異世界転生鏡磨師の聖女

異世界転生鏡磨師の聖女 第2話「第1章」

研磨盤が静かに回る。微かに立ち上るアブラギの匂いと、布の擦れる細かな音が、神殿の中でも私の居場所を定める。エナは指先に伝わる振動を確かめながら、手のひらで鏡の縁を撫でた。円盤に押し付けられたガラスはまだ粗く、光は乱れている。目の前の鏡は直径が掌ひとつ分ほどの小さなものだが、ここに刻む仕上げで「何が映るか」が決まる。磨き残しは、嘘と同じように滑り込む隙間を作る。

研磨盤が静かに回る。微かに立ち上るアブラギの匂いと、布の擦れる細かな音が、神殿の中でも私の居場所を定める。エナは指先に伝わる振動を確かめながら、手のひらで鏡の縁を撫でた。円盤に押し付けられたガラスはまだ粗く、光は乱れている。目の前の鏡は直径が掌ひとつ分ほどの小さなものだが、ここに刻む仕上げで「何が映るか」が決まる。磨き残しは、嘘と同じように滑り込む隙間を作る。

「もっと細かく,ね……」独り言のように呟き、エナはスポンジに浸した溶液を取り、磨きのリズムを変える。前世で覚えた研磨の微細な感覚は、この世界に来てからも役立っていた。光を整えることは事実を整えることに似ている。凹凸をなくし、光の通る道筋を作ってやれば、屈折は最小になる。だがこの鏡が示すのは、単に像ではない。鏡が現すものが、別の人と向かい合ったときに交差する事実だけであるなら、そのための面を作らねばならない。

戸口が開いた。小さな靴が畳の縁をこする音。エナは作業を止め、さらに細かく布を動かして目立たぬ傷を消した。来訪者は神殿で働く者には珍しくない。だがその子の体の向きと目の泳ぎ方が、ただの依頼とは違うことを示していた。

「鏡を見てほしいんです」声は震えていない。だが言葉の奥にあるものが揺れていた。少女が手の中に抱えていたのは、黒い縁取りの小さな鏡。表面は曇りがちで、ふちの木は使い古されている。鏡の中央には、乾いた跡が輪郭のように残っていた。涙の跡かもしれない。だが何より不穏なのは、少女の頬が濡れているのに、鏡の向こうに同じ濡れた跡が見えないことだ。エナは一瞬、息を呑んだ。

「なんというか……映らないんです。泣いたのに、鏡には涙が見えなくて。みんな、私が嘘をついてるって言うんです」少女は鏡を差し出しながら、まっすぐにエナの目を見た。そこには他人を疑うような鋭さはなく、ただ、切実な助けを求める光がある。

エナは鏡を受け取った。手触りは冷たく、木枠が擦れた匂いを放つ。表面に息を吹きかけると、短く曇るだけで、涙を示すような筋は浮かばない。研磨布を取り替え、いつもの手順で磨き始める。布目を揃え、円を描く。仕上げの段階で使うのは、薄皮の布。わずかな残留の油膜すら取り去るつもりで布を滑らせた。

「こういうときは、まず鏡そのものを見てはいけない。映ることを強いるのは、鏡に無理をさせる。鏡は使う人の間にある合意を映す。強制は割れにつながる」エナは少女に説明する。言葉は、神殿で聞いた戒めをなぞっただけのものだが、彼女自身、その理屈を疑わなかった。なぜなら磨くたびに、正確な面が人と人の間に生まれるのを見てきたからだ。

少女は小さく首を振った。「でも、私……説明しても、誰も信じてくれません。誰かが、『その時彼らはふたり一緒にいた』って言うと、鏡はその言葉を拾って、私の方だけ泣いている様子を消してしまうんです。村の人たちは、鏡が『真実』だって言って、私を遠ざける。だから、鏡磨きの匠さん、お願いします。あなたの手で磨いてください。私の涙を、見えるようにしてほしいんです」

