異世界転生薬湯師の軍師

異世界転生薬湯師の軍師 第29話「巻末特別章」

湯屋の屋根から立ちのぼる湯気は、朝霧と同じ速さでゆっくりと流れていた。ナツは木の縁に腰を下ろし、両手で杯を抱えるようにして熱を確かめる。湯は深く、底まで見えない。だが以前の「冷めない湯」が過去の呪縛を引きずるように冷たくなることがあるのを知っているから、今の穏やかさは奇跡に近かった。

湯屋の屋根から立ちのぼる湯気は、朝霧と同じ速さでゆっくりと流れていた。ナツは木の縁に腰を下ろし、両手で杯を抱えるようにして熱を確かめる。湯は深く、底まで見えない。だが以前の「冷めない湯」が過去の呪縛を引きずるように冷たくなることがあるのを知っているから、今の穏やかさは奇跡に近かった。

「今日は、私がやります」薄く笑いながらナツが言った。声は年輪のように重く、若い耳には驚きだったらしい。四人の若い療養師が輪になって座り、手に白い布を握っている。ミナは背筋を伸ばして俯いたまま、カイはぽつりと喉を鳴らし、ルカは目を潤ませている。彼らは停戦湯で育ち、各地に散っては小さな「休める場所」を作るために旅立とうとしている。今日はその出発の日だった。ナツは引き止めることもできるが、引き止めない。自分の役目は、場を作ることであり、場に執着することではないと、もう知っている。

「いいんだね」ミナの手が震えている。彼女はまだ若く、しかし師としての責任を理解している。湯気がミナの言葉を薄く包んだ。「あなたがやるって言うのは、最後に一回、って意味ですか?」

ナツは小さくうなずき、腰を浮かせて湯の縁に近づいた。脛の下で湯が微かに音を立てる。彼女は懐に忍ばせた小さな包みを取り出し、それを掌の上で緩く開いた。焦げた黒褐色の欠片が、静かに光を吸っていた。香りは、焦げの中にまだ生の葉を残したような、複雑な匂いだった。ミナは一瞬顔をしかめた。

「これか」カイが指を伸ばしかけて制される。ナツの視線が彼に向いた。「触れないで。今は私が——私が落とすから」

そう言って、ナツは薬草を湯へと落とした。薬草が水面に触れた瞬間、広がる香りはまるで昔の戦場の塵を甦らせるようだった。湯面の熱が一度だけひるみ、周囲の空気が固くなる。誰も咳をしなかったが、三人の若者の肩が少し縮むのをナツは見逃さなかった。

能力はいつも通りに機能した。薬草を自ら湯に落とした者だけに、湯気の向こう側から一つだけ、休息を拒む理由が読み取れる。読み取られた言葉は決して誰かの直喩ではなく、匂いに寄せられた断片でしかない。解釈の余地があるからこそ、対話が生まれるのだ。だが今、読み取られたのは自分自身の理由だった。

「……私が休めないのは」ナツは指先で湯面の輪を描く。言葉は静かに出て、しかしその重さは若者たちの胸に落ちた。「眠れば、あの時の匂いは忘れられてしまう。忘れられたら、また同じ焦げ方を誰かに強いることになる。私はそれを、許せない」

短い沈黙のあと、ルカが息を吐いた。「ナツさんはいつも、忘れないために働いてきた。資料を残し、話を聞き、湯を渡して……でも、それを一人で抱えたら重すぎます」

「それが、私が今ここでやることの意味だ」とナツは続ける。彼女の声に、昔戦地で炎が立ち上がる匂いがわずかに混じった気がした。彼女は、能力のもう一つの規則を口にせざるを得なかった。言うべきだったからだ。これは教科書ではない。教えることは同時に危険を知らせる義務でもあった。

「強制の話、覚えているかね。休ませたくない者を無理に沈めると、湯は冷える。その冷えは儀式のように悪夢を呼び戻す。施術者は同じ夢を見る。前にそうなった時のことを、みんなは覚えているだろう。だから私たちは、人に休みを強いることをしないようにルールを作った」

