忘却王国のノア

忘却王国のノア 第10話「第九章」

ユリウスは、自分の胸の奥で二つの声が押し合うのを感じていた。ひとつは自分のものだ。淡く、かつて誰かに寄り添い続けた医師の声。患者の冷たい手を握り、脈を取り、呼吸を整えるために体温を感じた記憶が、静かに――しかし確かに存在している。もうひとつは、遠くの戦場から戻ってきたような、古い鋼と鉄の匂いを伴う声だった。大歓声と鎧の擦れる音、勝利の名を刻む誇り高い断定。それは自分の胸を占領しようとする侵入者のようでもあり、同時に自分を救いに来た英雄の帰還のようでもあった。

ユリウスは、自分の胸の奥で二つの声が押し合うのを感じていた。ひとつは自分のものだ。淡く、かつて誰かに寄り添い続けた医師の声。患者の冷たい手を握り、脈を取り、呼吸を整えるために体温を感じた記憶が、静かに――しかし確かに存在している。もうひとつは、遠くの戦場から戻ってきたような、古い鋼と鉄の匂いを伴う声だった。大歓声と鎧の擦れる音、勝利の名を刻む誇り高い断定。それは自分の胸を占領しようとする侵入者のようでもあり、同時に自分を救いに来た英雄の帰還のようでもあった。

「弱い。医師であるお前は弱い。剣を取れ、王都は弱さを許さない」

英雄の声は断定する。だがユリウスの指は震えながらも、頑なに布の縁を掴んだ。彼は医師だった。人の痛みを見て、手当てをした。誰かが苦しんでいるとき、身体を預かることが自分の存在証明になる。だが近頃、彼は自分の記憶の輪郭に小さな疑いを見つけていた。幼い頃の診療室の匂い、患者の名前の羅列、手術室の灯り――それらが本当に自分の選択だったのか。国家が刻んだ解釈ではないのか。胸に寄り添う英雄の記憶は、いつからそこに挿入されたのか。誰かがその縫合を行ったのだと、感覚が告げていた。

窓の外、王宮の庭の石畳に月が差す。静寂の合間に、遠くで足音が聞こえた。最初は微かな布擦れだった。吐息のように、影が自室の縁をなぞる。だがそれは恐怖ではなかった。ユリウスはなぜか安堵した。だれかが来る。助けに来る人間がいる。

扉が静かに開き、暗がりに人影が滑り込む。黒衣の者、剣を帯びた者、そして小柄な少年が、痛みを帯びないまなざしで彼を見下ろした。少年の眼は深い。しかしその目は、誰かの前世の名を語るようなものではなく、今の問い――「あなたは何をしたいのか」を直接に訊ねてきた。

ノアは、晶に触れずに立っていた。ユリウスはそれを見て驚いた。記憶晶に触れれば真相へ近づくと言われる世界で、触れない者の冷静さは異様だった。少年の手は技師のそれのように繊細で、指先には機械を理解した者の油塗れがある。二度目にその指先がユリウスのそばに差し伸べられると、無言のうちに包帯が取り出され、血の乾いた痕を整えられた。ノアの所作はぎこちなく、だが確実だった。彼は技術に触れた者の手つきで、人の体を扱った。

「ユリウス殿下、今、何をしたいのですか」

問いは泣き声でも怒りでもなく、単純な器械音のように澄んでいた。ユリウスはその問いに、英雄の声が慌てて割り込むのを感じた。英雄は勝利のために即座に行動を求める。だがユリウスは、医師としての冷静さを掴んだ。彼は自分の胸の鼓動を確かめ、ゆっくりと答えた。

「人を治す。だからここにいる。誰かを刺して王都を救うのが、僕の役目だとは思わない」

英雄の声は嘲る。だがユリウスは続けた。「だが、あなたの記憶も無視はしない。あなたが戦った過去、そこにあった痛みや犠牲も、無価値ではない。だけど――それを僕の体を奪う理由にはできない」

ノアはじっと彼を見つめ、無言で小さく頷いた。ユリウスは自分の判断が、単なる甘さではないことを知りたかった。自分が本当に「医師だった」と言っても良いのか。誰かが与えた役割にすがっているのではないか。だが拳に力を入れると、冷たい皮膚の感覚が返ってきた。現実の重みが自分のものだ。

