異世界転生風車守の王国騎士

異世界転生風車守の王国騎士 第22話「第20章」

雨ざらしの井戸の縁に、ユズは両手をかけていた。指に残る油と木屑の匂いは、ここでも消えない。今したいことははっきりしている――記録を、声を、誰かの記憶を守ること。止めに来るものがあるのなら、それに備え、証を散らし、複製し、誰の目にも触れるようにしておく。それが、風が奪われる前にできる最も現実的な防御だ。

雨ざらしの井戸の縁に、ユズは両手をかけていた。指に残る油と木屑の匂いは、ここでも消えない。今したいことははっきりしている――記録を、声を、誰かの記憶を守ること。止めに来るものがあるのなら、それに備え、証を散らし、複製し、誰の目にも触れるようにしておく。それが、風が奪われる前にできる最も現実的な防御だ。

「ユズさん、向こうの道でまた徴税の車列を見たって。旗を立ててた。逆風の旗だ」

ハルが肩越しに息を切らして駆け寄る。小柄な老人の顔は朝日で赤くなり、いつもよりも慎重な輪郭をしていた。ハルは村の年長者で、ここ数か月は合意の取りまとめに奔走している。彼の後ろにはトオルが控え、革の巻物を抱えていた。トオルは文字を書く者だ。彼の筆跡が村の声を残す。

「どのくらいの規模だ?」とユズ。

「騎士の者が数人、測定機を据えていたという。風の量を数字で取ってるらしい。異国へ送るんだって――国境側へ、全部の記録を送りつける準備だと」

ユズは井戸底へ目をやる。井戸には古びた風笛が一本、縄で垂れ下がっていて、風が通るたびにひゅうひゅうと低い唸りをあげる。あの音は、ここが集まる場所だと人々に知らせる合図にもなっている。ユズはその風笛の穴を撫でた。そこに記録を隠すことはできないが、そこに印をつければ、記憶をつなぐ合図になる。

「奴らが風を数にして管理するなら、声を数にして返してやるだけだ」とトオルが言う。彼の指先は震えていたが、言葉は確かだった。

「数だけじゃ消せないものを残すんだ。匂いだ、手の皺だ、日の当たり方まで書く。後から来て『そんなことはなかった』と言われても、そこに居た全員が同じ細部を口にできれば、嘘は崩れる」

ユズはうなずいた。言葉だけではなく、物理的な証も必要だ。収穫を奪われた畦、踏みならされた土、焼けた柵。写真のような記録はないが、匂いも、土の固さも、触れた感触も、書き付けられれば再現可能だ。ユズは自分の呼吸を確かめる。いつものように、胸の奥に鉛を抱えている。能力を使えば、風は分けられる。しかし使い方を誤れば、再び羽根が裂ける。肺はまた乱れ、息苦しさが襲う。ユズはその代償をもう二度と背負わせたくないと、固く決めていた。

そこへ一人の女が走ってきて、顔をひどく歪めた。「ユズ! 借りていた帳面を取りに行ったら、騎士が燃やしてしまって……。私、はっきり覚えてるのに、息子が『そんなものはなかった』って言うの。夜のうちに何か言われたって」

女の名はセイナ。ユズが最初に助けた老婆の一人だ。セイナの手の平には黒いすすがついていた。彼女の眼は血走っていた。ユズはすぐにしゃがんで、その手を取った。暖かさが、まだ残っている。

「燃やしたのか。誰が見た?」

「こっちの小屋の者が。だが――」セイナは言葉を詰まらせた。「朝になると、その者は畑に行って、何も見てないって言うの。私の声が消えそうで……でも、私は覚えてる。確かに燃やしたんだ。黒い火で」

記憶が、他人の言葉で塗り替えられる。村で、そんなことが起きている。噂だけではなかった。ユズはセイナの目を見る。彼女は震えながらも、記憶の端々をこぼし始めた。ユズはトオルに合図を送る。トオルは震える手で筆を走らせる。ハルは周囲に声を掛け、証人を募った。

