異世界転生石鹸工の王宮侍女

異世界転生石鹸工の王宮侍女 第3話「第2章」

朝の湯気が洗濯場の低い天井に絡みつく頃、マコトは布の山のなかで手を止めた。彼女が今したいことは、汚れた手を洗うこと──それだけだった。だが目の前には厳しい現実がある。王宮は「手を洗うことは穢れを招くもの」と決め、それを理由に鉱山町の子どもたちが水に触れるのを禁じていた。禁令は遠くからやってきた勅命のように振舞い、町の人々の首に縄のように食い込んでいる。

朝の湯気が洗濯場の低い天井に絡みつく頃、マコトは布の山のなかで手を止めた。彼女が今したいことは、汚れた手を洗うこと──それだけだった。だが目の前には厳しい現実がある。王宮は「手を洗うことは穢れを招くもの」と決め、それを理由に鉱山町の子どもたちが水に触れるのを禁じていた。禁令は遠くからやってきた勅命のように振舞い、町の人々の首に縄のように食い込んでいる。

「お願いです、マコト様、うちのタロが熱を出して……手が真っ黒で、唇も青くなって」鉱夫の女が嗚咽をこらえながら、目を擦った子どもを抱えて洗濯場の戸口に立っていた。子はまだ幼く、布の端で顔をぬぐいながら小さく震えている。マコトはその子の手に視線を引き寄せる。鉱物の粉と黒いぬめりがひび割れた皮膚にべったりと貼りついていた。

「私に見せてください」マコトは声を落とした。言葉に決意の糸が混じる。洗濯場には他の侍女たち、若い者も年長の者もいるが、誰も進んでこの子を洗おうとはしない。禁令の目がある。もし王宮侍医が知れば、『神罰』に逆らう異端として扱われる──それを皆、薄々でも恐れていた。

「そんなことをしたら、侍医様の逆鱗に触れるわ。さっきも巡回兵が見回ってた」隣の石鹸係の少女が囁く。彼女の手は馴れた動きで洗濯桶を掻き回し、目は静かに訴える。戻れない場所まで押しやられることを誰も望んでいない。

だがマコトは、障害を一つずつ数える暇もなく手を伸ばした。彼女の手には小さな布包み。内側には昨日一晩かけて煮詰めた自分の石鹸が入っている。火の匂いと脂の甘さが記憶に残る。彼女はそれを取り出し、子どもの手に近づけた。

これはただの石鹸ではない。自分で煮た石鹸は、触れた物の中に残る害意──ここでは「汚れ」と呼ばれるもの──だけを泡として浮かび上がらせる。マコトはまだその全てを理解しているわけではない。けれども、黒い泡が現れるたびに自分の胸の奥で何かが確かになるのを感じている。

「触れてもいいですか?」と彼女は小声で子どもに尋ねた。子は驚いて目を大きくし、母親が俯いて口を押さえる。母親の目には、ほんの少しの希望と大きな恐れが混ざっていた。

ゆっくりと布を広げ、マコトは石鹸を指の腹で溶いた。温かなかすかな泡が指先で踊り、彼女はそれを子の甲にそっと乗せる。触れた瞬間、石鹸が一瞬にして黒を深めた。泡は浅黒く濃く、柔らかい泡とは違うぎらつきを持って表面でうごめく。匂いが変わった。金属と硫黄を混ぜたような刺激に、マコトの鼻が刃物で切られる。

「——くっ」彼女は無意識に息を飲み、石鹸の泡が子の皮膚に広がるのを見つめた。泡は指先でなぞると、まるで汚れそのものが怒っているかのように震え、ふつりと糸を引く。汚れが泡へと転じていく。泡の表面には、さざめくような黒い粒子がこびりついている。

そして、熱が来た。

泡は指先から手首へと駆け上がるように移動し、マコトの手に触れた。最初は針で突かれるような鋭い疼き。次に焼けるような痛みが掌をつかみ、指先の皮膚が薄く白くなる。彼女は叫び声を上げるのをこらえながら、もう一方の手で布包みを押さえた。痛みの中で彼女はルールを思い出す。石鹸は自分で煮たものだけが働く。泡は害意を示すが、その代価は己の肉だ。間違えば、あるいは相手が無実なら、泡はもっと深く焼く──汚れは消えない、と。

