異世界転生風車守の王国騎士 第15話「第13章」
ユズは指先に残る油の匂いを嗅ぎながら、羽根の付け根に沿った小さな亀裂を指でなぞった。谷間の風は静かで、風車はゆっくりとしか回っていない。彼の目の前に、村の年寄りたちがひとつの座布団を囲んで座っている。座布団の端に座るレイナ婆が、折り畳んだ地図の端を指で押さえていた。彼女の声はいつもより低く、震えている。
ユズは指先に残る油の匂いを嗅ぎながら、羽根の付け根に沿った小さな亀裂を指でなぞった。谷間の風は静かで、風車はゆっくりとしか回っていない。彼の目の前に、村の年寄りたちがひとつの座布団を囲んで座っている。座布団の端に座るレイナ婆が、折り畳んだ地図の端を指で押さえていた。彼女の声はいつもより低く、震えている。
「行ってくれんかの、ユズ。向こうの長屋の子が、今朝から吐き続けておる。畑もよそ見できんだろうが、あの子の瓜はまだ熟れておる。……ここに書いてあるのは、あんたのことを監視したという証拠じゃ」
ユズは唇を噛んだ。地図の脇に差し出されたのは、黒い封印の押された紙片と、小さな銅の印章だ。銅印は表面が光を帯びていて、そこに刻まれているのは見慣れた騎士団の紋章。ユズはそれを避けるように視線を外し、羽根の亀裂だけを見つめる。
「監視って……何を調べたって言うんだ」
座にいる若者、マルクが前に出て、紙片を開いた。そこには数行の走り書きと、紙の端に貼られた薄い金箔の帯があった。金箔には、小さな粒子を捕らえたような線と、図形のように規則的に並んだ黒点がある。マルクは指で金箔をなぞり、息を吐いた。
「あんたがここで使った風のパターンを、だと書いてある。羽根の損耗の痕跡、使った後の呼吸の乱れ、それがどうやら『異常な出力』として記録されたらしい。向こうの役所は興味を持ったんだと。これ、レイナ婆が今日受け取った巡回官からの報告だ」
レイナ婆はゆっくりとうなずいた。「巡回官はな、徴税ではなく『調査』の名目だと言っていた。でもな、ことわざの通りじゃ。魚を見つければ網をかける。向こうの報告書には、『操作の可能性』とある。つまり」
「兵器にできるか見てくれってことか」とユズは言った。声がかすれて、自分でも驚くほど低かった。そんな言葉を口にしたくなかった。だがそれは、彼が背負っている現実の一端に触れた言葉でもあった。
「そうだ」とレイナ婆。「文面には、あんたの呼吸の乱れを数値化している。あんたが一人で使った時のデータが明確にあると。向こうではそれを『オペレーターの負荷』として扱っておる。つまり、特定の者を動かせば風を止める部署を作れる、という話だ」
ユズの掌の中で、羽根の亀裂が冷たく唸るように感じられた。胸の奥で、昔の感覚が波紋になって広がる。匂い、油の感触、そして——息を詰めた瞬間に訪れる、胸の圧迫。彼は自分がその場で、何度か一人の願いを受けて風を分けた夜について考えた。飯をくれと頼む老婆、病に苦しむ子、刈り取れぬ麦の房。それらの顔が浮かび、そして消えていく。代償が常にそこにあることを彼は知っていた。だが今、その代償が紙に印字され、遠くの者に利用可能な資源として提示されている。想像しただけで腹が冷たくなった。
「向こうが何をするか分からん」マルクが続けた。「もしあんたを連れ去れば、村は風を失う。羽根は儀式みたいに扱われ、あんたは金色の縄で括られて使われる。そうなれば、うちの谷は分断される。移動も、声も、いろんなことを取られる。あいつらはそれが得策だと考えるだろう」
村の若者たちは顔を見合わせる。顔には怒りと恐れが混ざっている。ユズは指の力を強めた。羽根の亀裂が小さくパチンと鳴るような気がして、思わず足がぞくっとした。
