異世界転生薬湯師の軍師

異世界転生薬湯師の軍師 第22話「第20章」

ナツは膝まで浸かった湯の縁に座り、冷たい蒸気に指先を晒していた。湯面は確かに熱を失っている。いつもの柔らかなゆらぎは消え、表面に張り付いた冬の朝のような薄い膜が広がっていた。村の若者たちが、湯から飛び上がるようにして叫び声を上げる。叫びは「悪夢だ」という言葉とともに続き、顔面を引きつらせた者は目をつむり、腕を抱えて震えた。

ナツは膝まで浸かった湯の縁に座り、冷たい蒸気に指先を晒していた。湯面は確かに熱を失っている。いつもの柔らかなゆらぎは消え、表面に張り付いた冬の朝のような薄い膜が広がっていた。村の若者たちが、湯から飛び上がるようにして叫び声を上げる。叫びは「悪夢だ」という言葉とともに続き、顔面を引きつらせた者は目をつむり、腕を抱えて震えた。

「どうしてこんなことに……!」

ミカが短く声を絞り出す。彼女は連盟で治癒の補助をしてきた女だった。目の下に藍色の影が濃く、ナツは彼女の肩に一瞬触れて確かめると、静かに首を振った。守る対象は目の前の村人、転がるように床に射たれている兵士、そして自分たちの小さな療養連盟全体だ。今したいことはただ一つ、湯を再び温め、そこに戻る人々の呼吸を整えること。しかし妨げは大きい。湯が広域で冷える現象がここ数日、連盟の範囲で多発している。敵意ある手が触れているのか、それとも制度の毒が届いたのか。どちらにせよ、簡単に解消できるものではない。

「ナツ、どうする? 強引にでも湯に入れれば一時は楽になるかもしれない」

ラウルが、立ち上がりかけた兵を制するように腕を伸ばす。穿った鎧の埃が彼の肩で踊った。彼は戦場で揉まれた男であり、いまも戦いの言葉を口にする習慣が抜けない。だがナツはその言葉を跳ね返した。

「それはできない。強制で休ませれば、湯は完全に冷え、俺もあの夢を見る。誰かを無理に沈めることで代償は必ず返ってくるんだ。今回、広域で冷えが起きている以上、誰かが強制したせいではないかもしれない。だからまず、使い方を厳しくする必要がある」

ナツの声は短かった。声の端に低い覚悟がにじむ。彼がここで口にした「使い方」とは、能力の行使に対する規則化を意味していた。湯に薬草を落とした本人の香りから、休息を拒む理由を一つだけ読み取れる──その能力は既に幾度も彼らを救ってきたが、同時に悪夢を生んだ。無理強いは許されない。だが今、村では「すぐにでも強制してほしい」と叫ぶ者がいる。母親がガタガタ震える幼子を抱きしめ、苦渋の目でナツを見た。

「お願いです……あの人を休ませて……そうしなければ、戻ったら死んでしまうって。軍に戻る前に、せめてここで――!」

幼子の母は薬草を一握り、それをぎゅっと握りしめていた。だがナツがそれを見ると、母の指は震え、薬草は彼女の掌の中で焦げた黒い筋を出しているように見えた。焦げた薬草。ナツの胸に冷たい感触が走る。焦げた匂いはいつも、制度の操作や供給の汚染を意味した。だが今は選択の問題だ。

「その薬草を、落としてみてくれ。そのとき、あんたが──本人が、湯へ――」

ナツは言葉を切った。能力は本人が湯へ落とす行為を必要とする。誰かのために俺が落とすことはできない。だが母は泣きながら首を振る。「あの人は無理だ、彼は戻れと言われている。命令の前では、自分で休むなんて言えないの」と、体をいじくるようにして言った。その言葉には、軍命令という圧力の重さがぶら下がっていた。

「つまり、強制や偽装が絡む。そういう場合に使えば、湯は冷える。俺自身も同じ悪夢を見る。いまは連盟全体に悪夢が広がっている。使い方を緩めれば、代償は連盟に跳ね返る」

