異世界転生城壁番の聖騎士 第7話「第6章」
夜風が北門の石垣を舐める。トウマは目を細め、外套の裾を絞め直してから、また一歩先へ出た。今したいことはただ一つだ──門の内側で眠る者たちが、夜の間に落ちる石に叩き潰されないか確認すること。灯りはまばらで、避難所で寝ている顔は見えない。だが、眠りながらも声をあげれば助けが届くように、足場だけは確かめておきたかった。
夜風が北門の石垣を舐める。トウマは目を細め、外套の裾を絞め直してから、また一歩先へ出た。今したいことはただ一つだ──門の内側で眠る者たちが、夜の間に落ちる石に叩き潰されないか確認すること。灯りはまばらで、避難所で寝ている顔は見えない。だが、眠りながらも声をあげれば助けが届くように、足場だけは確かめておきたかった。
「トウマ、どこまで行くつもりだ。司令の命令では、深夜の通路立ち入りは規制されてるぞ」
レンの声が背中から追ってきた。腕組みをした若い見張りだ。彼もまた門の内側に積まれた藁の山や将棋の駒のように並ぶ人々を、遠目にでも気にしている。仲間というより同僚だが、互いに顔を知っているだけで十分だった。
「見回りは許可されてる。俺が夜に回る壁だけだ、能力が働くのは。確認するんだ。ここで何かが起きたら、誰かが死ぬ」
トウマは短く答え、内側の石段を降りた。彼が今日の夕刻に回った北門の内側。足場を生む能力は、この日この壁を見回した証だけに働く。条件は単純で残酷だ——毎日自分が見回した壁だけ。だが、その気になった者の足元にだけ石が現れるため、選別が容易に発生する。選んでしまえば壁は内側から崩れ、トウマに激しい痛みが走るのだということは、まだ体が覚えていた。
避難所の端に座る職人、ユリが焚き火の火を小さく撫でていた。彼女は手にノミを抱え、簡素な道具を直している。周囲の人々は寝袋で体を丸め、子供の寝息がぽつりぽつりと聞こえる。だが眠りの層の下にある不安は簡単には消えない。石の壁の内側、つまり「守られる側」にいる者たちの不安は、外の脅威よりも門そのものの挙動に起因することが多かった。
「向こうで小さな崩落があったんだ」ユリが小声で言った。「昼間に。仕事をしてたら、内側の石がひび割れてね。大きなものじゃなかったけど」
その言葉が終わらないうちに、柔らかな振動とともに、遠い場所で小さな落石の音がした。石が擦れる乾いた音。誰かが呟き声を上げ、次に瞬く間に混乱のざわめきが広がる。
「どこだ!」レンが飛び出す。トウマは走らずに、足を速めた。内側の通路は狭い。人々の寝具が片側に寄せられ、夜の風が灰色の煙のように吹き込む。彼らの足元に一体何が起きたのか、足場を確かめれば答えは分かるはずだった。
通路の角を曲がったところで、トウマは息をのんだ。夜の灰色のなか、数人が倒れている。倒れた者の側にまばらに散らばる石片。だがもっと目を引いたのは、そこにあったはずの「石の足場」が消えていることだった。昨晩──彼が見回ったときには確かにそこに小さな四角い石が並んでいた。子供の小さな足が安定して置けるように、手のひら大の石が並んでいたはずなのだ。
「足場が──消えた」ユリの声が震えていた。目の前の女が、床にうつぶせになっていた。子供が泣きながら這い出してきて、母親の顔を叩いた。幸いにも大きな怪我ではなさそうだった。だがもしあの足場がなかったら、もっと多くが崩れていただろう。
トウマの胸に、刃物のような痛みが走った。背骨の根元から鋭い熱が突き上げる。石の壁が内側から小さく崩れた瞬間、まるで壁自身が彼の体に響くような痛みがつばめの羽のように一瞬走った。能力の代償は、選別したときの反動だと彼はいつも自分に言い聞かせていたが、今感じる痛みは違った。選んでいない。昨夜は皆に同じように足場を作っていた。なのに足場が消えるという現象がある。それは彼の選択そのものとは別に、城壁が「反応」している証拠だった。