逃走の間、近衛兵が四方から押し寄せてきた。英雄の身体が勝手に筋肉を起動させ、ユリウスの腕を引き寄せる。剣が手に滑り込み、刃先が光を引いた。だがその剣を握りしめた瞬間、ユリウスは自分の意思を押し通した。彼の手は剣を支えさせるのではなく、あくまで自分の平衡を保つために使われた。英雄の力が全開されると、確かに戦闘は圧倒的になった。動きは美しく合理的で、剣捌きは教科書のように完璧だった。しかしユリウスは、それを「自分が選んだ行為」としてではなく、外部からの筋肉の引き出しとして感じていた。違和感の方が、勝利の感覚より強かった。

激突のあいだ、リゼは横合いから敵の頸動脈を狙い、無駄な血を出さずに敵を無力化した。彼女の動きは処刑官の技巧そのものだが、その顔の端には心配の皺が深く刻まれている。ユリウスはリゼの目を見た。そこには彼をただの装置として見る冷たさはなく、彼を救いたいという強い意志があった。その眼差しが、ユリウスの中で何かを確かめさせる。英雄の叫びはやがて怒りに変わり、だがその怒りは徐々にトーンを落としていった。

戦闘が終わると、トトが近づいてきて、懐から小さな機器を出した。歯車と薄い金属板、そして透き通った小さな結晶が組み合わされている。トトはその結晶をユリウスの胸に当てて、ほとんど囁くように言った。「これは、誰かが君を『導く』ために埋めたものだよ。単なる飾りじゃない。動作の鍵、回路のように君の神経と接続されてる」

ユリウスは息が詰まった。手のひらに落ちる冷たい事実。トトが示した透過映像には、胸部の軟組織の中に埋め込まれた小さな記憶晶が映っていた。晶の表面には細い線が彫られていて、それはまるで地図のように見えた。トトの声は続く。「これが起動すると、特定の刺激で君の体がその『道』を辿るように反応する。言葉を変えれば、君は大回帰の鍵として設計されていた」

「設計されていた、って?」ユリウスは震える声で問うた。胸の中で、英雄が誇らしげに笑う。だがその笑いは、ユリウスの中で空虚に響いた。「王都を守るために、お前を使え」と英雄は言う。しかしユリウスは即座に反発した。「僕を道具にするのか。僕は僕だ」

トトの目には怒りがにじんでいた。彼は技師然と装置を操作しながら説明する。「この晶は、物理的な鍵であり、心理的なトリガーだ。外からの指令や、特定の記憶刺激で活性化する回路がある。誰かが君を『導き』たがったんだ。ヴァルドが直接そうしたなら、もっと怖い話になる。だが少なくとも、君の体は誰かの計画の一部だった」

ユリウスは手を胸に当てた。結晶の位置を指先の感覚で確認すると、まるで冷たい石がそこに確かに触れているのがわかった。怒り、裏切られたという感情が熱を帯びて湧いてくる。だが同時に、医師としての本能が顔を出した。誰かの体が壊れていたら、治さなければならない。自分が道具にされた事実は、治療の対象になり得る。

「この晶を摘出すればいいのか」ユリウスが訊くと、トトは首を振った。「簡単にはいかない。晶は神経に融合している。無理に引けば、運動機能や記憶の一部を失わせる危険がある。しかも、回路の設計は『導き』だけでなく、起動したときに炉へ導く役割もある。炉は君の中の地図を読み、君を地下に導く。つまり、君は意図せずして中枢炉へ導く鍵運び人になる可能性がある」

言葉の最後で、ユリウスは自分の顔が変わるのを感じた。怒りは悲しみに変わり、悲しみは決意に変わる。彼は胸を張って、はっきりとノアを見た。少年の目が改めて彼を捉え、そこには問いの残像がある。今、何をしたいのか。

ユリウスは息を整えた。医師としての彼は、まず患者である自分の状態を理解し、それに基づいて行動する者だ。だが今は、もっと単純な命題があった。誰かに利用されるのか、それとも自分で道を選ぶのか。彼は目を細め、決めたように言った。

「炉へ行く道を、僕が選ぶ。君たちの