異世界転生薬湯師の軍師 第5話「第4章」
湯はまだ熱を失っていない。湯気が厚く、木製の屋根の梁に淡く滲む。ナツは指先で櫛のように並んだ薬草袋を確かめると、深く息を吐いた。今、したいことはただ一つ――ここにいる者たちを一人でも楽にすることだ。床に座る若い兵士の肩を押してやりたい。女たちの赤く腫れた目を湿らせてやりたい。だが、そのために立ちはだかるのは、軍の論理と人々の恐れだった。
湯はまだ熱を失っていない。湯気が厚く、木製の屋根の梁に淡く滲む。ナツは指先で櫛のように並んだ薬草袋を確かめると、深く息を吐いた。今、したいことはただ一つ――ここにいる者たちを一人でも楽にすることだ。床に座る若い兵士の肩を押してやりたい。女たちの赤く腫れた目を湿らせてやりたい。だが、そのために立ちはだかるのは、軍の論理と人々の恐れだった。
「これ以上、兵を動けなくしてどうする。前線は待ってくれんぞ」
隣の広場から声が落ちてきて、軍曹の太い影が門をくぐる。軍曹の名はカーデ。不必要に威圧的だが、彼なりに兵の生存率と秩序を気にしているのだろう。ナツは湯桶を一つ抱え上げ、視線を外さずに答えた。
「休ませることが、すぐに戦力を減らすとは限らない。疲労した体では怪我も治りが遅いし、判断も鈍る。まずは短くてもいい、まとまった休息を取らせたいだけです」
「口で言うのは簡単だ。現場を離れられないやつもいる。指揮命令に逆らえるか?」
ナツの隣に座っていたミラが、歯を食いしばって立ち上がった。村の助産師であり、戦場でも簡易診療を手伝う女だ。彼女の手には包帯の束が握られている。
「逆らうって言うより、話を聞くの。あなたたちも、人が倒れるのは見たくないでしょう? 兵も住民も、同じ村の人間よ」
ミラの声は強い。周囲の小屋の戸口からも数人が出てきて、夜の空気の中に集まる。ナツはその顔ぶれを一瞥する。年老いた鍛冶屋トーマス、里の若い木こりのフリッカ、そして、首を抱えて座り込んでいる一人の若い兵――ヒラン。ヒランはまだ十七か十八ほどで、手の甲に古い擦り傷がある。彼の瞳は訴えるようだったが、口は固く結ばれている。
ナツはヒランに向かって静かに膝を詰めた。彼は腕を差し伸べ、湯桶の水面に指先を触れた。自分の薬草を一枚、掌に包む。能力はいつでも使える。ただ、条件と代償がある。ナツはそれを思い出して指を止めた。彼が薬草を湯に落とし、香りから理由を読み取れるのは確かだ。だが、強引に誰かを沈められた場合、湯は冷え、ナツ自身も同じ悪夢を見る。無理強いは、たとえ意図が善意でも代償を招く。
「落としていいか、ヒラン?」ナツが尋ねると、ヒランは首を振った。唇を震わせながら、小さな声で言った。
「戻らないと、みんなが――」
その言葉は途切れてしまった。ナツはもう一度薬草に手をやる。どうして休めないのか、ただ一つだけでも理由を知れば、説得の糸口が作れる。だが、ヒランの瞳には揺るがぬ決意がある。
「無理はしない」とナツは自分に言い聞かせ、薬草を掌から引いた。そのとき、門外から急な騒ぎが起きた。軍曹カーデの付き人らしい下士官が、怒声とともに門を突き破って入ってくる。誰かが掴まれ、抵抗する声が上がった。次の瞬間、押し合う群衆の中で、ある男がつまみ上げられ、強引に湯場の縁へと投げ出された。
「そこに置け! 休ませるのだ!」
その声は、傍若無人さと理不尽さを同時に帯びていた。男は兵ではなく、村の若者――補給係のソランだった。彼は顔を歪めて叫ぶ。明らかに抵抗している。ナツは本能的に立ち上がり、手を伸ばした。
「待って、やめてください!」
だが下士官はナツの前に立ちはだかり、彼を押しのける。ミラが小さな体で飛び出してソランの腕にしがみつく。押し合い、叫び声、飛び散る湯。誰かがソランの腕を掴み、無理やり彼を湯の底まで押しやろうとした。その瞬間、ナツの胸に冷たいものが走った。
