孵化前の和平使節

孵化前の和平使節 第7話「第六章」

洞窟は生きていた。ラグの足が踏み込むたび、岩の奥から低いうねりが返り、祖先の呼吸のように胸の奥を揺らした。湿った石の匂いの中に古い焔(ひ)と獣毛、乾いた羽毛の匂いが混ざり、何百年もの歌が貯まった空気が舌の裏に引っかかる。外の雨と戦火のにおいはここまで届かず、代わりに時間の匂いだけが厚く層を成していた。

洞窟は生きていた。ラグの足が踏み込むたび、岩の奥から低いうねりが返り、祖先の呼吸のように胸の奥を揺らした。湿った石の匂いの中に古い焔(ひ)と獣毛、乾いた羽毛の匂いが混ざり、何百年もの歌が貯まった空気が舌の裏に引っかかる。外の雨と戦火のにおいはここまで届かず、代わりに時間の匂いだけが厚く層を成していた。

卵を抱く腕は濡れて冷たかったが、ラグはそれを忘れていた。卵の黒曜(こくよう)を覆う殻は暗く、ところどころに金色の筋が走る。幼い竜とはいえ、抱くとこちらの骨までしなるような重みがあった。ミナは背中で震えながらも、足取りを速める。外套の下で握った巻物が指に食い込む音が、ラグの内耳で小さく鳴った。

「ここで待て」と、洞窟の奥から声が届くでもなく、波のように脳裏を撫でた。言葉ではなく、意志の輪郭を残すような低い唸り。ラグは無意識に身をかがめ、爪先で岩を掴んだ。血がざわめき、古い痛みが歯茎の奥で疼く。母の顔が、影のように浮かんで消えた。

「セグナ」ミナは囁くように、その名を出した。名はここで悪魔でもなく、祈りでもない。単に存在を呼ぶための合図だった。だがラグの体内ではその音が波紋となり、古竜の眠りを揺り起こした。

洞窟の内壁には、深く刻まれた爪跡が連なっていた。一本一本の傷は曲線を描き、そこに奇妙な文様が刻み込まれている。ラグはそれを見て、胸の奥がぎゅうっと締めつけられるのを感じた。あの日の空の形、母の声、焼けた村の匂いが一瞬にして戻ってくるようだった。誰がどう刻んだかはわからない。ただ、この場所が何かを覚えているということだけが確かなのだ。

「来たか、若い守り手」洞窟の中心から言葉が流れた。単語はない。それは歌の断片であり、記憶の破片を押し出す波長だ。ラグは答えようとしたが、声は出なかった。竜の言葉は口を通さず、胸腔と頭蓋に伝導する。ラグの意志は震え、卵を抱く腕がぎゅっと締まった。

影が動いた。岩の一塊のように見えた体が、ゆっくりと姿を現す。老齢の古竜だ。鱗は煤けた銀のように鈍く光り、眼は燃え残りの炭火のように赤い。年輪のような皺(しわ)が鱗の列を刻み、口元には何度も歌を練り上げた痕跡が残っていた。彼が息を吐くと、洞窟全体が声帯となり、古い合唱が波紋となって遠くの岩場まで響いた。

「俺はセグナだ」と、その一声がラグの心に刺さる。セグナは言葉を選ばない。彼の真実はいつも直接的で、廃墟のような断面を見せつける。「人間は盟約を破った。空と地の分かち合いを裏切った。待っていたのは裏切りだけだ」

その主張に嘘はない。少なくとも、セグナ自身にとって嘘ではない。ラグはその確信を嗅ぎ取り、血の中に火がともるのを感じた。母の死が、その言葉に釘付けになって蘇った。最後に見たのは空を裂く炎、地を焼く轟音、母が空へ昇るときに残した短い歌の切れ端だった。誰が何のために火を放ったか――若い竜の目にはそれが人間の手による襲撃に見えた。だから、セグナの断罪は自分の痛みに柔らかく収まる。

「母は……」ラグは口を開いた。声はまだ幼く、どこか震えていた。「彼らが——」

「燃料を弄ぶ者どもだ。言葉を偽り、歌を盗み、空を裏切った」セグナは遮るように歌の一節を唱えた。その歌は古い譜面のように重く、聞く者の胸骨を押し広げる。ラグはその中に、自分が立っている世界の形が映るのを見た。母の死が、条文に裏打ちされた何か大きな裏切りの輪の一端と結びついている図が。怒りは確信となり、空気は熱を帯びる。

