異世界転生紙漉師の勇者 第6話「第5章」
朝の水車はまだ眠っている。細い霧が谷を満たし、屋根の草は露に重く沈んでいた。スズは手拭いで額の汗を払うと、土間の蒸気が上る小さな作業場から外へ出た。目の前には昨日の紙片を畳んだ箱がいくつか積んであり、その横でアルマが膝を抱えて座っている。アルマは眠れていない目を薄く開け、声を震わせて言った。
朝の水車はまだ眠っている。細い霧が谷を満たし、屋根の草は露に重く沈んでいた。スズは手拭いで額の汗を払うと、土間の蒸気が上る小さな作業場から外へ出た。目の前には昨日の紙片を畳んだ箱がいくつか積んであり、その横でアルマが膝を抱えて座っている。アルマは眠れていない目を薄く開け、声を震わせて言った。
「スズ、あの紙、今日中に…どうしても読まないといけない気がするの。市場へ持っていくお金も、もうないし…」
スズは箱に手を触れた。紙の縁は水分を吸って柔らかく、微かに黄を帯びている。彼女は自分のしたいことを、はっきりと感じていた。村を埋める雨のような記憶の破片を、ただ積み上げておくわけにはいかない。拾われずに漂う過去が、人を裂き続けるのを止めたかった。アルマだけでなく、夜ごと記憶の断片に胸を突かれて歩けなくなる人々を守りたい。だからこそ、彼女は手を動かして紙を漉き、読みやすい形に戻す技を広めたかった。
だが、妨げがあった。村の噂は速く、誰もが簡単な救済を望んでいる。市場が提示する「過去を金に換える」選択は、即金と解放の約束を持っていた。アルマは首を振り、空気を切るように言った。
「市場でなら、すぐに現金になるって。私、妹に相談しても迷惑だし、あれを売れば借金は帳消し…」
スズは息を吸い込んで、低い声で答えた。「アルマ、私があなたの代わりにあの紙を無理に漉くことは、できない。できないの。」
アルマの顔がこわばった。言葉が抗議の矢のように続く。「でも、あなたがいるじゃない。手を貸して。誰にも見せたくない――でも、どうにかして読みたいの!」
スズは箱の蓋を開け、そこにある破片を一枚取り出した。紙は小さく、赤いインクで断片的な文字と、薄い手の跡のような模様が見える。触れれば温度が伝わる。だが、彼女の指はその紙に触れない。彼女は自分の能力の境界線を示したかったのだ。
「アルマ、あなたが自分でその紙を手放すって言わない限り、私はそれを漉さない。私が手を出せるのは、本人が自分で『これを渡す』って言ったものだけ。勝手に触ると代償がある。」
言葉の最後に、作業場の空気が冷たく沈んだ。アルマの手が震えて、隣に居た若い鍛冶職のカイトが鼻を鳴らした。
「なんだそりゃ。お前は紙を直せるって言ってたじゃねえか。そんな条件つきなら、意味がねえよ。市場に渡した方が早え。」
「意味がないって言わないで。」スズは静かにカイトを見た。「私が漉した紙には、私の名前が入る。誰が手を貸したかわかるように。この名前は、読んだ後にその記憶をどこで出したか、誰が責任を持って見たかの証なんだ。もし私が、本人の同意なしに他人の記憶を漉してしまったら——」スズは言葉を切った。言い切れない重みが床に落ちる。
アルマがかすれ声で訊ねた。「どうなるの?」
スズは蓋の裏に小さな墨で自分の名前を一文字書いた紙片を取り出した。普段は、漉した紙の片隅に自分の印を残す。彼女はその紙を見せる。墨の線は鮮やかに残っていたが、隅の空白が、まるで誰かの手で拭い取られたように無地だった。
「私の名前が、そこから消える。名前が消えた紙は、その時点で記憶が元に戻せなくなる。戻せないって、つまりその人の過去の一部が、もう二度と手に入らなくなるってことだよ。」
話した瞬間、作業場にいた誰もが息を呑んだ。カイトが財布をもぐらせながらぼそりと言う。
