境界線の弟は、二度目の救命を選ぶ

境界線の弟は、二度目の救命を選ぶ 第4話「第三章」

ミラはいつものように夕刻の薄明かりのなかで、紙とインクに向かっていた。王立診療所の西翼、見習いの机は窓から市場の尾根を眺める低い位置にあり、外からは薬剤の匂いと人々の声が風に乗って入ってくる。今日の仕事は、午前中に持ち込まれた貧民街の診療記録の整理だった。量は多く、だがどれもが同じように簡略されている。名前、年齢、処置の有無、そして「死亡」の一語だけ——説明らしい説明は残されていなかった。

ミラはいつものように夕刻の薄明かりのなかで、紙とインクに向かっていた。王立診療所の西翼、見習いの机は窓から市場の尾根を眺める低い位置にあり、外からは薬剤の匂いと人々の声が風に乗って入ってくる。今日の仕事は、午前中に持ち込まれた貧民街の診療記録の整理だった。量は多く、だがどれもが同じように簡略されている。名前、年齢、処置の有無、そして「死亡」の一語だけ——説明らしい説明は残されていなかった。

ミラはため息をついた。貴族の患者ファイルは別格だ。小さな文字で処置の経過、魔導癒術の使用時刻、介助した術者の名、薬剤の分量まで事細かに書かれている。王立の経費帳を見せられれば、貴族の一刻の苦痛さえも帳尻が合うように計算される。しかし、平民のそれはなぜか単純化され、症状はただ「急病」「食中毒」「負傷」と括られていた。誰かが書き換えた痕跡はない。巧妙な削り方だ。ミラの指先がページの端を辿ると、彼女の指に古い土のにおいが残った。紙は、土の匂いを記憶している。

「——これでは、救うべき者がどのように死んだかも分からない」と彼女はつぶやいた。書かれていないことが、後から消された証拠なのだと知っていた。見習いである彼女が、どれだけのものを見落としてきたかを思い知らされる時間でもある。

机の向こうにある扉が乱暴に開いた。主任のハルトンが入ってきて、肩に掛けた書類箱を机の上に放る。彼はいつも通りの物言いで、だがどこか鷹揚で居心地の悪さを感じさせる。

「ミラ、夕方の巡回は君だ。貧民街の小児、低体温の増加ということだ。経過報告を簡潔に頼む」

ミラは目を上げ、書類の山を見渡した。胸の奥で何かが唾を飲み込むように動いた。「主任、昨日の記録と今日の来患者の傾向が合いません。貧民の死亡記録がいつも簡略化されています。診療経過も、魔導使用の有無も——」

ハルトンは眉を少し顰めた。「記録は治療のためにある。余計な好奇心は無用だ。王立のためにも、我々は秩序を保たねばならない。君も分かっているだろう、見習いとしての分相応というやつだ」

「分相応——」ミラはその言葉を反芻して、机の上にある一枚の診療札に目を落とした。レオンが市場で作った簡易トリアージ表が、折りたたまれてはみ出している。呼吸・出血・意識の三つ。三つに分ければ、緊急度はすぐ分かる。だが「秩序」がそれを覆い隠すなら、誰がそれを差し出すのか。

「ただし、君は若い。熱意は認めよう」とハルトンは付け足した。「だが、上からの指示は厳しい。天秤環の予測が示した数値に合わせる。これが王立の仕事だ」

彼は自分の言葉が持つ硬さに満足したらしく、書類箱を抱えて去って行った。扉の閉まる音が残響を作る。ミラは机に突っ伏すわけにもいかず、静かに立ち上がった。腹の底に残る違和感を振り払うように、彼女は診療札をもう一度手に取った。名を消されること。名が記録されなければ、誰もが無名のまま、天秤環の数字に飲まれる。

それから一時間もたたないうちに、診療所の外が喧噪に揺れた。市の掲示板に設置された小さな水晶鏡が閃き、薄い鐘の音を立てる。外の通りから人々が走ってくる。誰かが叫ぶ。

