異世界転生染物師の探検家

異世界転生染物師の探検家 第2話「第1章」

潮の匂いと煮えた藍の香が、朝の工房を満たしていた。厚い木の机に広げられた生地はまだ湿っていて、指先が触れると塩の粒がこぼれるように冷たかった。アオはその端をつまみ、窓越しに見える港を一度だけ見やった。遠くに見えるのは低い防波堤と、そこにぽつんと揚げられている色のない旗。木綿か麻か判別しづらい白布は、風に翻っても色を伝えず、ただ骨だけを曝している。

潮の匂いと煮えた藍の香が、朝の工房を満たしていた。厚い木の机に広げられた生地はまだ湿っていて、指先が触れると塩の粒がこぼれるように冷たかった。アオはその端をつまみ、窓越しに見える港を一度だけ見やった。遠くに見えるのは低い防波堤と、そこにぽつんと揚げられている色のない旗。木綿か麻か判別しづらい白布は、風に翻っても色を伝えず、ただ骨だけを曝している。

「今日こそ、航路を取り戻すんだよな」と、アオは小声で呟いた。願いはいつも具体的だ。海底に眠る交易路を繋ぎ直し、島の人々が自分たちの色で帆を染めて帆走できるようにする——そこに暮らす者たちの仕事と記憶を、戻すこと。だが今朝の障害は明瞭だった。港を仕切る交易提督の徴発とパトロール、色を管理するという奇妙な制度、そして島民の多くが色そのものを失っているという現実。旗は、その答えを一言も語らない。

「アオさん!」外の路地を駆ける足音。喉を震わせるような呼び声に続いて、汗と潮の匂いを纏った小柄な少年が飛び込んできた。肩からはボロボロの袋。袋の端に縛られた生地が、まだ湿っており、海藻の斑点が付着している。

「ミカル」アオは笑って手を伸ばす。「落ち着いて。どうしたんだ、そんなに慌てて」

ミカルは息を整えながら袋を差し出した。中身を引き出すと、それは小さな布切れ。鮮やかに染められたはずの縁が、どこか色を吸われたように淡い。中央には小さな刺繍——波を模したような図案がかすれていた。

「これ、見つけたんだ。浜の岩陰に、誰かが落としたのかなって」ミカルの声が急に詰まる。瞳が潤んで、唇を噛んだ。彼はまだ八つだろうか。漁師の家の次男坊で、いつも海の話を抱えている。

アオは布を受け取ると、机の湯気と混じる塩の匂いを確かめた。染料を詰めた小瓶が並ぶ棚に目をやり、無造作に一つを取り上げる。濃紺のビンの表面に指を沿わせる。自分で染めた布に触れた者の隠した感情が、潮の色として現れる。能力のルールが常に唇の裏にある。本人の許可なく読めば海は濁るし、深く暴けば自分の色覚が薄れていく。だから許可を取る。だから最小限にする。

「触ってもいい?」アオはミカルの目を覗き込んだ。無言のまま、ミカルは小さくうなずいた。許可。言葉がいらないほどの同意がそこにある。

アオは布をミカルの手の中に戻し、彼の掌が布に落ち着くのを待った。少年の皮膚が生地を抱くと、世界の端で潮が撥ねるような感覚が生じた。視界の片隅に、蛍のように淡い色の帯が浮かぶ。潮の色だ。読み取るのに集中すればするほど、自分の視界の藍が薄まっていく気配をアオは感じ取った。今は一瞬で済ませる。

「——潮が、重い青だ」アオは口に出して確かめる。色を言葉にすることで、感情を翻訳する。彼女の声はいつもより低く、慎重だった。

ミカルの肩が震える。彼は小さな声で言った。「寂しいって……僕、そう思ってた。父さんが海へ行ってから、誰も笑わなくなった。海が喋らないから、返事がないみたいで」

アオは布から視線を離し、再び港の方へ目を向ける。言葉が砂の上に落ちて、少しずつ形を持つ。彼女はその感情を激しく掘り起こすことも、無理に癒すこともできない。自分の仕事は色を媒介にして、言葉を渡すこと。許可があるから海は濁らない。だがその交換は、必ず代償を伴うのだ——思い出を一枚だけ剥がせば、自分の色が一筋だけ薄れる。

