異世界転生染物師の探検家 第18話「第16章」
朝の低い霧が港を這う。崖の縁で、アオは手のひらで潮風を押さえるようにして立っていた。指先に残る藍の匂いは、昨夜の布仕事の痕だ。顔を上げると、旧前線基地の瓦礫屋根がうねるように並び、港の岸壁沿いに白い屋根が幾つも並んでいるのが見えた。そこからは、ぎりぎりに曲げられた帆の端がいくつも覗いている。提督の旗は、いつものように色のない灰白だ。
朝の低い霧が港を這う。崖の縁で、アオは手のひらで潮風を押さえるようにして立っていた。指先に残る藍の匂いは、昨夜の布仕事の痕だ。顔を上げると、旧前線基地の瓦礫屋根がうねるように並び、港の岸壁沿いに白い屋根が幾つも並んでいるのが見えた。そこからは、ぎりぎりに曲げられた帆の端がいくつも覗いている。提督の旗は、いつものように色のない灰白だ。
「ここが前線だね」リクが肩越しに囁く。海の匂いに混じって、いつもと少し違う甘い生乾きの匂いがする。彼は潜水用の小さな道具を胸に抱え、瞳が鋭く基地を注視していた。マーラは腕を組んで遠くを見つめ、冷えた視線で見張りの配置を推測している。ソルは地図帳を膝に広げ、風でページを押さえていた。誰もが昨日と同じ目的を持って此処にいる—だが、そのやり方をめぐって意見は揺れていた。
「提督の装置を壊してしまえばいい」マーラが言った。彼女の声は低く、切迫している。「あいつらが青い涙を作れなくなれば、すべて終わる。今すぐに。余計なことをしている暇はない」
「それで正義が証明されるわけじゃない」アオは首を振った。風で前髪が顔に張りつく。彼女の瞳は、それでもいつものように周囲の色を追いかけていたが、前よりも頼りない。茶色と緑、灰色が滲むように混ざることが増えた。色が抜けていく感覚は、いつも背後に小さな重しのようにある。アオは自分で染めた布を胸の内側に抱えるように触れ、布の端に残る藍と浜藻の香りを確かめた。「でも、ここで壊してしまったら。提督はきっと『反逆者が奇襲して化学兵器を使おうとした』って言う。島人が黙らされたら、誰が真実を話せる? 私たちの目的は—」
「島を取り戻すことだ」リクが割り込む。「でも、今はどちらを優先するかって話だ。あなたはいつも証明を選ぶ。僕は…その前に手を出したい」
ソルがページに指を置いた。彼は冷静で、いつもより言葉を選んだ。「証拠がなければ、連合に訴えるときに信用は得られない。現地の人々は後ろ盾が必要だ。壊すのは簡単だが、誰もが戻れない橋を渡すことになる」
マーラの唇がぴくりと揺れた。しばらくの沈黙の後、彼女は肩をすくめて、ほんの少し目を細めた。「わかった。だが、もし物的証拠が手に入らなかったら、そのときは私に任せて」
アオは仲間たちの顔を一つひとつ見た。彼らは彼女の道具でも、ただの従者でもない。それぞれに怒りと恐れ、決断がある。アオは息を吐き、手元の布を指でなぞった。布の織り目には微かな波形が入っている。彼女はそれをもって人々の手に触れてもらうことで、隠された感情を潮の色として読む術を持っている。だが、毎度深く掘るたびに、自分の色覚は少しずつ削られる。許可なく触れれば海を濁し、許可を得ていてもどこまで掘るかは彼女の選択次第だった。
「証拠を集める。提督の施設が青い涙を航行情報の消去に使っているという流れを、動かせる形にする」アオは短く宣言した。「だから、今夜は潜入して、記録と製造記録を探す。出来れば、青い液の壺の一つを手に入れる。だが、囚われた者を無理やり読ませるようなことはしない。海を汚すことはできないから」
「それなら、僕は潜って入口を探る。見張りのパターンは読み込んだ」リクが言い、肩にかけた灯具に指を触れた。マーラは刃の重さを確かめ、ソルは地図を折り畳んで肩に入れた。誰もが自分の役割を自分で決めた。
