異世界転生城壁番の聖騎士 第3話「第2章」
夜風が北門の石垣を這う。トウマは櫓の影に身を寄せ、鉄のランタンを片手に壁上を見渡した。その先に見えるのは、白い布を頭に巻いた避難民の列。彼らは震えながらも整然と並び、門の向こうにある安全な広場へと促されている。トウマの今したいことはただ一つ――一人でも多く、その列をひとり残さず通すことだった。
夜風が北門の石垣を這う。トウマは櫓の影に身を寄せ、鉄のランタンを片手に壁上を見渡した。その先に見えるのは、白い布を頭に巻いた避難民の列。彼らは震えながらも整然と並び、門の向こうにある安全な広場へと促されている。トウマの今したいことはただ一つ――一人でも多く、その列をひとり残さず通すことだった。
「冷えるな、気をつけて」隣の見張り台から、年長の守備隊員ジルが声をかける。彼は腕に包帯を巻き、眼鏡の縁越しに列を眺めている。ジルの視線は常に規律と秩序に向く。トウマはそれを知っている。ジルは仲間であると同時に、任務の枠内でのみ動く男だ。
「気をつけるぞ、ジル」トウマは短く返す。彼の目は、列の中にいる小さな女の子に留まった。毛糸の帽子を深くかぶり、母親の手を握るその子は、唇をかみしめていた。トウマはその顔を見ただけで、足元が滑りやすい古びた通路をどうにかしたくなる。前の夜も、彼は同じような顔を見ていた。だが今は言葉を返すより行動だ。
「門の内側に向いてる矢印、また見たか?」低い声で、見習いのユラが隣に寄ってきた。彼女はまだ十代半ばだが、目は鋭く物事を覚える。ユラが示したのは、門の近くに立つ古い標識。木の板に黒く塗られた矢印が、はっきりと「内側」を指している。だが夜の灯りに反射して、その矢印は不自然さを滲ませていた。
「またか」トウマはため息をつく。矢印は避難誘導のはずなのに、なぜか門の内側へ導くように描かれている。彼はその向きが人々の流れを誤らせる可能性を、肌で感じ取った。だが今はそれを調べる時間がない。列の最後尾から、小さな悲鳴が上がった。
「動くな! 静かに!」ジルが叫ぶ。石段の薄暗がりから、黒い影が飛び出してきた。夜鳥でも獣でもない、それは細い四肢をもつ生き物で、闇に溶けるように滑る。人々が一斉に後退し、押し合いが起きる。母親の帽子がずれ、女の子の手が滑った。
トウマは瞬間、走り出した。石の段を踏みしめる度に、彼は自分の能力を確認する――今日、自分が見回ったこの壁だけに効くということ。一日一日の「見回り」が彼の能力の範囲を定める。今夜彼が巡った北門の外側の壁のうち、櫓から南の角までの区画はすべて彼の視界に入った。そこなら、足場を出せる。
「下がれ!」彼の声で人々が反応する。闇の中で影が人々の足元に近づく。トウマは両手を強く握り、昔の仕事で覚えた巡回の習慣のように壁の石に手を添える。思いは単純だ――危険を感じている人の足元に、石の足場を作る。だが彼は、もう一つのルールを忘れてはいなかった。選ぶこと――敵味方を選り分けて足場を出すことは禁忌だ。もし選べば、城壁は内側から崩れ、そして彼自身が壁の痛みを受ける。だから今ではただ一つ、全員に行き渡るようにするしかない。
意図を集中させる。すると、足元で冷たい感触が広がった。石の断片が粉塵を上げ、見えない糸のように編まれて、靴底の下に薄い石板が現れる。最初にふとんのような一枚が、女の子の前に滑り出した。次いで母親の前、老人の前、押し合う若者たちの前に続いて一列の石板が並ぶ。石板は確かに「足場」であった。踏めば安定するが、固く冷たい。小さな歓声と驚きが、押し寄せる群衆の中から漏れた。