「父さんの話、聞かせてくれる?」アオは布をミカルの手から優しく取り、縁の色を確かめつつ結び目をなおした。「ここに座って。港の外で、誰かに見られたくないなら私が外で話を聞くよ。あなたの話は、あなたの色だ。勝手にはしない」

ミカルは震える手で頷き、ふたりは工房の小さな裏庭に腰を下ろした。潮騒が低くて近い。彼の話は短い断片の集まりだった。父が出ていった夜のこと、母の空いた手、港で見かける色のない旗——それだけで彼の小さな胸は満たされている。彼が拾った布の刺繍は、小舟の印だった。多分、誰かの大切なものだ。ミカルはそれを見て、自分の不安を押し込めていた。

アオは時折、布に触れ、紙片のように言葉を取り出しては風に渡した。色を言葉に変えると、人はそれを受け止めやすくなる。少年は涙を見せるわけではなく、ただ海を見ている。藍は深いが、鋭くはない。黒に近い藍ではなく、潮の底に溜まるような、抜けきれない寂しさだった。

読みは短い。アオはそれ以上深く覗き込む気はなかった。手を布から離すと、視界の周縁がほんの少しだけ鈍った。椿色とも紺とも言えない、世界の藍が一段階薄くなる。毎度こんな程度なら耐えられる。だが代償は確かに刻まれ、アオは指先で目尻をこするようにして焦点を戻した。

「ありがとう、アオさん」ミカルは唇を引いて微笑む。笑顔はぎこちないが、そこに小さな勇気が混じっている。「父さんに、この布を返せたらいいと思うんだ。誰のものか、港で聞いてみる」

アオは答える前に、港へ向かう自分の足元を確かめた。港は今日も監視が厳しかった。交易提督の旗——いや、旗と呼べるものか——が突き出た旗竿が見える。色のない旗は、ただ白い布が布地の羞恥を晒すように、風に踊るだけだった。誰かが色を奪った証拠、というよりは、色を持つ者に対する宣告だ。提督のやり方は、海の声を遮断し、情報を独占することにより、島々を分断しようとしていると噂されている。

「港は気をつけてね」アオは小声で言った。「提督の手下たちは、色に関わるものに敏感だから。無理に調べるより、静かに尋ねる方がいい。必要なら私も一緒に行く」

ミカルの眉が寄る。「一緒に行ってくれるの?」

「ええ」アオは布を折り畳み、腰の袋に収める。「でも約束。誰かの色を勝手に覗かないこと。触るのはその人の同意があってから。海を濁すほどの無断探りは、私たちの手を縛るだけ」

ミカルは目を伏せて頷いた。合意の儀式——アオがこの島で作ろうとしている小さなルールの一端だ。人の色を勝手に晒すことは、疑いと恐怖を生む。だから彼女は必ず同意を取り、言葉を使ってその色を翻訳する。自分の力を独り占めにしないための小さな掟だ。

二人が工房を出ると、港町の朝の喧騒が彼らを迎えた。魚を搬入する人々、帆の修理に余念のない船大工、そして赤帽に黒い紋を付けた徴発隊。目立つのは、商人でも漁師でもない、白い布を持った数名の役人だった。布を取り扱う指先が神経質に震える。布はいつも以上に冷たく、表面に光を映さない。それが人々の足を止めさせる。

「見ろ、あれだ」ミカルが差す先、浅い突堤の端にその色のない旗が揚がっている。普通なら旗は風景の中で道標になり、色で場所を示す。だがここでは、色が奪われて、ただの形だけが残っている。アオはその白布に目を凝らすと、刺繍の縁取りの痕跡が薄く残るのを見つけた。縁の模様が微かに、先ほどミカルが持っていた小舟の刺繍に似ている。

「おかしい」アオは呟く。「同じ縫い方だ。これ、誰かの旗から取った布の切れ端かもしれない」

近くを通りかかった老婆が二人を睨む。「あの旗に触れるんじゃないよ。最近、かじられたように色が消えてるんだ。提督の者が統一の印としてあげてるらしい」

「統一の印」ミカルの声に、少し怒気が混じった。島の人々は声を殺して生活を回し