異世界転生染物師の探検家

異世界転生染物師の探検家 第6話「第5章」

朝の潮風が、アオの小さな工房の戸を何度も押し返す。帆布の匂い、鉄の釜に張る灰汁の香り、海藻を煮出した染液の甘苦い香り──彼女は今、それらの匂いの中で一つのことをしたかった。港の外れに落ちている古い旗を調べること。旗が港に落ちていた場所は、提督の見張り船がよく通る狭い潮道の近くだと、朝市で聞いたばかりだった。

朝の潮風が、アオの小さな工房の戸を何度も押し返す。帆布の匂い、鉄の釜に張る灰汁の香り、海藻を煮出した染液の甘苦い香り──彼女は今、それらの匂いの中で一つのことをしたかった。港の外れに落ちている古い旗を調べること。旗が港に落ちていた場所は、提督の見張り船がよく通る狭い潮道の近くだと、朝市で聞いたばかりだった。

「アオさん、これ見てよ!」小さな声が跳ね上がる。戸口の方で子供が旗を抱え、息を切らせて立っていた。濡れた髪、裂けた袖。顔には夜の海の塩が残る。

子供の手には、確かに旗。色のない、ただの薄い帆布。擦れて縦糸が浮き出し、中心には擦り切れた紋様の痕跡があるだけだ。アオは手を伸ばし、指先で布をすこし引っ張った。いつもなら染料の匂いが染みついているはずの帆布だが、これは何も吸っていないように乾いている。

「どこで拾ったの?」アオは淡々と尋ねた。仕事の手を止めるわけにはいかない。彼女の守る対象は、今朝一番に訪れた年老いた漁師でも、隣の子供でもない。共同体、そして最初に助けを求めに来た者たちだ。目の前の子供は、今その線に入っている。

「潮だまりの穴のところ。岩の下で、海藻に絡まってた。変な旗だったから持ってきたら、お母さんに叱られたんだけど……」子供は俯き、声が小さくなる。「でも、なんだか怖かった。夜に光るみたいな音がしたんだ」

アオの胸の中で、いつもの欲動がざわつく。旗の出所を知りたい。失われた航路の欠片になるかもしれない。けれど、布に触れた人の隠し感情を潮の色として読む——その能力は、発動に条件がある。彼女が染めた布に誰かが触れたとき、その人の隠した感情の色が、海の色として見えるのだ。しかし読もうとするなら、本人の許可を得ること。許可なく読み取れば、海は濁る。深く暴こうとすれば、彼女自身の色覚が失われる。彼女はそのルールを知っている。だが、今は子供の恐怖が針のように刺さった。夜に光るような音。見張り船の近くで拾った旗。何かが繋がりそうだった。

「触らせてくれる?」アオは布を受け取りながら子供に微笑んだ。彼女の声は静かで、安心させるためのものだ。それでも、許可を得る言葉はわざと短くした。子供は何も言わず、ただ頷いた。つかんだままの小さな手が震えている。

アオは膝を曲げて、子供と目線を合わせた。「ありがとう。いいかい、これはただ見るだけで、怪我をするものじゃないよ。もし嫌だったら言ってね」

その瞬間、彼女は自分の中の警鐘に気づいていたはずだ。声は許可を得るように聞こえるが、彼女は心のどこかで、詳細に読みたかった。夜に光ったという音が、誰かの隠した恐怖と結びつくなら、それは証拠になり得る。提督に繋がる何かを示せるかもしれない。共同体の守る対象を広げるためには、その発見が必要だ──と、理性が囁く。だが理性の囁きは、いつも彼女の色を削っていく。

子供が旗をアオの染め台に差し出した。アオは布を引き取り、淡くすり切れた縁を撫でる。染め直す前に記録するために、手のひらで布を包んだ。目の端に、潮色が立ち上る。彼女は布を自分の染料釜に置き、火を少し強める。染めるという行為は、彼女の能力を発動する器になる。自分で染めた布に触れた者の感情は、その布を通して現れる。だがその触れた者は、今ここにいる。子供だ。しかも彼は無意識に承諾している状態だ──しかし、無意識の承諾は、本当に許可と言えるのか。

