異世界転生影縫師の護衛騎士 第26話「第24章」
セイは広場の石段に腰を下ろしたまま、両手のひらを擦り合わせていた。指先はまだ乾いた糸屑の匂いを覚えている。目の前には、人の列と松明、そして祭壇のように設えられた木製の台。台の上には、黒光りする指輪が一つ、綿布に包まれて置かれていた。指輪を囲むように置かれた蝋燭は、風に煽られても火を絶やさぬ程度に守られている。夜空には月がなく、裁定を受けるはずの「影」を裁くにはふさわしい暗さだった。
セイは広場の石段に腰を下ろしたまま、両手のひらを擦り合わせていた。指先はまだ乾いた糸屑の匂いを覚えている。目の前には、人の列と松明、そして祭壇のように設えられた木製の台。台の上には、黒光りする指輪が一つ、綿布に包まれて置かれていた。指輪を囲むように置かれた蝋燭は、風に煽られても火を絶やさぬ程度に守られている。夜空には月がなく、裁定を受けるはずの「影」を裁くにはふさわしい暗さだった。
「セイ、準備はいいか」カイラの声が小さく震えた。彼女は情報屋の顔をしているが、今は訴えるべき証言を抱えてここへ来た一人だ。トーヴは腕組みをしたまま、目の端で騎士団の列を探っている。ミラは石段の下の群衆の中、足元で布を握り締めている。セイはその布を見て、胸がぎゅっと痛んだ。布の模様は彼女の母親が縫ったものだと前に聞いた。守らなければならない人たち。守るという言葉が、今の彼の意思を形作っている。
「最後に一度だけ、縫えばいいんだ」誰かが、狭い近くの通路で囁いた。声は裁定騎士団の面々から漏れてきた。彼らの長であるベネディクスは、儀式を執り行う権威を取り戻すために来ていた。彼の鎧の縁には黒糸の紋章が刻まれている。指輪と紋章、示せば公然と結びつくものだ。セイは手の中の糸をぎゅっと握り締めた。糸は冷たく、ほんの少しだけ彼自身の影を映しているように見える。
「一度だけで済むなら」と誰かが言えば、彼の胸はまた薄く震える。縫えば、確かに傷ついた身体や動きを一時的に支えられる。だがその代価は、彼の影が薄くなること。影が薄くなれば、声が聞こえにくくなり、触れにくくなり、存在が少しずつ町から滑り落ちていく。さらに――嘘が混じれば、縫い目は刃になる。刃になった縫い目は制御できない。裁定騎士団が仕組んだのは、縫いを誤用させる誘惑であり、人を裁く権利を持つ者へと彼を追い込むことだった。
「君一人でやる気か、影縫師?」ベネディクスの声が広場に響いた。鎧の音が重く、周囲の空気が引き締まる。彼の足元には数人の騎士が列を作り、その一人が肘で台の上の綿布を撫でるようにして指輪に触れた。布の繊維が擦れる音。誰かが唾を飲む音。群衆の間に微かなざわめきが広がる。
セイは立ち上がり、石段をゆっくりと下りた。影が薄い彼の身体は、普段よりも一歩ごとに柔らかく光を弾かれるように見えた。足元の影は、左足の縁が消えかかっている。彼は皆の顔を一つひとつ見る。ミラの目は震えている。トーヴは顎を引き、唇を噛んでいる。カイラの手は、証拠文書をぎゅっと握っている。守るべき人々の顔が、彼の中で確かな輪郭を取り戻す。
「ベネディクス殿」セイは声を整えた。「ここに来た理由は、あなた方が言う“秩序”の正しい在り方を証明することではない。ここにいる人たちが、自分のことを自分で言えるようにするための場だ」
ベネディクスは鼻の下に薄い笑みを寄せた。「影裁は秩序の道具だ。個々の影が示すものは、共同体の安全に直結する。あなたが影を縫えるからといって、我らの仕事を妨げるな」
「それは力の独占だ」セイは静かに言った。「影を裁くのも、裁きを与えるのも、誰かが決めるべきことではない。今日、そのことを確かめさせてもらう」
