根都線の忘れ駅員

根都線の忘れ駅員 第9話「第八章」

名簿は、途中で切れていた。

名簿は、途中で切れていた。

薄暗い事務室の机の上で、その紙片はまるで息をするように震えている。インクの文字は行の途中で刃にでも引っかかったように途切れ、頁の端まで到らない。姓だけ、あるいは名の一部だけが残り、残りは黒いしみのように吸い込まれていた。ミナトは指先でそっと触れると、紙は冷たく、湿り気を帯びていた。触れた瞬間、断片の声が零れ落ちる。小鳥のさえずりのように細く、呟きにも似た音。

「──オレは、帰るんだ、帰るんだって……」

声はひとりではない。何十、何百もの声が重なり合って、過去形で自分を説得している。声の調子は人により違う。鈍い忌避の低さ、しがみつくような高まり、何度も言い聞かせる諦観。ミナトはそのすべてを聴き取れたが、それは人が他者に向ける言葉ではなかった。自分を騙すために繰り返す言葉だった。

「ここに書いてある名前は、みんな途中で……やめてる」とミナトはつぶやいた。声は自分の口から出るとき、紙の中の声と混じって震えた。彼女は紙を机の縁に寄せ、かじったように欠けた文字の先端を舌でなぞる。切符を食べるときと同じ習慣――紙を舌に乗せるだけで、それが持っている音や重さを吸い取れると錯覚するのだ。実際には彼女の口は紙を嚥下せず、ただ吸い付くようにするだけで、紙片の記憶の輪郭が彼女の中に流れ込む。

流れ込む記憶は、ミナト自身の声ではなかった。だが気づけば、その中のひとつが自分の声へとすり替わっている。彼女はそれを引き剥がそうとした。だが引き剥がれてしまったのは、紙の側の声の方だった。消えたのは、はじめからそこにあったはずの一枚。紙はさらに白く、文字の端がぼやけていく。

「──なにをしてるんだ、ミナト」

背後の影。ツヅリの声は、いつもの低さであったが、そこに脆さが混じっていた。彼は机の反対側に立ち、掌に一枚の切符を握っている。切符の端は擦り切れ、印章が薄くなっていた。ミナトはそっと顔を向けた。ツヅリの目は、何かを確かめるように名簿の行間を追っているが、やがてその視線はミナトに集中した。

「名簿を見ていた。ここに書かれた人たち――みんな、途中で名前を止めている。完全な帰路がない。だがおまえは、それを食べている。どうして?」

ミナトは口をすぼめた。半透明の体の端が微かに揺れ、紙の裏側の木目が透けて見える。彼女は笑ったような音を立てた。笑いは、乾いた紙を噛むときのリズムに似ている。

「おいしいから、とかじゃない。違うかな。紙には、帰りたいことが書いてある。それを食べると、声がわたしの中でひとつになる。おいしいとはちょっと違う。お腹が満たされる感じ。満たされるって言うか、つながるっていうか……」

「つながる?」

「うん。欠けていたものが、つながる。わたしがつなげば、みんな一緒に走れるんじゃないかって思った」

ツヅリの眉がゆるりと寄った。ミナトの言葉の端に、決意と、同時に自分を消すような哀しさが含まれているのを彼は嗅ぎ取った。彼はゆっくりとその切符を手のひらで回し、ミナトに差し出した。切符は薄く、印字が擦り切れているが、運行記録を読む者には十分な情報が示されていた。

「触らせて」とツヅリは言った。紙には微かな温度があり、彼が指先で触れると、短い映像が掌から溢れた。幾人もの足取り、ホームの灯り、車窓に反射する手の甲。だがその映像の中に、ミナト自身が『乗車している』姿はなかった。彼女は切符を持ち、紙を舌で滑らせ、記憶を結びつける存在としていくらでも映る。だが座席に腰を下ろし、外を見ている姿がない。

ツヅリは静かに顔を逸らした。掌に見た映像を飲み込み、言葉を選ぶ。

「この記録からは、君が自分のために列車に乗った形跡はない。誰かの帰路を束ねるために作られた、そういう記録だ」

ミナトは一瞬、表情を失った。紙片を左手に引き寄せ、そこへ軽く息を吐いた。透けた胸の辺りが震える。彼女のなかに、二つの音がぶつかった。一つはこれまで自分が抱いてきた満足の音。誰かをつなぐために紙を食べるときに鳴る、柔らかな和音。もう一つは、誰かに燃やされる炉心になるという冷たい鐘の音。

「そうかもしれない」とミナトは、まるで自分の胃の中に言葉を宿すように呟いた。「わたしは、帰りたいの集合体。誰かのために生まれてきた。わたしが燃えれば、みんなは安定するかもしれない。わたしがいなくなれば、迷宮は減るかもしれない」

「それは、正しいのか」ツヅリの声に、怒りが混じる。怒りは彼の外套の端を震わせた。彼はすぐにその怒りを押し殺す。怒りは守りたいという感情の裏返しであることを、彼自身がよく知っているからだ。

「局は、ミナトを炉心にして定刻を回復するつもりだ。ラゼンはそれを、根の安定のためだと言った。おまえは自分でそれを望んでいるのか? 望むならそれは、おまえの選択だ。だが局の言う『選択』は、しばしば相手を赦さない。――君がそれを望むのなら、僕たちは止められない。でも、君が望むことと、望まれることは違う」

ミナトは首を傾げた。光が彼女の瞳を透かして、内部で何かが淡く揺れるのが見える。彼女は小さく笑ったように、そして泣きそうに答えた。

「わたしは、どうせ消えるものだと思っていた。誰かが作ったから、誰かのためにあるんだって。だけど、ツヅリ、あなたは違う。あなたはいつも、出発信号を出した。誰もいないホームでも。最後の列車でも。なぜ続けた?」

質問は、いつもと同じ種類のものだ。ミナトにとっては好奇心。だがその好奇心は、致命的な問いを含んでいる。もしツヅリが「最後に見送った人」を覚えていたなら、ミナトは自分の運命を決めるための材料を得るだろう。だがその答えは、ツヅリにはもうない。

ツヅリは目を伏せた。口の端が引きつる。自分の掌にある切符の縁に、前世の電話番号が刻まれていたはずだが、そこは白く欠けていた。生前の彼が持っていた最後の仕事の痕跡が、運行のたびに燃えて消えていったのだ。彼は答えを飲み込み、代わりに違う言葉を出した。

「待つことには意味があるからだ。誰かが来る可能性を、最後まで閉ざさないという意味。誰かが間違って着いたとしても、その到着を否定することはできない。人は帰りたいと感じる。その気持ちを、僕は尊重したかった」

ミナトはその言葉を受け止めると、目を閉じた。目を閉じると同時に、机の上の名簿の一頁がふわりと鳴った。残りのページが、微かな風に吹かれるようにめくれる。そこに挟まれていた透明な紙片が露出し、光を拾って淡く青白く光った。ミナトはふとその紙を指差した。

「それ、見える?」

ツヅリは慌ててその紙に手を伸ばした。指先が触れた瞬間、紙はないはずの図面を示した。細い線が、根を模した曲線を描き、ところどころに小さな円が並ぶ。それは路線図のようでもあり、根の織り目図のようでもあった。紙片の向こう側に、別の空間の影がある。線は、紙の縁を超えて伸びていき、やがてひとつの点で途切れていた。その点の上には、閉じられた円が描かれ、そこに小さな三つの点が刻まれている。――三度の点滅。

「第零番線の原型図」とツヅリは吐いたように言った。声が震える。彼はその図をじっと見つめる。なぜか胸の奥が締め付けられるように痛んだ。紙