だがこの子の瞳には、確かな病の光があった。熱でうつろになっているが、唇は紫から薄い桃色へ戻りつつある。黒い泡が皮膚の表面からはがれ、指と手の甲から香ばしい灰色の粒子をまとって離れていった。母親が小さく嗚咽を漏らし、周囲の侍女たちが息を呑む。

マコトは痛みに唸りながらも、石鹸を動かし続ける。泡は焦げるような臭いを放ちながらさらに膨らみ、そこに含まれていたものを吐き出すように散っていった。やがて泡は細かな泡沫となり、流しの流れる水に吸い込まれて消えた。子の皮膚の黒みが薄れ、赤く柔らかな新しい皮が見え始める。

「……息をしてる」母親は呟いた。子の胸がゆっくりと上下し、頬に血色が戻り始める。周囲の者たちの顔に安堵が広がる。だがその瞬間、マコトの手の痛みが全身に波及した。火が内側から燃えているようで、掌の皮は弾力を失い、指先の感覚が鈍った。彼女は膝をつき、洗い桶の縁に頼る。

「大丈夫か、マコト?」誰かが手を伸ばす。けれども助けの手は彼女の焼けた部分に触れようとはせず、包帯や水を拾ってくるだけだった。彼女は呻きながらも笑った。「ええ、平気です。ちょっと熱が回っただけ」嘘だと自分でも分かっている。指からはじくように小さな水滴が焦げた匂いを立てる。

この光景を窓越しに見ていた男がいた。王宮侍医の取り巻きの一人だ。彼は背を正し、眉をひそめる。噂は速い。黒い泡の噂は、洗濯場の湿った木の床を伝って王宮の石造りの通路まで届く。噂は容易に恐れへと変わる。侍医の目が薄く笑うように曲がった。マコトはそれを感じ取っていた。

「あなた、あれは何だったの?」母親が震える声で尋ねる。子はまだ眠りがちだが、唇を動かして何かを呟いた。マコトは首を振る。「言葉にできるものではない。ただ、汚れを泡として出した。身体の外に、病の元が出て行ったの」それは説明でもあり、弁明でもあった。

「お前、王宮の者か?」取り巻きの男が口を挟む。彼の言葉には疑いと冷笑が混じる。「そんなもの、お前の石鹸だとか……似非宗教の紙芝居じゃないか? 侍医様はこの所為を看過しないぞ」

その瞬間、洗濯場に沈黙が訪れた。マコトの手は痛みで震えている。誰かの視線が彼女を裁くように降りかかる。だが母親はマコトの手を見て、嬉し涙を流した。彼女は震える声で言った。「ありがとう、マコト様。あなたが私の子を……ありがとうございます」

感謝の言葉が重くマコトの胸に落ちた。痛みがあることを余計に痛感させる一方で、役割の昂りがそこに燻る。彼女は自分が守るべき対象を、今一度確認する。守るべきはこの母の子、鉱山で粉にまみれて暮らす子どもたち、そして命を奪われそうになっている共同体そのものだ。王宮の命令は冷酷だが、それが守るべき対象を守ることと矛盾するのであれば、マコトは選ぶ。

その夜、彼女は自分の手を洗面の水に沈め、冷たい水でゆっくりと焦げた皮膚を流した。痛みは引かない。だが焦げの上に形成された薄い皮を通して、内側ではまだ熱が蠢いているのが分かる。布切れで押さえ、簡易の梱包を施す。彼女の心には決意が広がっていた──この代償を払ってでも、子どもたちを救う。けれども同時に、同じ代償を何度も支払うことは出来ない。どこかで方法を変えねばならない。

翌朝になって噂は王宮の庭まで届いていた。侍医の使者が洗濯場にやってきて、低い声で尋問を始める。「私はただの侍女だ。石鹸について尋ねるだけで結構」取り巻きの男の声は冷たかった。だがマコトは静かに答える。「私が煮た石鹸です。何かを映し出しただけです。意図はありません」

侍医の使者は紙片を取り出し、薄く笑った。「意図がないのなら良い。だが、王宮は病を祈りと秩序の問題と見なしている。あなたの行為が混乱を招けば、王宮は看過しない」

その言葉に、洗濯場の空気が一気に冷えた。侍女たちは顔を伏せ、鉱夫の妻たちは息を呑む。