アオは、布を刷毛で撫でるようにして染料に浸した。海藻から取った淡い緑。灰汁と藍の混じった、海の底のような色だ。布を釜の中で滑らせると、潮のように色が揺れる。体の中で、色が波立つ。見えたのは、黒に近い深い藍とは違う、濁った青。子供の手に潜むものだ。怯え。刃のように鋭いものではない。むしろ濁りの中に浮かぶ、冷たい緊張。何かに追われるような、夜の音に起こされた心だ。

アオはそこでためらうべきだった。目の前には子供がおり、彼の恐怖を解くために、彼女は聞くべきだった。「その夜、何が光ったの?誰かがここにいた?怖かった?」そうして、彼の言葉を得ることができたはずだ。言葉は補助具になる。言葉は、彼女の目の代わりに潮色を整える糸口になる。だが、彼女は一歩先へ踏み出した。恐怖の輪郭を、はっきりと見たいと思った。

許可を取った、と彼女は自分に言い訳した。子供は黙っていたし、拒否もしなかった。許可の境界を拡げてしまった瞬間、海が答えを返した。

最初は、染め釜の上に立ち上る蒸気が厚くなっただけだった。次に、窓の向こうの港がざわつく。堤防を歩いていた人々の顔が、空を見上げる。アオは自分の胸の奥が冷たくなるのを感じた。視界の端で、灰色の帯が走り、それがじわじわと向こうの海面を覆っていく。夜明けの光を吸い込むように、海は濁り始めた。魚が水面を騒がせ、漁網に小さな銀が跳ねる。

「海が……」子供が声を上げる。言葉の中に、小さな罪悪感と驚きが混じっていた。アオは布を煮出す手を止めた。布を取り出すと、その表面に残るのは、子供の恐怖が作った淡い縞。見ようとするたびに、アオは色の輪郭が薄れていくような感覚を覚えた。色を引き出すほど、自分の目の色が曇る。彼女は釜の縁にもたれ、手をぎゅっと握った。頭の中に小さな点ができ、そこから色が吸い出されるようだ。

「ごめん、アオさん!」子供の母親らしい女が戸口に駆け込み、恐怖と非難が混じった声を上げる。「あんた、また変なことして……海が濁ったのはあんたのせいなんでしょ!」

女の言葉は民衆の不安を代弁していた。街の人々は、魔術や不穏な兆候に敏感だ。海が濁れば漁は減る。漁が減れば食い扶持が狭まる。誰もが、色を失うことを恐れていた。アオは布を抱えながら、言葉を探す。「違う、私が悪い……でも、読まなければわからなかった」彼女はそう言いながら、自分の中の痛みを認める。代償はリアルだ。色覚の低下は、ただの抽象ではない。釜に張る灰汁の温度が判りにくくなったり、藍の微妙な差を感じられなくなる日が来る。今日、その第一歩を踏み外したのだ。

「海が濁るってことは、あんたのせいに決まってる。見せしめにしようってのか」女はさらに声を荒げる。周りの数人が賛同の口笛を吹く。怒りは、共同体を守るための本能だ。アオはそれを否定できない。彼女の能力は、共同体の信頼に縛られている。彼女が無断で誰かの心を暴けば、その信頼は一瞬で風化する。

「私が許可を取らなかった。すまない」アオは布をテーブルにそっと置き、振り返った。「でも、これは偶然の旗じゃない。形を見て。縁の刺繍の欠片が、古い航路図の断片と同じなの。誰かが意図的に港のあちこちに置いている可能性がある。提督の見張りが多い潮道で見つかった。もしこれが、航路を消すための仕掛けなら──」

アオの言葉は、女の疑いを完全には解かなかった。だが、浜で働く数人の視線は少し変わった。提督の見張りと旗の位置。港の秩序を守る者たちの話題は、いつも裏に力の論理を含んでいる。アオは、声を落とした。「私が間違っていた。次からは必ず言葉で許可を取る。触れた人が自分の言葉で、ここにある理由を話すまで、私も潮の色を引かない」

子供が布を抱きしめ、小さな声で言った。「ごめん、僕……拾っただけで、なんにも知らないんだ