ミナは震えながら岩に膝をついた。人間の歌はここではひどく頼りない。だが彼女は声を押し殺し、巻物を胸に抱えて何かを願うように目を細めた。ラグは気づいた。ミナの手に汗が浮かび、指先は白く爪へ食い込んでいる。彼女は恐れていた。卵を守るのと同じくらいに、自分と村を守ることを。

「お前はあの黒曜を抱いている。人間の記憶を内に宿す卵だ」セグナはゆっくりと近づき、ラグの前で尾を床に滑らせた。彼の鱗の一枚一枚が時の層を語る。眼が卵を見据えたとき、ラグは古竜の内側に渦巻く計算と欲望を見た。それは冷徹で、まるで氷でできた武器のように当たり前にそこにあった。

「それがあれば、我らは終わらせられる。人間の恐怖を歌へ取り込み、群れの意思を結べる。拒絶はない。裏切りは消える。すべてが一つの断片の歌になるのだ」

その言葉は餌と罠を同時に含んでいた。ラグは爪先で岩を削る。内側から母の最後の叫びがまた押し寄せる。思考と感情が戦場になり、ラグの中で二つの自分が引き合う。一方は母を抱く腕の熱さを思い出し、返せない怒りに燃える。もう一方は、卵を使って一斉に人間を叩けば、他の幼竜が安全になるという冷静な計算があった。

セグナは続ける。「お前は守ると誓ったな、ラグ。だが見るがいい、守り方は複数あり得る。刃で守ることもある。刃ではなく、恐怖を共有し、再び我らが空を取り戻す方法もあるのだ」

ラグは振り返った。卵の表面に自分の顔が歪んで写る。そこに小さなひびが入っているのは、ラグが気づかなかったわけではない。工房での爆発の震えは、黒曜の殻を微かに揺らし、内側の金色の線を露わにした。ラグはそのひびを見て、胸の奥に冷たい後悔が広がるのを感じた。もし卵の声が一度でも翻訳を行えば、殻はさらに砕け、何かが永遠に失われる。母の顔を思い出すたびにラグは知っていた。手に入れるものがあれば、必ず失うものがある。

「お前は、どう思う?」セグナは穏やかに問うた。問いの中には軍隊の隊長のような計算も、父親のような悲しみも混じっていた。「若い守り手よ、選べ。戦の長さか、種の安全か」

選べ。ラグの内側で、その言葉が雷鳴のように鳴った。選べばそこには確実な結果が伴う。だが選ばなければ、痛みは続く。ラグは母の手の硬さを思い出した。彼女は空へ逃れ、翼を震わせ、何かを守ろうとした。守られるべきものは何だ。答えを探しながら、ラグは自分の爪を噛む。歯の跡が血となり、岩に赤い点を残した。

「使わせはしない」ラグは言った。声は太く、抑えようとすればするほど震えが増した。「卵を兵器にするな。お前の言う安全の名の下で、子たちを刃の先に出すつもりか」

セグナの眼が細くなる。真剣さが更に濃くなり、その古い瞳に一瞬だけ軽蔑が交じった。「お前は幼い、そして狭量だ。だが構わぬ。お前が持つ守りの形も尊い。だが世界は残酷だ。守りに犠牲を伴わぬ理想は、幻想に過ぎぬ」

ラグは怒りに震えた。誰が何を幻想だと言うか。彼はぎゅっと卵を抱き直すと、セグナの前に体を震わせながら立ちはだかった。周囲の空気が硬くなる。老竜の歌が低く鳴り、洞窟の亀裂から薄い風が吹き抜けた。ミナはラグの足元で唇を噛み、目に涙をためている。彼女の目は、卵が無事であることを願うと同時に、この場がどう収拾されるかを恐れていた。

セグナはゆっくりと頭を垂れ、洞窟の壁に爪を当てた。刻まれた条文を撫でるように、長い指先で古い印を辿る。「これがお前たち人間との約束だ」と彼は言い、そして実際に、その爪跡に空いた溝を見せた。そこには確かに文字のようなものが彫られ、曲線が縦横に交差していた。ラグにはそれが何を意味するか完全にはわからない。ただ、一つの事実が突きつけられた。セグナは