「トウマ! 大丈夫か!」レンが傍らに駆け寄る。レンの顔は真っ青だ。トウマはふっと息を吐いて肩を落とす。痛みは一瞬で引かなかったが、呼吸は乱れずに済ませた。彼は地面に手をつき、指先で床石に触れてみる。内側からの温度、最近できたと思しき爪のようなひび。微細な亀裂が、床石の表面を蜘蛛の巣のように走っている。
「見てくれ」トウマはレンの肩に腕を回し、指差した。レンはしゃがんで石を凝視する。明かりのもとで、石の目地に小さな黒い線が幾重にも走っていた。触れるとボロボロと砂のように崩れ落ちる場所もある。ユリが用心深くナイフの背を使って石の面をこすり、細かい粉を集める。彼女の目が、熟練の職人のように険しくなる。
「これ、ただの老朽化じゃないよ。石の中身が、ある方向に引っ張られてる」ユリが言った。「外側から押されたんじゃなくて、内側に向かって内圧がかかってる。なんだか…矢印のように、内向きに力が働いてる」
その言葉は、トウマの胸の中に昨日見た古い標識を引き出した。内側に向く矢印。あれは単なる古い道しるべだと思っていたが、この言葉で血の色を変えたように、意味を帯びてきた。内側に向く力──それが壁の挙動を象徴しているのかもしれない。
だが証拠が足りない。トウマは更に奥へ進んだ。崩落が起きた地点の外縁に、小さな穴があった。穴の縁には金属のような光を帯びた断面。そこに微細な割れ目が広がり、ひび割れの先端が古びた門章の断片を露わにしていた。門章の模様は、かつての威厳を失いかけた金属の細片で、よく見ると中央に小さな割れ目が刻まれていて、それが矢印と呼応するように内側を指していた。断片は黒ずみ、誰かが無理やりひねり出したようだった。
「司令の徽章…?」レンの目が固まる。彼は手袋をはずし、慎重にその断片を拾った。刃物のように鋭い破片に見える。トウマは指先に伝わる冷たさと一緒に、また痛みが底から湧き上がるのを感じた。壁の裂け目が、まるで彼の腕の中の神経をつかむように疼く。何度も記憶されているはずの痛みだが、今のそれは何かが違う。たとえば、「選んだための代償」ではなく、「壁そのものが痛みを返す」ような感触だった。
「だめだ、これだけじゃ分からない」ユリが言った。「もっと広く見なきゃ。ひびの向き、石のねじれ方、目地の消耗。古い工法に手を加えた痕跡がないか、金具が外された形跡がないか。これ、一晩で起きたようなことじゃない」
「夜のうちに消える足場、崩れる内側、そしてこれ」トウマは続けた。「俺の能力の“足場”が勝手に消えるっていう現象。もし足場を使うとき、選ぶことで壁が内側から崩れるのなら、これは“誰かが選んだ”というより“壁が反応している”ってことになる」
レンが眉を寄せる。「反応って、どういうことだ?」
「分からない。ただ…」トウマは言葉を切った。説明できない感覚が、胸の中で渦巻いていた。まるで壁が“読まれた”ことに反応しているような気配。普段は自分の感覚に従って足場が生まれる。危険を感じた者の足元にだけ現れる。だが今夜、その足場があったのに消えた。彼はその原因を確かめたかったのだ。だからこそ、この痛みを無視してでも、壁の微細な亀裂を観る必要がある。
トウマは崩落現場の脇に膝をつき、じっくりと石の割れ目をなぞった。冷たい指先に伝わってくるのは、単なる疲労ではない。石の内部で、微かな動きがまだ続いているように感じられた。彼はそれを目で追う。ひび割れ線は、門の中心から左右に広がっているのではなく、内側へと集中するように見える。微かな砂の流れが、ひびの中から吹き出すようだった。
「これ、誰かが内側から損壊を仕掛けてるんじゃないだろうか」レンが低く