異世界転生紙芝居屋の救世主

異世界転生紙芝居屋の救世主 第2話「第1章」

白い布は、風にそっと震えた。裂けた帆布ではなくて、祭壇に掛けるような柔らかい布で、向こう側に置かれた箱の輪郭をぼんやりと映している。箱は古く、角が擦り切れている。蓋には、かつて誰かが描いたであろう絵の輪郭が消えかけている。ナギは布を指先で摘み上げて、箱を前に差し出すようにして街角に座った。

白い布は、風にそっと震えた。裂けた帆布ではなくて、祭壇に掛けるような柔らかい布で、向こう側に置かれた箱の輪郭をぼんやりと映している。箱は古く、角が擦り切れている。蓋には、かつて誰かが描いたであろう絵の輪郭が消えかけている。ナギは布を指先で摘み上げて、箱を前に差し出すようにして街角に座った。

「さあ。今日はどんな話にしようかね?」

声は小さく、だが確かな音だった。声の主は十六歳ほどに見える少女。端正な顔立ちだが、頬には長く続いた緊張の線が刻まれている。紙芝居の箱を膝で抱え、彼女は自分自身の心の中にある舞台の導線を確かめるように、指先で箱の縁をなぞった。

子どもたちが集まってくる。靴底に泥が乾いて固まったような匂い。髪は煤で黒く、服は継ぎ接ぎだらけだ。誰も、軍の宣伝車が通り過ぎるときに流れた朗々たる声の内容を口にしない。だがその声の余韻は、町の角に残り、小さな胸を固くさせる。

「また、あの人たちの話が始まるの?」

小さな男の子がぼそりと言った。目を真っ赤にしているのは、泣いた後の跡だろう。ナギはその目を見て、微笑んだ。微笑むことは、新しい劇の幕開けだ。かつて彼女が脚本を書いていたころ、どんな場面でもまず観客に向かって微笑むことから始める癖があった。今は役者ではなく、ただの紙芝居屋。けれど観客は同じだ。

「今日はね、逃げるための話だよ。でもね、怖くて見たくないときは無理に見なくていい。見たいときに、続きを言ってね」

ナギの言葉に、子どもたちの顔が揺れる。幾つかの声が小さく、続きが欲しいという気持ちを漏らした。まだ恐怖ではない、好奇の音だった。ナギは箱の蓋を開け、絵を一枚ずつ取り出して見せる。色あせた紙に描かれた町並み、崩れかけた門、裂けた旗。それは誰かの過去でもあり、今のこの街の縮図でもあった。

箱の最後に、彼女は白い一枚を忍ばせている。普段は見せない頁。今日は見せるつもりで、わざと蓋の端に寄せておいた。白紙。それは紙芝居としては異常な小道具で、無音の兆候のように目の端で光る。子どもたちの中の一人がそれに気づいて、指をそっと伸ばした。

「なに、これ?」

「最後の頁だよ。まだ書いてないの。だからね、みんなで続きを作ることができるかもしれない」

ナギはそう言って、白紙を表に向ける。子どもたちはざわりと近づく。こちら側に立つ大人は、兵士の宣伝車が角を曲がってくるのを見つけた。大きな車輪が石板を叩き、上に立った者が高らかに語る。記憶というものは管理されるものだ、と高い声が言う。声の調子に合わせて、群衆の動きを決めてしまうのだと、その音は示唆していた。

ナギはその声を裏返して受けとめる。自分の中で、脚本のテンポを決めるように場の空気を二つに割る。いま守るべきは、この角に群がった子どもたちだ。彼らはまだ自分の行く先を選べる。ナギは箱の中の絵を選び、指先でそっと示した。

「昔々、町のはずれに小さな橋があったんだよ。その橋の下には、石畳の道が一筋、闇の中へ続いていた。誰もが橋の向こうには行かないって言ってた。だってね、向こうには…」