エナは少女の顔を見る。頬の潮は冷たく、唇は引き結ばれている。別れを知らないというその言葉は、彼女の振る舞いと一致した。誰かと離れるという経験が薄いのか、あるいは「別れること」が希薄にされる環境で育ったのか。理由は分からなくても、守るべきものは明らかだ。最初に助けを求めた者を放っておけない。それが、ここでの私の務めだ。

「わかった。でも、ひとつ約束して。鏡を磨いても、すぐに『見せろ』っていう人の前には出さないこと」エナは少女の手を軽く握った。皮膚の暖かさが伝わる。磨きの手を止めることができないのは職人の性だが、鏡が能力を持つ以上、その運用には慎重を要する。磨いたのは自分の物だけだ。エナの作る面でなければ、能力は働かない。技術を独占するつもりはないが、最初の一歩は自分の手で作る。

磨き終えた鏡を少女の目の前に差し出す。角度を合わせると、ふたりの顔が互いに映る位置に鏡を固定した。少女が小さく吐息をつく。エナは布をポケットにしまい、鏡の縁に触れて合図を送った。

「ゆっくり、顔を見せて。声は静かに。互いに何を見たかを言葉にして」エナの声は、研磨の時と同じように落ち着いていた。彼女が望むのは、粗野な対立ではなく、共有できる一点を見つけることだ。鏡はそれを助ける。強制ではなく、協働によって。

鏡の表面は一瞬だけ波を立てたように光り、そこで映ったのは思いがけないものだった。少女の頬についた潮の跡は、鏡の中に現れない。代わりに、すぐ近くに置かれた小さな箱の蓋に残る指紋、窓辺に積もった灰の円、二人の足元にある踏み石の一つだけがはっきりと映った。何かが欠けているというより、そこに映るものが、二人ともが認める事実だけであることが分かった。

少女は眉を寄せる。「涙は、見えないんですか?」

「君が今ここで見ているものと、向こうの人が見ているものが重なっているところだけが映る」エナは説明するとき、手振りで箱の蓋を示した。「ふたりとも、あの箱がここにあることは確かに覚えている。だけど、君の涙に関しては、向こうが『それは演技だ』と言い張るなら、鏡はそれを映さない。鏡は『共有される事実』だけを返すんだ」

少女の唇が震えた。「それは……」

「それは優しい訳でもなければ、残酷でもない。ただの道具だ。どんなに都合のいい像を見たくても、二人が同じことを認めなければ、出てこない」エナは鏡を優しく傾け、小さな傷を指で撫でる。磨き手としては、それが不完全だと感じないわけではない。だが機能としては十分だった。鏡が返したのは、事実の最小公約数と言えるものだ。

そこへ、外から声が飛び込んだ。畑仕事のあとらしい、息を切らした中年の男が戸口に立っている。彼の額には汗が光り、手には一冊の帳面を抱えていた。

「エナさん、お願いがある。隣のカローンと揉め事が起きててな。借金の帳尻が合わないって。彼ら、鏡で確かめられるならって、あなたに頼みたいって言うんだ」

エナは少女と目を交わす。新人の鏡はここで使われるべきではない。だが、能力の証明は必要だ。村では噂が早く、神殿の鏡が「すべてを映す」とされるだけで、問題は一方的に決まってしまう。エナは布で手を拭い、少女の鏡を脇に置いて自分の作業台に向かう。

「今すぐに大事な試験をするつもりはない。でも、君もここにいてくれ。見られることは、ひとりで抱え込むのと違う。鏡の前で誰かが一方的に『彼がそうだ』と押しつけたら、別のことが起きる。鏡は負けないけど、われわれは代償を払うかもしれない」

男は頷き、すぐに二人の男女を伴って戻ってきた。揉め事の当事者は、農具を抱えた老女と若い夫だった。老女はカローンという名で、年季の入った顔に疲労が刻まれている。若い男は荒い息をしながら、誰かに説得されたのか帽子を握っていた。二人の間に横たわる空気は濁っていた。

「私たちの鶏が減ったんです。三羽。カローンの家の犬が巣の近くで吠えてて、それでこいつが飛び出して行った。あんたの倉から出たって、村の連中じゃ……」男が言いかけると、老女が手を上げて遮った。

「私はそんなもの盗まない! いつも世話してるのはあん