異世界転生鉛筆工の王女 第5話「第4章」
朝の木漏れ日が工房の硝子に斜めに刺さると、ハルは手を止めた。今したいこと──芯の接合部の断面をきれいに仕上げて、次の試作に回すこと。今日の午後、王女が護衛を伴って来ると聞いている。王女の筆記を助ける鉛筆の改良を約束した以上、返事はさせられない。
朝の木漏れ日が工房の硝子に斜めに刺さると、ハルは手を止めた。今したいこと──芯の接合部の断面をきれいに仕上げて、次の試作に回すこと。今日の午後、王女が護衛を伴って来ると聞いている。王女の筆記を助ける鉛筆の改良を約束した以上、返事はさせられない。
「庭師が来てるぞ、木材の検分だってさ」
背後からガランが大声で言う。王宮の工房長で、頑固な笑顔の下に官僚の目をしている。ハルは短く唇を動かし、ノミを手に取った。手元で小さな木屑が降りる音だけが、しんと工房に残る。守るべき対象がいつも胸にある。文字を知らない村の人たち。助けを求めてきた者たち。王女も、彼らと同じように「紙に託す」ことで何かを変えようとしているのだ。
「午前中に試作を三本仕上げておきたい。王女には見せる前に、必ず芯の密着を確認して」
ガランが唇を噛んだ。でもその口ぶりには、妙な気配が混じっている。伝令では「王太后の意向に関わる案件」という言葉が踊っていた。直接的な命令とは別に、宮中の空気がいつもより冷たい。
ハルは、鉛筆を削りながら考えた。自分の鉛筆は、書いた言葉の後押しを一晩だけ与える──だからこそ、どこで誰が使うかは慎重に選ばねばならない。だが今朝、削り終えた一本を置いたとき、試作の紙の上で小さな黒い点が目に入った。よく見ると、それは点などではなかった。彼女自身が書いたはずの「案」の字の,一角が不自然に歪んでいる。消しゴムをかけても、研ぎ刀で削っても消えない。文字がそこに埋め込まれたように、紙の繊維ごと黒く沈んでいる。
「……またか」
低い声で呟いたハルを、ルコが横から覗き込んだ。ルコは木工の助手で、ハルより手先が荒いが目は確かだ。
「まだ出るの? 前にもあったけど、まさか工房の呪いじゃ――」
「呪い、ねえ」
ハルの指先が微かに震えた。試作は幾度も公的に検査を受けている。木材の産地、芯の合金、接着剤の混合比まで帳簿に残るほどだ。だがこの黒い歪みだけは、規格外だった。しかも、頻繁に、規則的に現れる。ハルが自分で削り、自分で書いた文字にだけ生じる。消せない誤字──彼女はその言葉を思い浮かべたとき、背筋が凍るのを感じた。
午前の来客は予定より早かった。王女は、淡い藍色の上衣を着て、控えの侍女を少し離して連れてきた。彼女の目はいつも通り穏やかで、その穏やかさがハルには救いだった。王女は机の上の試作を手に取り、優しく触れた。
「これが、あなたが作ったの?」
「はい。もっとも、試作品です。芯の結合性を――」
言いかけてハルは口をつぐんだ。王女の指が「案」の字に触れたとき、紙の黒が浅く光ったように見えた。王女は皺を寄せずに、それを見下ろした。
「これは……読めるけど、どこか違うように見える。私の目がおかしいのかしら」
ルコが横から声を挟む。だが王女はそっと鉛筆を置き、ハルの顔を見た。
「あなた、何か隠してる?」
その問いは、ハルの中にある不安を見透かすもののようで、返す言葉が一瞬出なかった。守る対象としての村の姿が浮かぶ。文字を持たない者たちに、書く機会だけは平等にしたいと誓った自分。だがこの誤字が示すのは、文字が一方的に変質する可能性だ。
「違います。何か材料に起因する不良かもしれません。調べます」