証言を集める間にも、村の外では変化が起きていた。騎士団は、国境で風の流れを「封じる」装置を設置しているという。測定するはずの風を、具体的な数字に落とし、それを根拠にして通行や交易を制限する。風を封じれば、渡る者の数も減る。渡る者が減れば、声も伝わらない。ユズはその意図をすぐに理解した。風を数値化して支配する。次にやるのは人の記憶と移動を数字で規制することだ。

「このままだと、証が消える。記録を遠くに残す必要がある。分散させろ。ここにあるものを全部写し、複数の場所に送るんだ」

ユズは冷静に命じた。彼の言葉は力があった。集まった者たちはそれぞれの役割を自覚して動き始める。リナは近隣の丘の人に走り、渡しを頼む。カイは村の外を見張る役割を引き受けた。カイは元傭兵で、力で物事を解決することを知っているが、今は任務を守るだけだと自分に言い聞かせている。誰もユズを盾にしようとはしない。彼らは皆、それぞれの判断で動いた。

「ユズさん、でも……」トオルが言う。「ここから持っていくには道が塞がれるかもしれない。風で運べないか。あなたなら――」

トオルの声は願いに満ちていた。彼の瞳は、ユズの持つ力を一番に頼る。ユズはその眼差しを受け止めた。胸の奥がざわつく。使えば風は確かに分かれる。だが、以前の一件が頭をよぎる。あのときの羽根の音、胸を締め付けるような痛み。ユズは首を振った。

「無理はしない。あれは一人の願いではもう使わないって決めた。代償が重すぎる」

セイナが泣きそうな顔でユズを見た。「でも、トオルの巻物が燃やされた。家の外に出しておけないんです。子どもたちも夜に泣いてる。どうか、ユズさん……」

ユズは小さな息を吐くと、周りを見渡した。たくさんの人の顔があった。彼らの目には恐れと決意が混じっている。ユズは知っていた。能力にはルールがある。自分で整備した風車は、村人が回したいと願う方向へ「一度だけ」風を分ける。単独の願いは刃を折り、彼の呼吸を乱す。だが複数の希望が合わされば、消耗は遅くなる兆候がある。彼らはすでにそれを何度か試してきた。共有の意思が、代償を薄める。

「こうしよう」とユズは言った。「三つの場所へ分ける。リナは北の小屋へ、カイは東の墓所へ、ハルは森の古い風見に。トオル、お前はここで原本を作る。複写を作って、同じ日に三人の合図で風を呼ぶんだ。一人じゃない。全員の願いで回す。いいな?」

トオルは顔を強張らせたが、すぐにうなずいた。セイナも、涙を拭って頷く。集まった者たちが一つの方向を向いたとき、ユズは自分の手を風車の羽根に触れさせた。彼が整備したのは、村のはずれにある小さな風車だ。刃は古いが、彼の手入れでまだまわる。

「数を数える。三つの合図が揃ったら、一緒に願え。誰か一人のためじゃない、私たち全員のために」

合図は単純だった。井戸の風笛を鳴らすこと。風笛の音は合図となり、近隣の協力者にも伝わる。みなが小さな石を握りしめ、声を合わせる。ユズは息を整えた。胸の圧迫はあるが、以前ほどではない。これは、皆でやることの力だ。

「せーの!」

三つの声が一斉に上がる。井戸の風笛が低く鳴り、風車の羽根に触れたユズの掌がじんと冷たくなる。風が分けられる。白い紙片が、畑の匂いを運んで、村の小路を抜けて飛んでいった。小さな紙束が、北の小屋の軒先に引っかかり、東の墓所の苔の上に落ちた。風は薄いが確かに違った方向へ流れ、記録は散らばった。

作業が終わると、ユズの胸は重くなった。呼吸は浅く、しばらく言葉が出ない。羽根に小さな亀裂が浮かんでいるのが見えたが、折れるほどではなかった。誰も喜びの声をあげず、ただ安堵が村の中に渦巻いた。リナが肩を震わせて笑った。トオルは震える手で巻物を胸に抱えた。

だが、安堵は脆い。ユズの耳に、新しい噂が届いた。騎士団は、ただ風を封じるだけでなく、人の記憶そのものを訂正する装置を試験的に使っている