牧場スライム先生の終戦記 第4話「第三章」
私はバルド。左腕を失くした魔族の薬師だ。欠けた肉の重みは、切断面が乾くと同時に私の記憶に張り付いた。戦場で得たのは勲章ではなく、毎日の作業が二倍三倍に増えるだけの現実だ。人からは「敗者の証だ」と嗤われる。だが私には、ただ道具が一つ減っただけだった。
私はバルド。左腕を失くした魔族の薬師だ。欠けた肉の重みは、切断面が乾くと同時に私の記憶に張り付いた。戦場で得たのは勲章ではなく、毎日の作業が二倍三倍に増えるだけの現実だ。人からは「敗者の証だ」と嗤われる。だが私には、ただ道具が一つ減っただけだった。
村の怒声はいつだって予測不能の速さで襲ってくる。薬草を盗んだと叫ぶ声、誰かの指さす先、群衆の目。驚きという余地を持たず、私の体が先に動いた。右手で籠を抱え、裏路を通って屋根伝いに走り、塀を越えて門を飛び込んだ。門には「危険種立入禁止」と書かれた古い札がぶら下がっていて、その先にあるものが私の「隠れ家」になるとは認めたくもなかった。
門の内側で出迎えたのは、人間の男と、無口な女だった。男は教師のような雰囲気を纏い、柔らかい笑みを浮かべている。女は静かに顎を上げるだけだった。威圧しない声で男が言った。「入るか。ここは牧場だ。隠す場所じゃないが、来る者を拒むわけでもない」
私は言い訳を用意しなかった。誰も真実を信じないと分かっている嘘は、喉を通らない。籠を置き、右手に残った包帯の染まりを確かめる。村の石が当たったのか、血が乾いて薄く茶色く滲んでいた。
「薬草を持っていた。だが盗んだのではない」とだけ言った。
男は静かに頷き、その名を告げた。「灰島透だ。ここは……ここでは、ものごとを勝手に決めない。相手の同意がなければ、何も始めない」
その言葉は想像以上に重かった。戦場では命令が同意に勝る。だがここでは違うらしい。小屋の中は湿った土と暖かな空気が混じり、幾つかの半透明の塊が机の上で光を湛えていた。スライム、と呼ばれるものだ。簡単にいえば、最弱種で、戦闘とは無縁に見える存在だ。しかし彼らは土や水、触れられた感情の残響を体内に蓄え、分裂の際にそれを子に伝える。人の記憶の欠片が混じることもある、と透は言った。
透は床のスライムを指で軽く押した。透明な体は粘るように形を変え、内部に黒い斑点が浮く。斑点は、私の持ってきた薬草の残留を示しているようだった。私は呼吸を一度止める。手にした草の匂いが、過去の地下室の記憶を呼び覚ます。あのとき、私たちは井戸を止めようとしていたのだ。だがその先が抜けている。映像の最後の一コマが、いつも欠けてしまう。
「君は薬師だと聞いた」と透が言う。「スライムが毒を吸えると聞いたが、君はどう思う?」
私はその問いに笑えなかった。笑いは私の顔に似合わない。右手で籠の中の葉を掴み、匂いを嗅ぐ。野生の薬草だ。戦時中、私の左腕は爆発で飛んだ。匂いが記憶をつなぎ、胸の奥に冷たい汗を落とす。
「吸える。ただし完全ではない」と私は答えた。「ある成分は残響として残り、分裂の際に子へ伝わる。効率だけを追えば大量生産はできるが、代償がある」
透は穏やかに言った。「ここでのルールは一つだ。同意なしに彼らを道具にはしない。君が効率を考えるなら、まずは彼らに選択の機会を与える必要がある」
私は短く嗤った。スライムに選択などあるのか、と。しかし彼らは人の残響をためる。怒りも恐怖も、喜びも。人が都合よく使えば、やがてそれは人に返ってくる。私はその光景を見たくなかった。
透はさらに説明を加えた。「私は授業設計という力を持つ。相手の長所と未解決の課題を読み、君が実演できる範囲で『訓練の目標を一つ』示す。手順は細かく分けて提示できるが、提示する目的は常に一つだけだ。そして、相手の同意がいる」