「集団だ! 井戸のそばで、みんな倒れてる!」

「天秤環——」別の声が続けた。「多数死の可能性が高い、救助効率低——本部は派遣を見合わせる」

ミラは胸が締めつけられるのを感じた。鏡に映る天秤環の数値は、冷徹な数学のように役割を分配していた。数は善悪を持たない。だが、人間の死は善悪を求める。院内の指揮系統は既に動き、上位の指示書が回ってくる。『優先は貴族区の保護、貧民区は現場待機』——それだけだ。

彼女は混乱した。書類棚の間を駆け抜け、戸を出ようとしたところで、声が引き止めた。レオンがそこに立っていた。市場から戻ったばかりの彼は、裂けた布の端が肩に絡み、三つ折りにしたメモを手にしている。ガイも後ろに控えている。無言だが、その無言に決意がこもっている。

「行くつもりですか?」ミラはすぐに問いかけた。期待と非難が入り混じった声だった。

レオンは静かにうなずいた。「行かないつもりはない。けれど、公式の救助隊が来ないなら、私たちがやる」

ガイの顔には影が差した。彼は口を開かない代わりに、胸の前で手を重ねる。掌先にあるのは、音を固めるための紋章石だった。彼の能力は珍しい。音を軸にして形を作る。杖や盾のように、短時間で担架や防壁を成形できる。ただし、その代償は厳しく、長時間の使用は聴力を蝕むと噂されている。ガイ自身、使用後は耳に長い鈴音をいつも抱えていた。

「非公式なら、君の身分はどうする?」ミラはためらいを胸に入れずに言った。王立の見習いである彼女が無断で隊に加われば、処罰は免れまい。だが現場の痛みを見過ごすことは、彼女の血に合わない。

「記録係がいれば、立派な理由になるだろう」レオンは軽く笑った。「君は王立の見習いだ。記録がなければ、事は闇に消える。君がいれば、それを出せる」

ミラは目を見張る。レオンの言葉は、不躾だが確かな提案だった。彼は前夜、彼女の眉間のしわを見ていた。ミラは息を整え、鞄に小さな筆箱と紙切れを突っ込んだ。行くべきだ。記録を持ってゆくことが、いまの彼女にできる反逆の形だった。

三人は裏路地を抜け、貧民街へ向かった。道の空気は鉛のように重い。染み出した水の匂い、火で焦げた鍋のにおい、そして子どもが近くで嗚咽するような声音が連なっていた。現場に着くと、そこは忘れ去られたような一角だった。井戸の周りに人が固まっている。吐いた跡、痙攣する腕、白い泡。老若男女が倒れており、助けを求めている。

レオンは黙って地面に膝をつき、近くに横たわる男の首に指を入れ、気道を確かめた。彼の動作は、まるで何百回も繰り返してきた習慣のような早さだった。舌を抑え、顔を上げ、口の中を覗き込む。呼吸は浅い。彼は布を裂いて、簡易の顎保持帯を作る。ミラはその手際に目を奪われ、ペンを持った指が震えるのを抑えた。

「ここは……」レオンは冷静に指示を飛ばす。「意識がぼやけている者は左、嘔吐と下痢が激しい者は右。まずは呼吸確保。止血は必要なら後だ。多くの者を搬送するとき、まず空気を作る」

彼の言葉に従って、人々が動き出す。ガイは手をかざすと、周囲のざわめきが一瞬だけ切り取られ、それが固まり始めた。空気の振動を捻じ曲げることで、彼は即席の担架を作る。唸り声のような低い音の輪郭が空間に刻まれ、柔らかな支持面が生まれる。その上に人を寝かせ、数人で運ぶ。だが、ガイの額には汗がにじむ。彼の耳は徐々に反響音に侵食され、目の端で彼が指で耳を押さえるのをミラは見た。

「ガイ、無理をするな!」ミラは叫んだ。音は彼の防壁の強度に影響する。もし彼が聴力を失えば、能力は更に制限される。

ガイは短く首を振り、黙って作業を続けた。彼の意思は固かった。救える者がそこにいる限り、声は犠牲にはできないらしい。ミラはその沈黙に胸が詰まった。彼らは、制度に背を向けることを選んだのだ。

原因はやはり、井戸だった。レオンが泥の混じった水をすくい上げ、鼻に近づけただけで顔をしかめる。水は酸っぱい匂いを放ち、薄く赤味を帯びていた。小さな瓶の破片が、井戸の縁に引っかかって