異世界転生紙漉師の勇者 第20話「第18章」
雨上がりの石畳がまだ濡れている。スズは手袋を外して、指先で冷たい空気を確かめた。今したいことはただ一つ──あの白い紙を村へ持ち帰ることだ。図書室の核になる。落ちる紙片を記録として留め、語る場をつくるための象徴。胸の奥がぎゅっと締め付けられるように熱くなった。
雨上がりの石畳がまだ濡れている。スズは手袋を外して、指先で冷たい空気を確かめた。今したいことはただ一つ──あの白い紙を村へ持ち帰ることだ。図書室の核になる。落ちる紙片を記録として留め、語る場をつくるための象徴。胸の奥がぎゅっと締め付けられるように熱くなった。
「本当に、これを持って行くのかい?」
隣に立つトミンが、古ぼけた書架の角をつまむようにして言った。年齢は四十を少し過ぎているだろうか。市の記録局で働く彼は、目が丸く柔らかいが、仕事の前では堅実すぎるほど堅実だった。トミンは慎重に視線をそらし、棺のように守られた収蔵室の中へと続く扉を指差した。扉の向こうには、白い紙が収められた箱が置かれている。
カエデが小さく息を吐いた。薄紫のマントを羽織った若者で、スズと最初に出会ったときから仲間たちの連絡係を買って出ていた。彼女はスズの右手に軽く触れ、言葉少なに「行こう」と促す。ついて来た理由は、ただの好奇心だけではない。彼女の顔に刻まれた疲労と決意が、村を守るというスズの決意と重なっていた。
「持ち出すには同意が必要だ。公的な品は無断持ち出しをされれば、こっちが疑われる」とトミンは続ける。「だが、この紙はこれまで誰にも貸されたことがない。扱いの規定も曖昧だ。展示にも適さず、研究者も何故か避けてきた」
扉は重かった。収蔵室に入ると、空気が一瞬変わった。紙の匂いと、長年押し込められてきた記憶のような湿り気が混ざる。中央に低い台があり、その上に木箱が一つ。箱の蓋には古い伝承の図が彫られ、綺麗に磨かれていたが、使用人の手入れの跡がないため埃をかぶっている。
「見せてください」
スズの声は震えていなかった。だが内心では、もしここで何かを誤れば、彼女がかつて恐れた代償──名前が薄れること──が現実になるのではないかと、冷たい汗が背中を伝った。能力の条件はいつも彼女を縛る。本人が手放した記憶の紙片だけを漉き直せるという性質上、他者の記憶を無断に扱えば名前が紙から消え、記憶は元に戻らない。だからこそ、法的にも倫理的にも、彼女は他者の所有物を不用意に動かすことを極力避けてきた。
トミンが鍵を回す。金属音が静かに響き、箱の蓋が外れた。白い紙が、その中に折りたたまれて静かに横たわっている。灯りのせいか、紙はほのかに光を帯びて見える。箱の縁に沿って、古いラベルが貼られていた。文字はかすれていて判読できないが、ひときわ目を惹くのは、それが「白紙」とだけ記されていることだった。
スズはしゃがみこみ、紙の端を指先で撫でた。感触は紙そのものだった。柔らかく、薄く、でも弾力があった。思わず力を入れて引っ張ってみる。普通の紙なら裂けるはずの力だ。だが繊維の手応えのようなものが指先に残り、紙はびくともしない。スズは驚きと同時に、胸のなかに温度の変化を感じた。
「裂けない……?」
小さな声にトミンが眉を寄せ、カエデも顔を近づける。スズはゆっくりと紙を持ち上げ、折り目を伸ばすように両手で広げた。広げるほどに白は鮮烈になり、その白さが周囲の空気を吸い込むようだった。紙を何度折りたたもうとも、折り目は戻らない。鋭利な小刀で端を擦ってみると、金属がいやに鈍く当たり、刃先がすぐに曇った。水を一滴垂らすと、珍しく水滴が玉になって転がるだけで、紙は濡れない。説明のつかない性質が、静かに三人を包んだ。