「では、始めよう」とベネディクスが言うと、彼の側近が台のほうへ足を踏み出した。彼らは儀式の形式を崩さぬようにして、手順を踏むつもりでいる。台の上の綿布がそっと剥がされると、黒糸の指輪が全員の視線を独り占めにした。指輪は黒い金属でできており、表面に刻まれた紋章は見る者の心に冷たい感触を残す。指輪が持つ力は、形だけで人々の背筋を伸ばす。
そのとき、群衆の中から声が上がった。カイラが前に出て台の縁に立ち、紙束を台に置く。紙は流出した儀式マニュアルの写しだ。彼女は目を逸らさず、広場に向かって読み上げを始める。読み上げられる言葉は、文体の冷たさと計算の跡を残し、聴く者の心を重くさせた。記録されているのは、影裁がどのように影を「欠け」にするかの手順と、どのように記憶や移動を縫い直すかの具体的なやり方だった。声が広場を満たすにつれて、騎士団の面々の顔色が変わる。
「嘘で塗り固められた手続き」トーヴが低く言った。彼はかつて王宮の下働きをしていた。トーヴの指先が、台の縁に触れて、黒糸の指輪に関する一節を突きつけた。そこには、指輪が影の繊維と人の記憶を物理的に結びつけるための触媒であり、触媒をかけられた影は裁定の対象となると記されていた。つまり、指輪は単なる象徴ではなかった。指輪があれば、影を欠けさせ、記憶や身分を改竄しうる。
「ここにいる皆の中で、彼らが私たちの記憶を縫い直した者がいるか」カイラの声は一段高くなった。数人が手を挙げた。挙げられた手は震え、声はか細い。しかし、声を出した者の目には確かな光が戻っている。言葉は治療の一歩になった。群衆はざわめきから応答へと変わる。その応答が重なり合うと、騎士団の言葉の正当化がひび割れていく。
ベネディクスが割って入った。「証言があると言っても、それは混乱を招く。秩序を守るために、我が団は必要な措置を取ったのだ。合わせ証拠がなければ、個人の主張は恣意だ」
セイは指先の糸を握りしめた。縫えば、ここで一人の動きを確かに支えられる。目の前で誰かが倒れれば、彼の手が差し伸べられるだろう。だが一度でも縫えば、彼の影は薄くなる。もう一度縫えば、おそらく彼の影は消える。消えた先に彼がいるのか、あるいはただの蒼い記憶になるのか、彼は分からない。何よりも恐ろしく思えたのは、ベネディクスの側にいる者の中に嘘が混じるかもしれないということだ。嘘が混じれば、縫い目は刃になる。刃になった縫い目は、守るつもりの誰かを傷つける。彼はそのリスクを負いたくなかった。
「セイ、やるのか?」ミラの声が震えた。彼女は前に出ようとしたが、カイラが軽く彼女の腕を掴んだ。ミラの顔には恐怖が浮かんでいる——替え玉にされた過去が、今またここで試されていると感じている。
セイは首を振った。「今は、私が最後の手段になるべき時じゃない。合意を持ってこそ、縫いは治療になる。ここで私が一方的に作用すれば、それは別の支配になるだけだ」
その言葉に会場から小さな驚きが上がった。ベネディクスは笑った。「ほう、道徳家の振りか。だが弱者を前にしてかばい刀を差し出すのは、口先だけではないか」
「違う」トーヴが言った。「彼はただの口先の男じゃない。セイはこれまで幾度も縫って、人を助けてきた。だが彼はそれを奪われることを知っているからこそ、私たちに選ばせようとしている」
カイラが紙束を台の上で開いて、指輪の付近に置いた。写しの最後にあるのは、実際の儀式文言だ。そこには、被裁者が言葉を述べられないようにする一節が含まれている。つまり、過去に行われていたのは公開の手続きではなく、黙らせたうえでの決定だったのだ。群衆の中から怒声が上がる。訴えの声は次第に大きくなり、ベネディクスの言葉の余地を奪っていった。
「私たちはここで、儀式を"儀式"として終わらせる」セイは言った。「でもその意味を、私たちの言葉で書き換える。あなた方の指輪が何をしていたかは、もうこの記事で暴かれた。ならば今ここで、その指輪が持つ効果