異世界転生紙漉師の勇者

異世界転生紙漉師の勇者 第10話「第9章」

朝の光が雲紙の薄片を透かしたとき、スズはまだ指先の感触を確かめていた。昨夜の公開の場で漉いた紙が、村人たちの前で静かに表情を決めた――誰かの言葉が誰かの胸に落ちる瞬間を、彼女は何度も見たかった。今したいことはただ一つ、そこにいた人たちの手に、読みやすく安全な紙を渡し続けることだった。渡された記憶が売られることなど、もう二度と見たくなかった。

朝の光が雲紙の薄片を透かしたとき、スズはまだ指先の感触を確かめていた。昨夜の公開の場で漉いた紙が、村人たちの前で静かに表情を決めた――誰かの言葉が誰かの胸に落ちる瞬間を、彼女は何度も見たかった。今したいことはただ一つ、そこにいた人たちの手に、読みやすく安全な紙を渡し続けることだった。渡された記憶が売られることなど、もう二度と見たくなかった。

だが、妨げはすぐそばにあった。広場の片隅、木の樋の下に集まった紙片の山の縁で、レンが腕組みをしている。若者だ。昨夜の読み会で声をあげ、スズの横に座った一人だ。レンの表情はいつもより固かった。遠く、村を出る土路の方から荷車の軋む音が聞こえてくる。音は民の仕事ではない、消息を運ぶ者のそれだった。

「見たか、スズ」レンが低く言った。「市場の男が、あの荷車を運んでいった。まだ朝のうちだ。密かに、だ」

スズは一瞬紙を抱えるように腕を組み直した。抱いているのはアルマが手放した、彼女自身の記憶を漉き直した一枚だ。手放すときのアルマの顔を思い出す。震えながら、だけど確かな決意があった。あの記憶は売られない。今はまだ村にある。

「どこへ?」スズは訊いた。声は穏やかに保ったつもりだったが、胸の奥がざわついた。市場が直接動いたのなら、流出は単なる村の問題を超える。市が絡めば、流れは速く、終わるのは記憶そのものだ。

レンは小さく舌打ちした。「北へ。旧道を使っているらしい。夜に来るやつらじゃない、昼間に収めるために運び出していた。子供たちが見たって」

スズはその言葉に目を細めた。昼間に運ぶということは、人目を避けるために手際よく動くか、誰かが協力しているかのどちらかだ。協力者がいるなら、それは村の内部か、物を運ぶ山道の仕切りかもしれない。だが確かなのは、昨夜の成功を機に市場側が動いたことだった。

「監視を増やす」長老ミオが言って、杖をつきながら前に出た。ミオの声はゆっくりだが確かだ。「だが、見張りは事情を悪化させることもある。市場に知れれば、彼らは手を早める」

スズは紙を抱えたまま長老を見た。自分のしたいこと、守る対象はここにいる。村人たちと、最初に助けを求めたアルマたちの顔だ。仲間たちは自分の道具のように動くわけではない。レンは自分の正義を持ち、長老は自分の恐れを持っている。スズの役目は、雲紙を漉いて人々の語りを取り戻すことであり、それは力を使って抑え込むことではない。

だが、障害はもう一つあった――スズが扱える紙片には、発動条件と禁忌があった。自分が説明するよりも、村の中で今は誰もがそのルールを知っていた。本人が、自分の意志で手放した紙片だけを漉き直せる。勝手に他人の記憶を漉けば、紙にスズの名前が残らず、記憶は元に戻せない。――名が消える、という話はいつも重く胸に残る。

「誰も無断で触ってはならない」アルマの声がふいに横から漏れた。アルマはまだ顔に疲労の影を残しつつ、でも背筋を伸ばしていた。「あの記憶がどうなっても、私のせいにしないでくれ。私は自分のものを渡した。それだけははっきりしている」

「分かってる」スズは即答した。自分の能力の代償が、自分自身を超えて共同体との信頼に直結していることを彼女自身が一番恐れていた。もし誰かが無理に記憶を奪われ、それをスズが触れてしまえば、スズの名前が消えるだけでなく、共同体は彼女を見る目を変えるだろう。支え合う関係が壊れる。だからこそ、触れぬものは触れぬと決めている。