「素材が違うんだろうか。化学的な加工かもしれないが……それにしても、ここまで完全に条件を変えるものは珍しい」
トミンは手袋をはめ直し、専門家の言葉で独り言のように呟いた。だが彼の目には、研究者としての好奇心の光とは別に、どう扱うべきかという倫理の迷いが見える。収蔵室に置かれた理由は分からない。誰かが特別に保護し、外部へは明かしたくなかったのだろう。
「名前のことを心配してるの?」カエデが尋ねる。声には心配以上に鋭い察しがあった。
スズは小さく頷いた。あの日から、噂は尾を引いている。彼女の名前が薄れたという話は村にも、都市の一部にも届いている。だが彼女は、名誉や復権よりも先に守るべきものがあると学んだ。守る対象は村の人々と、最初に助けを求めた者たちだ。図書室が彼らの選択の場になるなら、そこに白紙は希望の柱になる。
「これは記憶の紙片じゃない。ただの白紙――だと、ここには書いてある」とスズは言って、紙の白さを見つめた。「だから僕(私)が手を触れても、私の能力の代償は働かないと思う。でも」彼女は言葉を切った。「それでも、持ち出すには証拠と、受け入れ先が必要だ。村に帰ってからでも盗品だと言われたら、図書室の許可も危うくなる」
トミンはゆっくりとキスするように唇を結んだ。「収蔵局としては貸出は基本的に否定だ。しかし、例外はある。文化的保存と共同体のためという理由なら、委員会で特別承認を取れる。だが時間がかかる。それに、王立市場の目が届くようになってきた。彼らの使う法的手段は早い」彼は低い声で付け加えた。「そして……市場側とは、ここにも裏で繋がりを持つ者がいる」
その言葉に、空気が一瞬ひんやりした。カエデが拳を握る。スズは、短い間に考えをまとめた。窓の外に見える市場の高い屋根と、商人たちの気配を思い出す。あの市場総監は、制度と法を操ることで人々の記憶を商品へと変えた。白紙が公開されれば、結果次第では市場の新たな利用法として取り込まれる危険もある。
「持ち出すなら、正当に、公開の手続きを踏もう」スズは決めた。彼女の声は以前より落ち着いていた。「私たちが先に言い分を提示して、白紙の用途を示す。図書室で使うこと、売買を禁ずること、村と連携した保存方法を設定すること。それが受理されれば、白紙は守れる」
トミンは苦笑いをした。「理想的だ。だが、理想と現実はいつもずれる。承認を待つ間、市場の動きは止まらない。誰かが情報を嗅ぎつければ、紙を狙ってくるだろう」
カエデは目を細めて、収蔵室の小さな窓から外を見た。通りの向こうで、荷車が行き交い、幟がはためく。市場の旗だ。その波の中に、見覚えのある顔を見出すことはできないが、気配は確かにある。
「ならば、移動だ」スズは言った。「ここに置いておくより、私が持ち帰る方が安全だと判断する。村へ持ち帰り、図書室の基礎にする。手続きは並行して進める。正規の貸与申請を出して、承認されれば戻す。だがまずは、紙を安全な場所へ」
「お前が持つのか?」トミンが驚いた顔をした。
スズは自分の手に視線を落とした。薄い掌。そこに残る微かな波紋のようなものは、彼女が名前を失う恐怖の記憶だ。だが今回の紙は――記憶の紙片ではない。彼女が扱えば代償を呼ぶわけではない。自分の体が持つ限界と、仲間たちの信頼を比べたとき、答えは明白だった。
「私が持つ。誰も巻き込ませないために、私が行く」
トミンは一瞬、何かを問おうとしたが、継続する言葉は空気に溶けた。代わりに彼は、箱から白紙を慎重に包み、布で巻いた。包みの中からは光は漏れないが、張りのある白がぼんやりと透けて見える。トミンは封印のための紐を結び、収蔵局の承認印を押した小さな証明書を添えた。それは貸し出しの仮の許可のようなものだった。
「ただしだ。移動中は注意しろ。目立