湯の熱が、音を立てて消えた。
湯気が一瞬で薄れ、木の梁に吸われるように消える。薬草の香りがパッと奪われ、鼻腔に残ったのは焦げた匂いと灰の味。湯の表面に浮かんだのは、黒く焦げた小片――見慣れた薬草の焦げた破片だった。誰かが無理やり湯に沈めたとき、決まってこの現象が起きるという噂は、ただの噂ではなかった。
ナツは、動くことができなかった。身体は無言の拒絶を感じ、喉の奥が乾いた。周囲の動きが遠くなる。ソランがはっと顔を上げ、目は驚愕と恐怖に満ちていた。下士官は手を止め、取り返すようにソランを引き上げる。その手の中で、ソランの表情が一瞬変わった。目を閉じ、歯を食いしばり、唇から小さな音が漏れた。
その夜、ナツは寝つくことができなかった。簡素な藁の布団に仰向けになり、天井の隙間から差し込む月明かりを見つめる。湯の冷えとともに体の中を何かが冷たく這い回っている。頭の中に、誰かの歩調が鳴り響く。砂利を踏む音、遠くで木が折れる音、遠くで誰かが「突け」と叫ぶ。口の中に、薬草の焦げた味が戻ってくる。
夢の最初はいつもの行進だった。山間の谷を兵が列をなして進む。彼らの肩には血と泥が付いていて、前方の将旗が半ば焦げ、ひらひらと揺れている。湯気のようなものが道に立ち昇り、足元の地面を薄く覆った。ナツは自分の手で誰かを抱え上げようとするが、その手は火につかみかかるように熱くなり、指の間から何か黒い粉がこぼれ落ちる。粉が風に乗って兵の顔にかかると、彼らはひとり、またひとりと目を閉じる。
そして次の場面では、彼は湯に沈められていた。冷たい水に膝まで浸かり、頭の中は灰の匂いで満たされる。誰かが叫ぶ。声は自分のものでもなければ、他人のものでもない。全員が一斉に「進め」と言う。誰かの顔が近づき、はっきりとした言葉が耳元で囁かれる。
「休むな。動け。前へ」
夢から覚めたとき、ナツは大きく息を吸い、荒い呼吸を整える。額には冷たい汗。布団の端に落ちた小片――昨夜の会合で見つけた焦げた薬草のかけらを、無意識に握りしめていた。彼はその感触に怯えた。夢はただの悪夢ではない。湯が冷えるたびに訪れる、共有される悪夢の匂いがある。誰かが強制されたとき、彼はその恐怖を分け合うのだ。
朝になって、村はいつものように起き出すが、空気は沈んでいた。門の前には下士官の姿はなく、軍曹カーデが短く町人たちに詰め寄る。ソランは震えた声で小さな輪の一員に加わり、昨夜のことを語ろうとしている。ナツは湯場の縁のそばに腰かけ、あの日の冷えた水面を見つめる。黒い破片はまだ幾つか浮かんでいて、昼の光に焦げた縁取りを見せる。村人たちの間を歩き、ナツは顔を上げて言った。
「強制は、しないでください。あの冷えは、誰かが強引に休ませられたときに起きる。代償は大きい。僕だけでなく、皆にも悪夢が回るようになる」
その言葉には責任が宿る。ナツは自分の能力の仕組みを細かく説明するつもりはなかった。だが、経験を共有したくないということは、はっきり伝えた。周囲の誰もが、確信と恐れの間で揺れている。
「では、どうするんだ?」トーマスが聞く。村長の代わりに物事を取りまとめる年寄りは、思案顔でナツを見た。「ここを守るために、どうしても兵を現場に留めておかねばならん。補給が途切れたら、村が滅びる」
「分かっています」ナツは頭を下げる。「だからこそ、強制ではなく、話し合いで決めませんか。夜に集まって、代表を選びましょう。誰がいつ休むか、どうやって秩序を保つか。湯を使うときは、必ず合意があってからにする。強制をやめるためのルールを、皆で作るんです」
ミラがうなずく。フリッカは腕組みして地面を蹴った。心のどこかで、皆が望んでいたことだと、ナツは思う。