孵化前の和平使節 第10話「第九章」
ヴェルドは朝の湿った空気を、いつものように軍幕の外で吸い込んだ。灰色の雲が列をなして南の山稜を覆い、遠くで砲声が短く答えた。その音に胸がぎゅ、と痛むのを確認してから、彼はゆっくりと背を伸ばした。習慣になった動作が、自分を人間の姿に戻す。戦場で生き残るには、それが必要だった。
ヴェルドは朝の湿った空気を、いつものように軍幕の外で吸い込んだ。灰色の雲が列をなして南の山稜を覆い、遠くで砲声が短く答えた。その音に胸がぎゅ、と痛むのを確認してから、彼はゆっくりと背を伸ばした。習慣になった動作が、自分を人間の姿に戻す。戦場で生き残るには、それが必要だった。
「将軍、報告です」側近のセイランが足早にやってきて、地図と書類の束を差し出す。セイランの顔は疲れているが、目は異様に冷たい。ヴェルドは短く頭を下げ、受け取った紙を広げた。地図には竜巣の位置、索敵の経路、先月の工房爆発で得られた断片資料の図版。ページの隅に押された印章——彼の手元にある古い印章と同じ三本線が、そこにも刻まれている。
指先が印に触れたとき、子供の頃の冬の匂いが急に戻ってきた。木の切り株に寄りかかり、弟が泣き喚いていた。弟はまだ小さく、空へ跳んだ鱗の影を見て怯え、兄のヴェルドはただ肩を抱くことしかできなかった。竜が村を襲ったあの日の夜、家々の明かりが一つずつ消えていった光景が、いつも彼の胸の奥に座っている。弟の最後の声を、彼は未だに聞く。あの日以来、彼の世界は守るべき「民」と、脅威としての「竜」に二分された。
だが印章を見た今、守るべきものがなぜこのように細工され、どのように語り継がれてきたのかを、自らの位置から問い直さねばならないという思いが湧いた。セイランは低く説明する。工房の設計書にも同じ印。避難民の通行許可、先月の燃料契約書、それらに押された印が同じだと。さらに、ここ数年の条約写本の端に押された小さな印も、その三本線と一致する。
「将軍、問題はこれです」とセイランは言った。「改ざんの首謀者が誰かだと。だが不思議なのは、印が指すのがある種の『公的承認』の経路だということ。つまり、初代の印がどこかで捺され、それを根拠に複写が作られ、流通している。誰かが初めから歴史を書き直したのではなく、流通させるための仕組みが作られている」
ヴェルドは唇を噛んだ。真実を知るとき、人は二つの痛みから選ぶ必要がある。目を閉じて父の背中を見たあの寒さを思い出すと、弟を失った日の痛みが伴走する。だが、もしも歴史が操作されていたとしても、目の前の子どもたちの顔が消えるわけではない。彼の判断はいつも、守るべき「今」を優先した。
「誰がそれを、どのような目的で?」ヴェルドは訊いた。
「情報の源には古竜セグナの痕跡がある、と報告があります」セイランは言葉を選んだ。「我々の諜報網が得た断片的な通信に、セグナ側の意図と思しき符号が含まれていました。だが、同時に人間側の利害を結ぶ者たちの動きも見えます。単純な協力関係ではない」
セグナ。名を聞くだけで多くの者は身をすくめる。古竜は一枚の事実を持っている——長い寿命の中で得た恐怖と確信だ。彼らは人間が何かを失おうとするたびに、歴史の片隅で自らの正当性を確かめるように動く。だがヴェルドはそれが相互に有利なゲームだとは思えなかった。血と焼け跡の匂いが、彼の判断を鈍らせることはなかった。むしろ、過去の痛みが彼の決断を速めた。
「総攻撃の準備を進めろ」彼は静かに命じた。「竜巣の座標は確定している。卵がその中にあるという報告も複数回ある。あれを手に入れれば、兵器の完成は我々のものになる」
セイランの眉が上がった。「将軍、それは——」