この運用の明確さが、私を安心させた。戦場のような万能の力ではない。できないものはできないと示される誠実さがあった。
「同意するか?」透は静かに問うた。
私は深く息をつき、右手の拳を少し強く握った。欠けた左腕が戻るわけではない。だが残った手と頭でできることがあるはずだ。私は頷いた。「同意する。残っている右手で、できるだけのことをする」
透は即席の作業台を引き出し、木片と金具でジグを組み始めた。彼の手つきは教師らしく慎重で確実だった。リュネが黙って材料を渡し、ときおり的確な指示を入れる。私はそれを見て、少しだけ昔の自分を取り戻した気がした。
透の授業設計が示した訓練目標は明確だった。「失った腕を補う薬を作るのではない。残った手と道具で安全に調合工程を組み替える訓練」——一つの目的に対する手順は複数提示されるが、方向性は一つ。私はそれを受け入れ、作業を分解することを学んだ。
初めの工程は薬草の選別だった。私の右手で葉の枚数を数え、匂いを嗅ぎ分ける。繊細な剪定や繰り返しの作業は時間がかかる。透はスライムを補助に使うことを提案した。彼らの皮膜は小片を包み込み、有害成分をゆっくり吸着する。だが私は吸わせ過ぎてはならない。残留が子に伝わる危険があるからだ。
最初の試験でスライムを小さな杯に入れ、薬草の切れ端を触れさせた。ジグに置くと、スライムは葉を包み込み、色を徐々に濃くしていく。その様子は、まるで呼吸のように緩慢だった。私は定められた時間でスライムを別容器へ移し、代わりに私が濾過の精製を引き受ける。だがその過程で、一匹のスライムが小刻みに震え、体内に黒い筋が走った。
触れた瞬間、私の頭に断片が流れ込む。古い地下室。石の壁。私ともう一人の薬師が薬品を注ぐ。私たちは封印のために働いていた——そこまでだった。映像はそこで切れ、停戦後に何が起きたのか、誰が井戸を再稼働させたのかは映らない。常に欠落する最後の一枚。私は拳を握りしめ、怒りと無力感が胸を占めるのを感じた。
透は私の顔を見て、静かに言った。「ここは検証する場所だ。君の証言は重要だが、証言だけで断定しては危険だ。スライムの残響も断片だ。だから事実と推測を分けて記録しよう」
彼は記録用の紙を差し出した。二つの欄——片方に事実、もう片方に推測。教師時代の採点用紙のような整然とした区切りだ。私は紙を受け取り、指先のざらつきに力を込めた。文字を書き始めると、余計な感情が冷たく引き締まる。断片の映像、薬の成分、スライムの反応。書き出すことで、何かが整理される感覚があった。
夜になり、炉の火が軽やかに跳ね、スライムの影が壁に踊る。リュネは黙って外の森を眺めている。透は机の上のジグを調整し、私に手順の復唱を求めた。私は手順を一つ一つ言い、透が紙にチェックを入れる。授業設計の「一目標、複数手順」の枠組みは、私にとって扱いやすかった。無理に腕を戻す幻想を抱かず、可能な操作を最大化する方法を学べるからだ。
翌日、作業時間を細かく区切り、浸出時間を短縮して段階的な濾過を増やす方針を取り入れた。スライムの負担を軽くするため、私が二段階で精製を行う。道具は不格好だが機能的で、私の右手はぎこちなくも次第に馴染んでいった。欠損を埋めるのではなく、残ったものを磨く──それが今の私の仕事だ。
作業の合間に、透がぽつりと言った。「ミルは嘘を見分けるというより、既に蓄えた記憶と照らしたときの違和感を鳴らす。だがそれも完全ではない。誤認もする」
私はその言葉を聞いて頷いた。スライムを人間の目線で過信するのは危険だ。ミルの鳴き声が全てを解決するわけではない。検証と人の責任がなければ、真偽は狂う。
午後、別のスライムに触れたとき、短い