「それじゃあ、もし誰かが無理に漉せって言ったら…俺らの頼りがいが消えるってことか?」
「そうなる可能性がある。」スズは紙を箱に戻した。「だから私は、誰かの代わりに決められない。私ができるのは、『同意の場』を作ること。本人が自分で手放すって意思表示をする。見える形で、証人がいる中で。そうすれば、漉された紙には、その人の意思が刻まれる。私の名前は、助けた証として残る。」
アルマは唇を噛んだ。村長の老女ナルもそこに来ていた。ナルは長年の決断力で知られているが、その額に皺を寄せながら頷いた。
「読みたい気持ちと、取り返しのつかないことは別物だ。スズの言う通り、同意のある場を作れ。村で決めて、それを守るんだ。」
託児をしていた家族も近寄ってきて、子どもが紙片を拾っては困るように、小さな箱に蓋をする方法、保管のための布、いつ誰が見てもわかる印を作ることが話し合われた。議論は少しずつ形になっていく。スズは口を挟まず、ひとつずつ提案を受け止めた。彼女の望みは、自分一人の救済ではない。共同作業で、人が自分の過去に責任を持てる場をつくることだ。
「それなら、まず今日は読み会の手順を決めよう。」ナルが立ち上がる。「読み会は家の広場で。本人が来られない場合は、代弁は認めない。必ず本人の言葉と、三人の証人が必要だ。証人は家族や近所の者でいい。スズはそこで漉すかどうか判断して構わないが、強制はしない。」
その場で、簡単な同意の竹札が作られた。竹札には持ち主の名と「これを渡す」という短い文言を墨で書く。本人がそれを竹札とともに箱へ入れ、箱の鍵は複数人で管理する。スズはその実効性のために、漉した紙に自分の印を押すこと、行為の記録は村の帳に残すことを提案した。ナルは頷き、アルマが涙を拭いた。
「それでいい。市場へ持って行かずに、まず村でできることを試してみる。」アルマは小さく息を吐き、笑みを崩した。「ありがとう、スズ。」
だが会話が和んだ瞬間、外から勢いのある足音が近づいてきた。若い男が息を切らし、赤い顔で広場に飛び込んだ。男の手には、一枚の紙がぎゅっと握られている。紙の角は泥で汚れ、誰のかもわからないような破断面が出ている。
「こいつを見つけたんだ! 偶然、川に積もってた。誰のか分からねえが…これも、あの雨の破片の仲間だろ? これを漉して内容を確かめろ、さもなくば村がまた騒ぎに巻き込まれる!」
男の声は供述調の早さで、脅しのように聞こえた。集まった者たちの顔が険しくなる。スズは一歩前に出た。手は箱の近くに置かれているが、紙には触れない。
「持ち主がいない時は、私でも勝手に漉せない。本人が『渡す』と言ったものだけを扱う。無記名のものは、まず保管だ。」
男は舌打ちをした。「そんな悠長なことを言ってる場合じゃない。市場の連中は名も知れぬ記憶を集めているんだ。そのまま放っておけるか!」
鍛冶のカイトが前に出る。彼は怒りを抑えきれない声で言った。「この村は過去の破片で疲弊してる。ちょっとでも情報が得られるなら、漉して原因を突き止めるべきだろう!」
スズは顔を向け、低く答えた。「わかってる。でももし私がその紙を、本人の同意なしに漉してしまったら、その記憶は戻らない。想像して。親が眠る理由、子どもの笑いの一部、誰かの最終の言葉。戻らないんだ。代わりに、私の名前が紙から消える。私がここにいた証も、そこで切れてしまう。」
男の手がぎゅっと強くなった。誰かの必死さがそこにはある。だがナルがゆっくりと隣に立ち、男の肩に手を置いた。
「私たちは急いでいる。でも急ぐがゆえに壊すわけにはいかぬ。まずは保管して、竹札で印をつけ、持ち主を探そう。もし数日のうちに名乗り出る者がいなければ、村会議で他の処理を決める。村が決めるんだ、外の市場に丸投げする