「我々が今度こそ敵の飛翔を終わらせるためだ」ヴェルドは言葉を切った。彼の声は震えていなかったが、その口元にはいつもより深い疲労の影があった。「飛べない竜に、再侵攻の能力はない。空を失えば、人々は逃げ惑う必要がなくなる。弟の死も、あれもこれも、むなしい涙で終わらせないために」
セイランは書類を整え、答えを返す代わりに行動を取った。だが、内心では疑念がくすぶる。ヴェルドの願いは純粋だろうか。純粋さは行動の正当性を保証しない。セイランはそれを知っている。
幕舎へ戻る途中、ヴェルドは野戦病院の方へ足を向けた。武器の音の余韻の中、そこでは新たな犠牲者が安置されている。石油の匂いが混じる室内の一角で、一人の若い兵が寝汗でベットを濡らしていた。顔色は青く、瞳孔は開ききっている。彼は何度も小さな声で同じ単語を繰り返していた——「歌が、歌が」、そして子供の名をいくつか。看護婦が肩を抑えると、彼は暴れようとしたが、すぐに力尽きる。
ヴェルドは近づき、耳を澄ました。兵は夢に竜の歌を聴いているのだ。だがそれは単なる幻聴ではない。先月、軍が手にした竜の血を燃料化した試作品が、一部兵士の夢を侵食し、夜ごと彼らに竜の記憶を見せている。炉の中で結晶になった血は、短時間のうちに使う者の脳に残像を刻む。兵士たちはそれを「味わった」者の断片としてうつろな目で語る。
「あの兵器が人を変えつつある」ヴェルドは低く呟いた。彼は一瞬、自らの手がこれを始めたのかもしれないという考えに襲われた。確かに彼は命じた。安全をつくるために、あらゆる手段を模索するようにと。だが愚かさは常に最初の犠牲の名を他者の口にしたがる。彼はその愚かさを受け入れることができるのか——という問いを、いつも先送りにしてきた。
看護婦が彼に気づき、言葉をかける。「将軍、彼らの夢は兵器のせいです。工房の結晶が回収された後も、残留反応が脳に残る。夜毎に悲鳴が上がり、訓練どころではないと言っています」
「そして彼らは戦意を失うか、逆に制御を失うかのどちらかだ」ヴェルドは言った。「それが我々の選択か。私は、我々は安全のためにそれを使う。使ってから考えることもできる」
言葉にしながら、彼は自分の決断がどれほど薄氷の上にあるかを知っていた。細い道を踏み外せば、守るはずの民の命も裂ける。だが、守れなかったときに生まれる恨みは、もう耐えられない。弟の顔がその理由だ。理由は個人的で、しかし彼の心を正当化する盾になった。
幕舎へ戻ると、机の上に古い写本が広げられていた。写本は現行の条約の写しだが、端に押された印が、不自然に古びて見える。ヴェルドは指で刷りを辿ると、その三本線の溝が自分の手の中にある印章と完全に一致することを確認した。彼はしばらく黙って文字を追った。条文の一節が、写本では明確に「空を人間に移譲する」と読める部分だが、原本ではまったく別の意味を持っていた。写本を誰かが編集し、流布させることによって、世代を経て正当性が作られている。
「私はこれを初めて見たわけではない」ヴェルドは思う。彼は以前にも複数の写しを見ていたが、そのときは印の意味を深く考えなかった。守るという言葉が目の前の迷路を塞いでいた。だが今、彼の手元にあるこの写本は、彼に別の責任を突きつけた。印章が同じという事実は、誰かが意図的に過去と現在をつなぎ、正当化を作り上げたということだ。だがそれを誰が始めたか、あるいは始めるよう仕組んだのは誰なのか——その答えはまだ彼の掌から滑り落ちている。
書類をめくるうち、召使のような低い声が入ってきた。「将軍、密使からの報告です。先ほどの偵察網が、竜巣の近くで新しい動きを確認。さらに、原生の歌に似た断片が記録されました。——ただし、そこには私どもの知らぬ別の音が含まれていた、と」
ヴェルドは顔を上げた。言葉は短かったが、