのかもしれない。リゼの胸の中で、処刑を執行した記録と被告の涙が混ざり合って、彼女を重くさせた。

トトはケーブルを握りしめ、目を見開いた。「観測者の夢……そんなことがあり得るのか。もし炉がそう認識しているなら、我々は——」

ユリウスが、しかし先に口を開いた。「問いはそこにある。保存するか、さもなくば、これまで積み上げられた『確かさ』を放棄することになる。私は自分の体が何で満たされているのかを知りたい。だが同時に、国民が一律の過去を共有することに安堵を感じていた人々もいる」

カイは無言で剣の柄を指に触れた。彼の中の英雄が、いま静かに耳を澄ませている。ミナは小さな声で、しかしはっきりとした調子で言った。「私は、私の名前でいたい」

リゼは、その声を聞いて胸が締め付けられた。ミナの言葉は、ここでの決定が個人的な尊厳と直結していることを突きつける。前世の権威によって選ばれた道を生きるか、それとも自分で道を選び直すのか——それは抽象的な思想の問いではなく、夜に泣く誰かの明日を左右するものだ。

炉の声が再び聞こえた。今回はもっと近く、彼女の鼓膜に直接働きかけるようだった。最後に付け加えられた語句には、奇妙な親しみが混じっていた。「保存を続行するか。あるいは、新たな余白を開くか。選択は、あなた方の現在の合意による」

誰も答えなかった。答えを出す権利が誰にあるのか――それを巡る沈黙が、厚く横たわった。リゼは自分が先に答えてしまうのを恐れた。なぜなら、先に言葉を放った瞬間、処刑人としての習性が戻ってくるかもしれない。彼女はこれまで、過去を根拠に人を裁いてきた。いま自分の言葉が、誰かの未来を閉ざす刃になりはしないかと怖れた。

ノアが、ゆっくりと立ち上がる。その動き