孵化前の和平使節

孵化前の和平使節 第4話「第三章 敵の名を呼ぶ」

ラグは歩幅を詰める。岩場の縁に沿って、腰を低くして、卵を抱えた小さな人間を背中に乗せている。重みは思ったよりもずっと重い。黒曜の艶は夜露を弾き、殻の上で指先が震えるたびに、微かな低鳴りが洞窟の奥へと伝わった。彼の鱗はざらつき、腹の筋肉が反射的に収縮する。護るというより、運ぶ。守りたいと思うより先に、本能がそうさせるのだ。

ラグは歩幅を詰める。岩場の縁に沿って、腰を低くして、卵を抱えた小さな人間を背中に乗せている。重みは思ったよりもずっと重い。黒曜の艶は夜露を弾き、殻の上で指先が震えるたびに、微かな低鳴りが洞窟の奥へと伝わった。彼の鱗はざらつき、腹の筋肉が反射的に収縮する。護るというより、運ぶ。守りたいと思うより先に、本能がそうさせるのだ。

ミナが歩きながら何度か振り返る。炭で書いた板を胸に抱きしめ、泥だらけの裾をぬぐいながら、彼女は破れた笑いを繰り返す。ラグにはその笑いが嘘だとすぐに分かった。声の裏にある小さな震えを、彼は嗅ぎ分ける。彼女が卵を軍に渡すつもりで来たこと、だがそれを自分の良心のために言い換えていること。卑怯さではない。恐怖だ。だがラグには恐怖を「理解」する余地がない。恐怖は、奪うか奪われるか、だ。

谷は狭く、風は上へ逃げる。砲声の残り香が、湿った土に混ざっていた。遠くの尾根で何度か鉄が鳴る。人間の足音が、山の縁に沿ってこちらへ向かっている。金属のかすれる音。命令を刻む小さな鐘の音。四、八ではなく、三つの短い節で区切られたリズムが、谷の合間で跳ね返った。その三拍子は、ラグの中で思わぬものを震わせる。見覚えがある音だった。兵のベルか。いや、それだけではない。彼の母が息を整えたときの、最後の吐息のリズムに、そっくり重なっていた。

「来る」ミナは低く呟いた。指先が卵の殻に触れると、彼女の身体がもう一度小さく震えた。「接近。数人だと思う。追跡隊の音が混ざってる」

ラグは応える代わりに爪先を踏みしめ、速さを上げた。彼は巣の移動を決めたとき、自分が何を守っているのかをはっきりさせていた。卵は竜の血から生まれる未来だ。彼の母を奪った者たちと同じ手口で、卵を兵器にすることはあってはならない。だが同時に、卵を抱えることは、かつて母が抱いたものでもある。母の死を思うとき、血が一度に熱くなる。復讐は甘い。だが彼は学んできた。復讐は守るべきものを焼く。

突然、樹の陰から呻き声が漏れた。土が割れ、黒い泥がはね、そこに人間が伏せていた。鎧は破れ、胸からは鮮血が滲む。長い呼吸を吐き、半ば泥の中で震えている。手には小さな鈴が握られていて、その鈴口には三つの切り欠きがあり、あの三拍子を刻む仕掛けが施されていた。ラグの尾は反射的に硬直する。すぐそばに、布切れが絡んでいる。艶はまるで幼い竜の鱗の残骸のように光る小さな繊維が、そこに絡んでいた。

「兵だ」ミナが言う。だが彼女の声は震えていた。彼女は無造作に近づき、板を土に投げて膝をついた。彼女の手つきは医術者の真似事ではなく、もっと原初的だ。誰かを見捨てられないという、女の子の動作だ。ラグはその動作を嫌悪した。好意は弱さだ。弱さは卵に触る虫だ。

兵士は目を擦り、口を開く。言葉は単純に、武の名を呼ぶように出てきた。「竜が――竜が村を焼いた。皆、燃えた。俺たちは――」声は切れる。繰り返し言葉を口にするのは、信じることで自分を保とうとする人間の癖だ。ラグは吐き気に似たものを覚える。母の皮膚の焼けた匂いが、呪いのように思い出される。

