異世界転生薬湯師の軍師 第15話「第13章」
湯気が薄く立ち上る窓辺で、ナツは掌に残る薬草の香りを確かめていた。指先に触れたのは先刻、倉庫から取り出した焦げ跡のある小さな束。指の腹に残る煤のざらつきが、旅立ちの決意を冷たく確かなものにした。
湯気が薄く立ち上る窓辺で、ナツは掌に残る薬草の香りを確かめていた。指先に触れたのは先刻、倉庫から取り出した焦げ跡のある小さな束。指の腹に残る煤のざらつきが、旅立ちの決意を冷たく確かなものにした。
「ここにいるだけじゃ、わからないことが多すぎる」ナツは吐き出すように言った。声は低く、湯の音にかき消されない。向かいには、湯場の営業を任された若き施術師リコが、蒸し布を手にして立っている。彼女の眼差しは、その場を守る決意そのものだった。
「出ていくのはいいけど、誰がここを守るの?」リコが即座に返す。手つきは早い。彼女はこの村の湯を、兵も住民も休める場に変えるために昼夜働いている。ナツが去れば、負担が一気にかかるのは明白だった。
「お前がいる」ナツはすぐに言った。「でも俺は、この焦げた薬草がここだけの偶然じゃないと感じてる。供給の系統が、どこかで意図的に混ぜられてる。もしそれが本当なら、ここだけ治しても無駄だ。冷めない湯も、悪夢も、他の場所でまた起きる。」
リコは一瞬黙り込み、窓の外を見た。外では子供が泥で遊び、遠くに軍馬の蹄音が途切れる。彼女の拳が小さく握りしめられた。「それでもここを閉めるわけにはいかない。お年寄りがいるし、あの子たちの母親だって——」
「分かってる」ナツは両の手で彼女の肩に軽く触れた。触れた手に、これまでの湯場で交わした言葉と沈黙が宿っている。彼は自分の欲望を言葉にする。知りたい。根を断ちたい。そのためには、この村を離れて、同じ焦げ跡を辿らねばならない。
「ハルは来るかもしれない」そっと、背後の戸口から声がした。帳場で帳簿を整理していたハル。記録係を名乗る細面の青年だ。彼は文字に真実を刻むことを生業としており、制度の隙間を見つけるのが好きだった。ナツの言葉を聞くと、彼はすぐに小さく息を吐いた。「届いた古い荷札を見てしまったんだ。軍の補給差配の隅に、同じ印が押してある。焦げた葉の、種類まで書かれていた。」
その言葉に、リコの顔が強ばる。ハルは帳簿を差し出し、折れ曲がった紙片の端を指でなぞった。そこには古ぼけた印章と、行軍用の物資名が列記されている。小さな括弧書きで「燻用・耐久」とだけ書かれていた。文字は乱れていたが、ナツには読み取れるものがあった。そこにあるのは偶然ではない、体系だった手配だ。
「何人かの兵が、焦げた薬草とともに行列していたと言ってる」ハルは続けた。「それが補給の一部として配られていた——摂取じゃなくて、混入。しかも各地の供給帳に同じ符号がある。」
ナツの胸の奥で、冷たい何かが広がった。焦げた匂いはただの損耗の跡ではない。誰かが意図的に、長引く疲弊を作るためにそれを配ったのかもしれない。この村の「冷めない湯」と、兵たちの眠りを奪う悪夢の増幅は、単発の現象ではなく、設計図だった。
「まずは情報を拾わなきゃ」ナツは立ち上がり、焦げ薬草を紙に包んで小箱に収める。手は震えていない。だが胸の中では、あの悪夢の縁が冷たく爪を立て始めていた。強制で人を休ませると湯が冷え、俺も同じ夢を見る——その代償が拡がっている。もしこれは軍の制度なら、その代償は個人の範囲を超え、共同体全体に波及している。
そこへ、村のはずれから足音が近づく。サイと名乗る年配の兵出身の男が、肩に筒をかけて入ってきた。元はこの地域の下士官で、戦場を離れた後も軍道具の流れを知っていた。彼の顔はしわ深く、目は少し白濁しているが、語る言葉には艶がある。