だが、触れられないものが売られているとなれば話は違う。昨夜の成功が市場の目を引いたのなら、売る側は卑劣な方便を使う。黙って運び出す、あるいは「本人が渡した」と偽る帳簿を用意する。実際、スズの手の中にあった一枚には、丁寧な筆致で「受領」とだけ書かれた断片の切れ端が貼られていた。レンがそれを拾って差し出した。

「これがあったのを見つけた」レンは言った。「廃屋の梁の下に隠してあった。誰かが帳簿を改ざんして、『受領』の印を偽造している。これが本物かどうか、スズ、君に見れるか?」

スズはその紙片に触れようとして手を止めた。触れれば発動条件に当てはまるかを確認できたであろう。だが条件は本人の自発的放棄。「受領」とあるだけでは不十分だ。もし偽造なら、スズが触れた瞬間に代償が発動する――名前の消失。空中に吸い込まれるようにして、漉し直した紙から自分の名が消えてしまう光景を、彼女は想像してしまった。

「自分で確かめるなら、アルマの了承を得てからにして」ミオが諭す。「だが、これは帳簿の改ざんの痕跡だ。丸ごと証拠にすべきだ」

スズの内心は乱れた。証拠が欲しい。市場の介入を示す物的な手掛かりがあれば、村はもっと強く立てる。だがそれを確かめるために自分の名を賭けるわけにはいかない。代償は不可逆だ。名前が消えたら、スズという存在の証明が薄くなり、人々が彼女に託す信頼は目に見えない形で決壊するだろう。

そこへ、子供の一人が息を切らして駆け込んだ。「スズさん!見ました、見ましたよ。市場の荷車が、あの山道を下っていった!あの坊主頭の男が指図してた!」

子供の声は震えていた。よほど怖い光景を見たのだろう、言葉が断片的に飛ぶ。スズはすぐに動いた。証拠は紙だけではなかった。目撃者は存在する。だが目撃者の言葉は市場側の口車にかき消されることもある。帳簿の改ざんと目撃者の証言を組み合わせれば強いが、それでも運搬の経路が分からなければ追跡は難しい。

「誰が見たんだ?」スズは子供の肩に手を置き、顔を覗き込んだ。子供はレンが指名した通り、村の入口で遊んでいたという。朝食の匂いがどこからともなく漂う。荷車の軋みはもう遠くなったという。

レンが唇を噛む。「夜に、僕らが見張るのは難しい。昼間に運ぶなら、昼間に捕まえるか、夜に後をつけるしかない。昼に追いかけても、見つかると彼らは早めに撤退する。……夜の方が尾行しやすい」

尾行。スズは夜の冷気を想像した。月明かりに白く浮かぶ紙片。忍ぶ足音。自分の手が震えるのがわかった。自分は職人であり、直接対決よりも媒体を整えるほうが性に合っている。だが、これ以上流出を放置してはならない。公開の場が成功したと聞いた市場が、あわてて紙片を回収すれば、その成功すら無効になる。スズは自分の選択肢を掛け値なしに見つめた。

「私が行く」スズは静かに言った。声は村の雑踏に吸い込まれたが、確かに届いた。周囲が一瞬にして静まった。アルマが目を丸くし、長老ミオが眉をひそめる。レンは顔色を変えた。

「スズ、だめだよ。夜は危険だ。市場の者は武装しているかもしれない。君は──」レンが止めにかかった。

スズは振り向かなかった。自分が今したいことを突きつけられると、言葉は自然と出てくる。「私が触れるのは、本人が手放したものだけ。それは変わらない。だけど、どこに、誰が、渡しているのかを知らなければ、私たちは守りきれない。もし流出経路を断てれば、持ち出された紙も戻る。戻るなら、また誰かの手が放される。私の名前を賭ける前に、まず流れを止めたい」

アルマの目に光が差した。「無理はするな。もし何かあれば、逃げ道を作って。私たちも一緒に動く」

スズは仲間たちの顔を見回した。誰も彼女の