その兵士の胸元には、くしゃくしゃになった紐があった。ラグは近づいた瞬間にそれが何かを認めた。小さな鱗片、半ば炭化した薄片が織り込まれている。鱗の色は深紅と金の混ざりで、竜の子どものものと似ていた。棄てられたお守りだろうか。兵士の指先には、どうやってか、細い翼の断片と思しきものが擦り切れて残っていた。言葉と矛盾する痕跡に、ラグの怒りが一瞬揺らいだ。

「人間は嘘をつく」彼は低く呟いた。自分の声が岩に反射して荒くなるのを聞いた。喉の奥の熱さが、母の血の匂いと混ざる。殺意が膝から伝わり、彼は前に踏み出した。牙が見え、爪が地を掻く。人間は悔い改めるには短すぎる。生かしておけば、彼らは卵を奪うための口となるだけだ。

だが兵士の手が微かに動き、ラグの心をさらにかき乱した。彼は薄れゆく意識の中で、小さな布切れを指先で押さえた。そこには、子どもの名前と思しき二文字が炭で書かれていた。字の輪郭は下手だが、確かな愛着が滲んでいる。誰かが――村の誰かが竜の子を名づけ、抱いていた痕だ。兵士はそれを持ち出している。隠している。助けたのか、逃がしたのか。どちらにせよ、その行動はラグの中で矛盾を起こした。敵の息子を庇う行為は、仇の論理を崩す。ラグの怒りは刃にならなかった。

兵士は再び言った。「竜が、焼いた。皆、焼け跡で。俺は――俺はその時、小さな子が逃げるのを見た。連れていかなきゃならなかった。命令に背いて……」声が震えて、吐息が短くなる。彼は自分の中の線をたどろうとしている。ラグはいやな予感に襲われた。言葉が真実であるかどうかで、殺すか許すかを決められるものではない。真実は、武器以上に鋭い。だが、ラグは――卵を抱えた小さな女を背にして、その短い胸に問うた。「何が行われた?」

その瞬間、谷の空気がひとつの異変を纏った。卵の殻が微かに振動し、黒曜の表面に細い金の光が走った。ラグはそれを感じ取った。音ではない。匂いでもない。空気の密度が変わり、視界の端に色が滲んだ。青と灰。青は冷たく、恐怖の色。灰は重く、罪の色。色は兵士の周りに浮かんで、ほんの一瞬だけ、空中に漂った。ラグはその景色を見てから、体中の筋を固くした。竜の目には映らない、精神の色だ。

ミナが息を呑んだ。「卵……見えるの?」彼女の声はかすれた紙切れのようだ。彼女の目は広がり、板を握る手が白くなる。兵士は更に言葉を吐く。「俺は、家族を奪われる。上官に逆らえば、皆が――」そこで言葉は止まり、彼は顔を歪ませる。口に出せない恐れがそこにあった。誰にも言えない、喉の奥でかき鳴らされる音色。ラグは目を細める。自分自身が、何を見誤っていたかが少しずつ分かってきた。兵士の言う「竜が焼いた」は、正確な事情の描写ではなく、上から植え付けられた単純な説明だ。真実は別のところにある。だがどちらも、恐怖に根差している。

卵が言葉を変えた。ラグはそれを音ではなく色で受け取ったのだが、伝わってきた情報の輪郭が確かに変わった。青が濃くなり、灰が薄れる。兵士の口から出た「竜が焼いた」という符号は、ラグにとっての「敵の名」ではなく、兵士が守ろうとしていたものの影像になった。卵は兵士の言葉の底にある形を取り出し、それをラグにも届くやり方に変えたのだ。恐れは「家族の処刑」という具体性を帯び、罪は「命を選べなかったこと」という重さを持った。

しかし、卵の翻訳は完璧ではなかった。兵士自身が口に出せない記憶、抑圧された理由――それらの核までは卵には届かなかった。ラグはその限界を感じた。卵は人の言葉の表面と、彼らが自覚している感情なら読み取れる。だが自分でも認めていない、奥底の動機は翻訳しきれない。兵士は自分の恐怖を「竜」に向け、そうすることで自分を保ってきたのだ。卵はそれを掬い取り、形を変えただけだ。

殻にひびが入る音が響いたのは、その直後だった。小さくて、乾いた破片の剥がれる音。ラグは反射的に卵を抱きしめた。彼の胸に、冷たい衝撃が伝わる。黒曜は光を一度だけ漏らし、内側から金色の筋が広がった。ミナが顔を上げ、目に涙をためて卵を見つめる。彼女は言った。「