ミナの瞳が光った。「でも、今回は——あなたがやるんですよね。自分でその代償を負うの?」

ナツは頷いた。古い傷跡のように、彼女の顔には深い皺が増えていたが、決断は柔らかく、それでいて揺るがなかった。「私は、この仕事を背負うために生まれたわけじゃない。けれど、忘れられないものはある。最後に一度だけ、その悪夢を自分の身体で引き受けて、みんなに見せる。見せることで、言葉だけじゃなく、この冷たさを知ってほしい。伝わるものがあるなら、それでいい」

ルカが言った。「それって、共有ってことですか? 悪夢を——」

「共有する、って言い方はまあいいよ」とナツが小さく笑った。「ただし方法は違う。薬草を落とすのは一度きり。私がそれをした。これから私が、自分で——自分を沈める。無理に、だよ。私が私を無理に沈めると、湯は冷える。そうなると私が同じ悪夢を見る。あなたたちは、ただ見守って。聞いて、覚えて、記すんだ」

「そこに危険はないの?」カイが尋ねる。心配が顔に出ていた。

「危険はある。でもそれが何かを変えるなら、私一人で背負う価値はある」とナツは静かに言った。だがその「私一人で」という言葉は真実半分、演技半分だった。彼女はかつて仲間たちと負担を分け合ったことを思い出す。負担を許容する共同体を作ることこそが、自分の仕事だと彼女は知っていた。だから今、この場で彼らに最後の試金石を残す。共有とは、単に悪夢を横取りすることではなく、その構造と代償を伝えることなのだ。

ナツはゆっくりと身体を沈める。誰にも手を借りない。一歩一歩、自ら膝を折り、胸まで湯に浸かった。湯面は膝の皺を透かすように震え、薬草の香りが鼻腔へ押し寄せる。彼女の心臓は少し速くなった。無理に沈めるのは、他者を対象にする場合のルールだったが、彼女が自らを強制的に沈める行為は、同じ原理で代償を呼ぶ。湯が冷えることを、彼女は選んだ。

冷えは静かに、しかし確実に訪れた。湯の表面が一瞬の硬い膜のようになり、蒸気の温度が落ちた。若者たちの吐息が白くなり、ミナが手を伸ばしそうになって止めた。ナツの視界はゆらりと歪み、耳鳴りが始まった。そこに、夢が押し寄せる。

夢はまず匂いから入ってきた。焦げた薬草と鉄、汗の酸味、そして古い書物の紙の匂い。それらが渾然と混ざり合い、戦場の縦糸を作る。ナツはそこに立っていた。丸い火の中で人びとの顔が引き裂かれ、軍旗が湯気の中に揺れる。軍旗はいつもと同じ色だったが、その色は意味を失って宙に垂れ下がっていた。兵士たちは眠らないために列をなし、彼らの眼は空洞になっている。焦げた薬草を噛む者、膝を抱えて泣く者、笑顔で賛美する者。すべてが同時に、ナツの胸に迫る。

夢の中の「将軍」は影でしかない。が、その影が何かを守ろうとするのではなく、何かを守るために人を使い捨てている。ナツはそれを見て、なぜか胸が裂けるようだった。彼女はかつて、その体制を変えようとした。だが夢は嘲笑うように言った。変えたつもりでも、傷は残る。焦げた薬草は消えず、補給の習慣は世代に渡って受け継がれる。だから眠ることを拒む者が生まれる。拒む理由は数多あるが、夢は一つの像としてナツに襲いかかった。

「思い出すんじゃない……」という声が、どこか遠くで反芻された。ナツは手を伸ばして、湯の底に指を押し当てる。そこには向こう側の熱が戻らず、冷たさだけが迫ってくる。悪夢の中でナツは叫ぶが、声は湯気に飲まれてしまう。耳の中で将軍の影が笑う。笑い声の断片が、ミナの顔を過去の戦場の表情と重ねさせる。

夢が最も深くなった瞬間、ナツは何かを牢に打ち込まれるように感じた。だが同時に、温かい手が自分の肩を押す。夢の縁にいたのはミナの手だ。彼女は現実でナツの腕をつかみ、現実の冷たさを確認した。ナツはふと、自分が今していることが単なる犠牲ではなく、教えであることに