話を途切れさせる。効果的な切れ目をつくる。ナギの胸は跳ねた。ここで子どもたちが声を出すかどうかが、今日の重さを決める。彼らが声に出して「続きを聞きたい」と望めば、紙芝居は彼女の能力に応じて短い幻の案内を見せる。幻は絵に重なるように浮かぶ。また、その幻で示すものは、物理的な道の短い示唆に過ぎない──それ以上はできないと、ナギは知っている。そして、声が恐怖で震えていれば、幻は敵の望む物語になり、過去の頁が一枚消えてしまう。だから彼女は、声を引き出すことを急がない。誘うように、やわらかく言葉を選ぶ。

「でもね、そこに行った人は、夜にでも物音ひとつ聞かずに歩ける小道を見つけたんだって。どうしてそんな道があるのかは、誰にも分からない。でも、ふたりで手をつないで行けば、怖くないって。」

小さな女の子が、くすりと笑った。その笑いは、恐怖の代わりに好奇心を運んだ。

「つづき、聞きたい!」

男の子が大きな声で叫んだ。声は震えていなかった。ナギはその声を逃がさず、とっさに箱の絵をめくる。絵の上に、薄い色の幻がふわりと差した。紙の表面に直線が走り、絵の街灯が光を落とす。幻は短く、具体的だった。橋の下を抜けた先に、狭い石畳の路地。路地の角に、屋根の破片でできた目印がある。そこへ向かえば、大きな通りを避けて向こう側へ抜けられる──と、幻はそれを示した。

子どもたちの目が輝く。小さな指が、幻の示した角を辿る。ナギはその指先を見て、もう一度胸の中で小さく息をついた。能力は発動した。だが力を使った感じは、火が一瞬掌に触れたような、温度の記憶に似ていた。箱の白紙が、微かに波打ったようにも見える。

「行くなら、今。怖いときはやめていい。誰か連れて行く人いる?」

年長の子が、勇気を振り絞るように手を上げた。ナギは立ち上がり、紙芝居の箱を抱えて少し前に出た。自分が案内役にならなくてはならないと思ったが、彼女はそれを背負うつもりはなかった。守る対象は子どもたちで、仲間はこれから増えるだろうが、いまここで決めるべきは子ら自身の足だ。だから彼女は、軽く帽子のつばを掴みながら言った。

「じゃあ、三人ずつで行こう。手をつないで、屋根の破片を見つけたら右に曲がる。向こうの音に合わせて走らないこと。急がせると、怖くなるからね」

子どもたちはわらわらと組になり、静かに準備を始める。ナギは目立たぬように、最後の組を見送るために路地の入口までついていった。外側の大通りでは、宣伝車の司会者が節を置いて話している。彼の言葉は抽象で、強い語気で「一致と犠牲」を説く。ナギはその言葉を耳の裏に押しやって、子どもたちの小さな手の温度に触れる。

「こっちだよ。ゆっくりね」

彼女は囁くように案内し、幻の示した目印を探した。瓦礫の間に、小さな三角の木片が落ちている。それが屋根の破片だと、女の子がささやいた。道は確かに細かった。石畳は不揃いで、足元に油断はできない。だが大通りの喧騒から逃れるには十分だった。子どもたちは互いの肩を抱き、段差を越えた。

ナギは振り返る。角に残った白紙の頁が、光を受けて薄く透けた。そこには、何も描かれていない。何かを描き足すことはできるが、彼女にはまだその余白に何を書くかを決める権利はない。共同で書くためのスペースだ。だがその白は、彼女の胸に静かな不安を点した。紙の白さが、昔の舞台の最後のカーテンに見えなくもない。彼女は思わず指先をその辺りに滑らせ、箱の中のある絵をもう一度見た。そこに、かつての自分の手が描いただろう薄い線が微かに残っている気がした。だがそれは、確証ではなかった。

子どもたちが見えなくなるまで見送ったあと、ナギは箱を閉じた。白布を被せると、小さな拍手のような音が風に混じって肩越しに残った。彼女は通りへ戻り、宣伝車が去っていくのを遠目に見た。大きな車輪が遠ざかるにつれて、あの高い声は次第に小さくなる。だがその声が、町の人々の内側に何かを植えつけていることだけは確かだった。

「うまくいったのね」

低い声がして、ナギは振り向く。背後に立っていたのは、街の炊き出しを