「足、出た?」ユラが叫んで横に来る。彼女の指の先にも、わずかに石の縁が光る。ジルも顔を強ばらせながらそれを確かめ、続けて避難民の整列を指示した。トウマは自分の胸の奥に、刃物のような冷たい予感を感じた。選んでいない。誰も除外していない。だが大量に足場を出すことで、壁に負荷がかかるのは分かっている。いつかその代償が返ってくるだろう。しかし今そのときではない――そう自分に言い聞かせた。
闇の影は足元を掠めるが、石板が人々の安定を保つ。母親は子を両腕で抱え、ゆっくりと石の上を進む。老人は杖を石板に置き、慎重に一歩一歩を刻む。群衆は声を合わせて門へと向かう。トウマは息を詰め、最後尾で押し潰されそうな者まで視野に入れる。足場を出すのは彼の視界の中にいる人々――壁沿いを歩く者の足元だけだ。選別しないために、彼は視線を巡らせ、顔を知らぬ者にも足場を伸ばした。
「前の通路は詰まってる! 横へ!」とユラが叫ぶ。内側矢印の方向とは違う、小さな石の通路が夜風に揺れる看板の陰にある。トウマはその時初めて気づいた。矢印は行き先を内側へ誘導しているが、混雑時に逃げるには内側の路地はむしろ危険を招く。矢印は人々をその狭い内路へと誘導し、結果として押し殺される可能性がある。なぜそんな向きにしてあるのか。疑問が喉につかえるが、今は矢印の理由を問い質す時間はない。
群衆が門を抜けると、夜の空気は一瞬の静寂を得た。人々は広場で深く息を吐き、肩で息をする。闇の影は消えたのか、それとも別の場所へ移ったのか。ユラとジルが周囲を警戒し、トウマは足元に残る石板を目で追った。石板は確かに「一時的」だった。渡された者が通り過ぎると、板は小さな粉とともに崩れ、元の石壁の面に戻っていく。だがその消え方に、トウマは不安を覚えた。一枚一枚が戻る際に、壁の目に見えない亀裂に沿って鋭い違和感が走る。まるで壁が小さくひびを噛むような音が、彼の胸に広がった。
「トウマ、顔色がよくないぞ」ジルが言う。だがトウマは首を振る。彼は痛みを感じないわけではなかった――それは鋭い刃物のような痛みの切っ先だったが、全面的な苦悶には至らない。選んだわけではないのに、壁が反応している。彼はそれをどう説明すべきか分からない。ただ一つ明確なのは、今日使った区画は彼の見回り範囲内だということ。能力の範囲を守りながら使った。だが使用の累積が壁に小さな損傷を与える……それは前から薄々感じていたことで、今夜の出来事が確証になっただけだ。
「人数を数えて、負傷者はいるか」ユラは淡々と指示を出す。だが彼女の声には揺らぎも混じっている。彼女は自分が見張りとしての役割を果たすことに誇りを持っている。トウマはその横顔を見て、自分の決断がただの行為ではなく、誰かの暮らしに直結していることを改めて噛み締めた。
そのとき、列の片隅で中年の男が膝をついた。靴底が欠け、足が血で濡れている。群衆の押し合いで足を挫いてしまったらしかった。男の表情は苦痛と、無力への怒りで歪む。彼は門に向かって這おうとする。だが門を守る鉄の扉が重く、開かれるのを待っていた。トウマは迷った。選ぶことは禁忌だ。だがこの男を置いていけば、夜の冷気が彼を凍らせる──選ばない選択は存在しない局面が、いつでも現れる。
トウマは深く息を吸い込み、両手を壁に押し付けた。もう一度、彼の能力を広げる。今度は男の周囲だけでなく、彼の視界に入るすべての足元へと間断なく石を伸ばした。避難民の小さな流れが途切れないように、彼は石を連結させる。石板は細い橋のようになり、男は仲間に支えられてその上を滑るように進む。彼の靴は血で染まりながらも、足場が支持した。
人々が安全圏に集まると、誰かが拍手をした。拍手はすぐに笑いと安堵に変わる。ジルは深く息をつき、ユラは目を輝かせた。トウマは一歩下がり、夜空を見上げる。満天の星が冷たく輝いている。彼は自分が何かを成し遂げた感覚を得ていたが、その背後で壁の小さな亀裂が確実に増えてい