ミカが、握りしめた母の肩を叩く。彼女の目は赤いが、声は強かった。「でもそのまま戻ったら、彼は死ぬわ。選択を外に押し出すルールだけで間に合うの?」

「間に合わせるための選択肢を増やす。強制しないで済む仕組みを作るんだ」ナツは答えた。「湯に薬草を落とすのは本人の合図にする。できない者がいるなら、代理で落とすのは最小限にし、しかも複数の信頼できる証人の同意を必要とする。使用回数も日ごとに上限を作る。代わりに、短い交代制の休息区画を設けて、強制を最小化する。俺たちは能力を『個別の救済』でなく、『共同の制度』に変える必要があるんだ」

言葉を打ち出すと、周囲にざわめきが広がった。議論はすぐに激しくなる。ラウルは拳を握る。「そんな悠長なことをしている間にも人は倒れる。いま必要なのは即効性だ!」

「即効でできることはある」ハルが割って入る。ハルは記録係で、数字と時間に強い。彼は濡れた巻物を抱えていた。「だが即効は長期的対策とはならない。湯が冷え続ける原因が外部からなら、短期の強制で抑えつけても被害は拡大する。上限と証人制で使用を規定し、記録を公開することで、強制の乱用を抑えられる。公の記録があれば、誰も後で責任を擦り付けられない」

ミカは母に目を戻す。「それで、いま、ここでどうする? この人を見捨てるの?」

ナツは一瞬、過去の夢を見た。あのとき、湯を無理やり冷えさせた夜。彼は悪夢を見た。湿った鉄の匂いと、寝汗にまみれた叫び声。それは現実の痛みと同じくらい鮮烈で、目覚めのたびに胸が締め付けられた。あの代償をもう一度、連盟に広げるわけにはいかない。だが人を見殺しにもできない。

「まずは救急処置を優先する。薬草の香りで症状を和らげる方法はある。強制はしない。彼らに『本人が薬草を落とせる環境』と時間を作る。それでも本人が落とせない状態なら、代理の同意を三人以上で得る。代理は家族二人と、村の代表か連盟の代表一人。合意があれば、俺が代わりに香りを嗅いで理由を読む。だがその場合は、使用回数をその日の上限に加えない。代わりに、俺がその夜の悪夢の負担を一手に引き受ける。つまり、代償は俺が背負う」

場が静まる。ナツの提案には自己犠牲が含まれている。ミカが瞳を潤ませるが、すぐに強い表情に戻る。「ナツ、あなた一人で背負い続けるのは危険よ。悪夢は心を蝕む。共有できるものなら共有すべきだ」

「共享の形が必要だ。だからルールのもう一つ――使用されたときの代償の分配だ。誰かが代行した場合、代償はその代理者だけでなく、連盟が作る『代償基金』に負担を分ける。基金は、使用一回ごとに各参加村から小さな資源を出し合う。物の負担ではなく、夜の見守りやケアの義務で補う。そうすれば、代行が出る場合でも、負担は共同体全体で分散できる」

誰かがくすくすと笑った。笑いは不安の混じったものだ。ラウルは唇を噛む。「そんなやり方で敵は納得するのか。これで兵の士気は保てるのか」

「制度は試行錯誤だ」ハルが冷静に指摘する。「だが今のままなら、強制が行われ続け、湯冷えは収まらない。制度化で使用を減らせば、悪夢の発生頻度は下がる。下がれば、治療側も回復する時間を得られる」

ナツは立ち上がり、濡れた足をゆっくりと湯の縁につける。そして、母と、幼子と、倒れかけている兵士の顔を順に見た。兵士は顔色が悪く、呼吸は浅い。目は焦点を失っている。もし命令が戻れば、彼は自分で決める余地がないだろう。代理合意の条項は救いになるかもしれない。

「やってみよう」ナツは小さく息を吐いた。「ただし、最初の代理利用は俺が引き受ける。三人の合意があれば、代わりに香りを嗅いで理由を一つ読む。ただし、読み取った理由は絶対に一つだけで、解釈は我々ではなく本人の痛みとして扱う。公開の記録と証人が無ければ、代行は認めない。これで連盟内の使用回数を日三回までに制限する。三回を超える緊急は連盟評議の暫定投票で決める」

「日三回か」ラウルは渋い顔をした