王女は小さく頷いた。彼女の瞳は、宮中の誰よりも早く変化を察する。少し前にハルが聞いた噂──王太后が勅令を紙から現実へと強めるため、特殊な材料を流通させているという話。王女はそれを知っているかどうかはわからないが、内側の人間ほど、真相を知らされていないことが多い。
「私に任せて。公文の筆記には使えないと王太后が気づく前に、改良案を出したいの」
王女の口調は頼もしかった。ハルは胸が熱くなった。だが、同時に手許の感触が冷たくなる。お守りのように指に絡めていた銀の細工が小さく震えたのだ。彼女は自分の能力を思い出した。自分で削り、自分で書いた文字だけを後押しできるということ。今日、王女に渡す鉛筆を試す誘惑は強い。だが一度でも他人の手を取って書かせれば、文字は刃となり、自分の指は動かなくなる。使うべきでない場面に能力を使えば、守るべきものを傷つけることになる。
王女の視線に応える代わりに、ハルは閃いた方法を考えた。能力に頼らず、鉛筆そのものの製法を変えること。誰でも使える道具を作れば、文字の力が一人に留まらない。専門性は独占ではなく、共有へ。そう思うと、足先から指先まで力が戻る。
「王女様、まずは芯と木材の断面を分解させてください。材料の組成を詳しく見ます。何か埋め込まれているなら、私が見つけます」
王女が眉を上げた。工房の空気が一層硬くなる。
「ガラン、許可は?」
工房長はしばらく黙り、やがて重い息をついた。
「王女のご判断ならば止める理由はない。だが宮中の作品に手を入れるのは細心の注意が必要だ。外部者が持ち込んだ材料が混ざっている可能性もある。記録を付けてくれ、ハル」
ハルは小さく頭を下げた。記録。それがなければ、あとで何を変えたのか誰も分からない。守る対象にとって、履歴は盾となる。彼女は作業台に移り、ルコと二人で鉛筆の包みをほどいた。
まずは別の角度から観察する。綿棒で芯を撫で、顕微鏡に乗せる。顕微鏡のガラスの向こうに拡大された芯の表面が、砂のように光った。ハルの目が鋭くなる。芯の表面に、肉眼では見えない微細な筋が規則的に走っている。それは単なる木目や鉱物の結晶ではなかった。繰り返し現れる小さな刻印に、古代文字の断片のような形が混じっている。
「この模様……まるで、刻みが入っているみたいだ」
ルコの声は震えていた。ハルは毛髪より細い刃を取り出し、芯の断面を薄く削った。断面から飛んだ粉末が静かに落ち、銀灰色に光る。そこに、模様は深く沈んでいた。削る角度を変えると、模様は浮かび上がる。まるで芯自体が、意図をもって組まれているようだった。
「接着剤の中に混ぜられた粒子かもしれない。熱に弱い成分なら、加熱して変化を見ると……」
ハルが焙烙皿を手に取ると、王女は離れて見守った。小さな燃え方が、室内に金属の匂いをたらす。粉末は黒い煙を上げ、残った塊は硬い樹脂のように変化した。そこに、薄く白い線が走る。線は断続的で、しかし見覚えのあるような形状だった。ハルの胸が詰まる。あの線は、先日役人の持っていた勅令の角に刻まれていた細工と似ている。だがそれが確証かどうかはわからない。
「……王女様、もし古い勅令の印と関係があるなら、これは単なる不良ではありません。意図的な紋様です。誰かが、筆記具に『何か』を埋め込んでいる」
王女の顔色は確かに変わった。彼女は立ち上がり、窓の外へ向き直った。外庭の緑が静かに揺れている。宮中の高い壁の向こうで、誰かが権力を試みている。ハルは自分の手の先に冷たい緊張を感じた。
「どんな『何か』か、確かめられる?」
「化学的にも、符号的にも解析は続けます。ただ、ここから先は外部の協力が必要かもしれません。王宮の資料庫で材質の履歴を照会できれば、材料の流通を追えます」
ルコが手を差し伸べ、顕微鏡からハルに視線を戻させた。ハルはゆっくりと頷き、紙片に観察結果を書きつける。手は震え