夜は静かに訪れた。彼らは風の音と波間の足音を頼りに、港の南側から接近した。見張りは予想より多く、通路沿いに配置された小屋の屋根に白い布が干してある。近づくにつれて、甘く粘る匂いが強まった。アオは一瞬、胸の奥がひんやりと鳴るのを感じた。匂いは海藻と鉄と、どこか古い悲しみの残滓のようだった。
基地の外れにある倉庫の扉を、ソルが静かに外した。内部は冷たく湿っていて、棚に並ぶ鈍く光る瓶が異様に整列していた。そこには淡い青の液が入った小さな瓶が幾つもあり、見るからに薄い膜のように揺れていた。瓶の蓋には刻印があり、見張りの印章と同じ模様が打ってある。アオの指先は布袋の中の染料の匂いを追った。これが、噂に聞いた「青い涙」なのか。
「触ってみたい」マーラが囁いた。彼女は指を伸ばし、瓶に触れようとしたが、ソルがそれを制した。「今じゃない。証拠を取るんだ。外に出して確認できる方法が必要だ」
奥へ進むと小さな机があり、そこには折りたたまれた書類と、錆びかけの筆記具、漁業関係の名簿があった。誰かがここで仕事をしていた痕跡だ。アオは指先で用紙の端をなぞり、二つの名前がやけに近く並んでいることに気づいた。そこに、手の跡が黒く残っていた。墨を洗い流した後のような薄い輪郭。
「誰か…」リクが背後から低く言った。そのとき、倉庫の奥の隅に小さく座り込んでいる人影が見えた。男は細く、肩に縮こまるようにして座っていた。顔に泥と海藻が絡まり、目は遠くを見ている。
「すまない、見つかってしまったな」ソルが声を低くかけると、男は瞬きして彼らを見た。瞳に光はないが、呼吸は弱々しく刻まれていた。彼の手には古い帆切れがあり、それは海に落ちて色が飛んだ状態で、その縁に奇妙な斑がついていた。
「ナホだ」マーラが息をついた。「ここで作業している一人だ。手伝ってくれるなら、彼に頼めばいい」
アオはナホの跡に残る匂いを嗅いだ。彼の恐れと疲労が、布を通して波の色としてなにかを語りかけてくるのが、かすかに見えた。だが、潮色は曖昧で、彼女が深く潜ることを躊躇わせた。深く読めば読むほど、彼女の残りの色覚は削られる。ナホは何かを知っているかもしれない。しかし、彼に無断で読み取ることは許されない。海を濁す代償に値するのか。アオはその目で彼にじっと視線を送った。
ナホの唇が震えた。「助けを…頼もうとしたんだが。俺は…洗い場にいた。上が命じて、帆を濡らして…墨が流れていくのを見た。何度も…忘れるようにって…」
彼は言葉に詰まり、声を喉の奥に押し込んだ。アオは布を取り出し、自分が染めた新しい小片を差し出した。海藻で染めて染料に貝殻の粉を混ぜた、淡く抑えた藍の色だった。ナホは躊躇したが、アオの目を見て小さくうなずいた。承諾がある。彼は布に指先を乗せ、そのまま指を撫でるように触れた。許可はあった。
「浅めに、ね」アオは自分に言い聞かせる。指先を布の端に置くと、眼前に潮の色がふっと立ち上がった。青い帯が粒を結び、淡い灰の渦と混ざる。ナホの恐れが織り込まれた色だ。アオはそれを言葉で辿りつつ、海が濁る感覚を警戒して耳を澄ました。
彼が見たものの最初は、単純な日常の流れだった。帆が濡れ、墨が薄れていく。だが次に浮かんだのは、夜の岸壁で長い棒を持つ者たちの影、器に注がれる淡い青の液、小さな子どもの絵が濡れて薄れる光景。ナホの胸の奥に沈んでいた屈辱と矛盾が、潮色として語り出した。
「…それで、誰が命じた?」マーラが近づいて聞いた。ナホは唇を噛んでから、布を握り締めた指を震わせて答えた。「提督の呼び名は…『提督』じゃない。書類には高く、上層の…あの旗のある船長が名を連ねている。彼らは検査に来て、液を入れて。帆が乾くと、紋が消える。港の標識も消える。『見るな』と言われた」
アオは浮かんだ潮色をより深く追いた