「こないだ、補給線の余剰を扱う者が処分されたって噂を聞いた」サイは低く言った。「何人もが、上層からの指示で角が立たぬように消された。指示書の山を見た時、焦げた葉の仕分けリストが残ってた。数量、配布先、そして『希釈用』『耐久補助』という表現——」
「希釈用?」リコが眉を寄せる。「希釈って、どういう意味で?」
「燃焼させて香りを出す、あるいは茹でる湯に少量混ぜる。そうすれば、湯の匂いが変わる。兵は匂いに反応して、自分が休めない理由を正当化する。上で効率を言うなら、休ませないための言説を作るのに最適だ」サイの声は苛立ちを含んでいたが、そこに哀しみも混じる。
ナツはじっと二人を見返した。言葉は大胆だが、彼らが見せる帳票や噂話はまだ断片だ。だが断片がつながるなら、冷めない湯も悪夢も、単なる迷信ではなく、政治的な道具だった。
「俺はそれを確かめに行く」ナツは言った。湯場の小さな空間に、決意の音が響く。「複数の共同体を巡って、同じ焦げ跡があるかどうか。供給記録を当たる。可能なら、配達人の口から、上の命令がどのように降りたかを聞く。証拠があれば、ここで求められているのは単なる補修じゃなく制度の改変だ。」
リコの顔に影が落ちた。彼女は家と仕事と人々を守る人間だ。去ることは裏切りにも等しい。だがハルは帳簿を胸に抱えて小さく頷いた。「僕も行くよ。文字で残す。誰かが『こんなことはなかった』と言い逃れできないように。」
サイは煙草を指で弄りながら、唇を歪めた。「俺には剣ではなく言葉もある。上の者どもと張り合うつもりはないが、現場の証言を出せる。行こう。だが一つだけ言っとく、ナツ。おまえの力を安易に使えば、代償は確実に広がる。強制は禁物だ。俺は誰も眠らせないからといって、暴力で押さえつけるつもりはない。」
その言葉が、自然と共同のルールとなる。ナツは小さく息を吐いた。能力の仕様は揺らがない。薬草を湯へ落とし、その香りから一つだけ「休息を拒む理由」を読む。誤読は不可で、複数の理由を同時に得ることはできない。強引に休ませれば湯は冷え、彼は同じ悪夢に囚われる。だが証拠を重ねていけば、強制に頼らずとも制度を変えられる可能性がある。
「出発は明朝でいい」ナツは言った。「この村はリコに任せる。ハル、帳簿を頼む。サイ、君の目で補給の話を追ってくれ。俺は焦げた薬草の匂いを確かめ、誰がどう指示を出したかの『一つの理由』を読む。読み取ったら、ここで決める。念のため言うが、俺は誰かを無理に沈めたりはしない。あの代償は、もう村に出してしまった分だけでたくさんだ。」
ハルは紙片を強く握り、鉛筆をその手の中で転がした。「旅の記録は、ここに残していく。村の図書館に複写を預ける。あとで誰かが真実を消そうとしても、一つの証拠にはなる。」
夜が更けると、ナツは小さな箱を膝に置き、焦げた薬草を取り出して見つめた。煤の匂いが鼻腔を刺し、かつてないほどに明瞭な映像を呼び起こす。ぬるい湯に沈む兵たち。彼らの目の奥にある虚無。その虚無は、焦げた葉が作り出す匂いによって、休むことが罪であるかのように上書きされていた。
だがそれ以上に、彼の脳裏に浮かぶのは代償の影だった。強硬に休息を強いた時に経験した、あの夢の冷たさ。暗く深い井戸の底に落ちるような感覚。水面は遠く、誰かが笑いつつ肩を押す。あの夢を味わう度に、彼は生者としての温度を少しずつ失っていくような気がした。
朝日が差し込む頃、村の門の前に小さな隊列ができていた。荷物は最低限。ハルは帳簿を背に、サイは古い軍の筒を背負い、ナツは小箱を袂に忍ばせる。リコは門の外まで見送りに来ていた。彼女の目はいつもより強い。去る者を見送る者の決意がそこにある。