「俺は……一人で動くのはやめる」とユズは言った。言葉は外向けの決断だったが、自分自身に対する約束でもあった。「ここにいる誰かの願いだけで羽根を回すわけにはいかない。羽根が壊れ、俺の息が潰えることはもう見たくない。たとえ村を救えても、それが長続きする道なら選ばん」
「選ぶってことは、どうするつもりだ?」とレイナ婆が尋ねる。彼女の瞳は、谷間で起きることを全部見透かしているように鋭かった。
その時、風車の下に砂を蹴る音がした。小さな影が土煙をあげて走り寄ってきた。肩に斜めに掛けられた袋には、赤茶けた布切れの先端が覗く。地域連合の標だった。影の先に立っていたのは、隣村の風車守であるミラル。彼女はユズを見ると軽く深呼吸し、息を整えて言った。
「ユズ、話し合いの時間だ。連合の使いが来て、言っていた。向こうはずっと観察していたと。あんた一人を狙っている、と」
ミラルの表情は疲れていたが、眼差しは静かに強かった。彼女も風車を守る者として、自分の谷と隣接する谷をつないできた人物だ。今日は連合の使いが来る。ユズはそれを待っていた。だが待つ理由は、単なる情報交換だけではない。ユズは自分が抱える負担を、分かち合う術を見つけたかったのだ。
しばらくして、山の方角から四輪の軽い車輪の音とともに、連合の代表団がやってきた。旗幟を掲げた二人の男と、書類を抱えた女。代表のひとり、外套に金糸の紋章を刺繍した女が車輪から降りると、立ち止まり、深々と礼をした。
「谷間の風車守ユズ殿、連合代表のソレアだ。ここまで来てもらった。状況は承知している。向こうの消息筋からの連絡もある。私たちはあんたに来てもらいたい」
ソレアの目がユズをまっすぐに見た。そこには政治家の冷徹さのようなものはなく、むしろ疲労の混じった誠実さがあった。彼女は書類を広げ、その一枚をユズの前に置いた。そこには、複数の村の風車が描かれ、それらを結ぶ線が網目のように走っている。図の隅に、小さな文字で「同期案試作」とある。
「君の被害データが向こうに届いている。向こうはそれを『オペレーターの出力』として評価し、兵器化の可能性を示唆した。だが私たちは、それを逆手に取る。個別の願いに頼るのではなく、複数の村の願いを同時に募って、負荷を分散する。君一人にかかる負担は減るはずだ。合意の輪を広げることで、向こうに『単独の操作者』を差し出させない。ここが我々の提案だ」
ユズは図をじっと見た。線が風車を縫っていく様は、地図上の河のようでもあり、網の目のようでもあった。頭の中で何かが結びつき、彼の中の小さな炎が広がる気がした。だが同時に、図の端に小さな注記があるのが目についた。小さく書かれた文字——「中心監視ノード」——に、彼は軽く眉を寄せた。
「中心監視ノードって、何だ?」ユズは尋ねた。声は冷静に保とうとしたが、手の指先が震えた。
ソレアは一瞬、表情を曇らせたが、すぐに落ち着かせて答えた。「それは……理想的には、存在させない。だが計画を実行するための技術的注記だ。具体的には、風車ネットワークの状態を把握するための測定点のこと。だが我々はその管理を中央に渡すつもりはない。測定はあくまで自治のためのものとして限定する。向こうにちゃんとした対抗軸を見せるため、もし連合が統一的な名目で動けば、徴税や押収の口実を作らせにくくなる」
マルクが舌打ちした。「向こうが監視のために『測定』を受け入れろと言ったら、我々は何を守ればいいのか。結局、同じ穴の中に落ちるだけだ」
ソレアはマルクの顔を見て、ゆっくりと首を振る。「だからこそ合意と透明性が必要だ。測定データは公開され、複数の村の代表がそれを管理する。君は中心にはならない。君は技術顧問として、羽根の整備と合意の手続きを教える。君個人を管理するための制度にはしない」
ユズは腕の筋肉に力を入れた。心臓が早鐘を打つように響く。