異世界転生時計師の監察官 第9話「第8章」
工場町の朝は、まだ薄い霧が路地を這っている時間に動かされた。鉄の歯車を食むような低い息遣いが遠くで続き、細工屋の窓から差し込む燈火が一本、イツキの指先に落ちては揺れた。彼は小さな木箱の蓋を開け、父親譲りの薄い懐中時計の錆びた歯車を一つずつ指で確かめる。動かしたい。止まった朝を、もう一度動かしたい。だがその思いを裂くように、街のはずれから怒声と鎖の響きが届いた。
工場町の朝は、まだ薄い霧が路地を這っている時間に動かされた。鉄の歯車を食むような低い息遣いが遠くで続き、細工屋の窓から差し込む燈火が一本、イツキの指先に落ちては揺れた。彼は小さな木箱の蓋を開け、父親譲りの薄い懐中時計の錆びた歯車を一つずつ指で確かめる。動かしたい。止まった朝を、もう一度動かしたい。だがその思いを裂くように、街のはずれから怒声と鎖の響きが届いた。
「捕まえろ! こいつらだ、違法操作だ!」
イツキは手を止め、針のない文字盤を見つめた。止まった秒針。ずっと目につくそれが、胸のなかで小さく鳴る。外に出ると通りは人だかりになっており、監察局の黒い制服を着た役人たちが二人の男を縄で縛り、もう一人の女を柱に押しつけていた。ひとり、腕に油の痕が残る男が、すがるようにイツキの名を呼んだ。
「イツキ! 助けてくれ! 俺たちの時計を直してくれって頼んだだけだ。時間を…あんたがやっただろう!」
返答を待たず、官吏のひとりが大きな声で言った。「違法な時間操作の疑いで逮捕。証拠は押収する。町の秩序のためだ。関係者は全員署で事情聴取を受ける。」
イツキのまぶたが熱くなる。捕らえられたのは、昨夜まで一緒に歯車を削っていたサイだった。サイは、町の時計職人組合の一員で、腕は荒れているが笑顔を絶やさない男だ。彼がイツキに最初に助けを求めたのも、昼間の合意の実験に参加してくれたのもサイだった。イツキは約束した。助けを求めてきた共同体を守ると。だが監察局の人員は多く、その目は冷たく、縄の結び目は堅かった。
「ここで暴力を振るえば事態は悪化する」と、背後から低い声がした。レイナだ。工場町の雑貨屋を営む女で、独自の判断で食料配給のネットワークを動かしている。彼女はイツキの肩に軽く触れて視線を合わせた。「でも放っておくわけにはいかない。サイは子供たちに時間の話を教えていたのよ。あの人たちは…私たちの一部だ」
「奪われた時間を取り戻すって誓ったはずだ」と、若いノアが震えた声で言う。彼はまだ見習いで、イツキから工具の扱いを学んだばかりだ。腕の筋肉は細く、瞳は不安で揺れている。ノアは胸の懐に隠した小さな懐中時計に指をかけた。それはイツキが修理したものだった。もし今、彼らに時間を与えられるなら──イツキの内面で薄い光が揺れた。
だが能力の規則が冷たく思い出された。自分で直した時計にだけ、二人が合意した短い「待ち時間」を記録できる。合意なしに時間を取れば、自分の寿命が同じだけ削れる。巻き戻すことはできない。監察局の手にある縄に縛られた男たちにその同意が取れるか。郵政の男たちの前で、拘束された人間から自由な合意を得ることが、公正と言えるか――答えは、イツキの胸を締めつけた。
「勝手に時間を奪ってでも救うべきだ」と、通りの端にいた一人が叫んだ。腕を振り上げようとしていた群衆の中には、怒りが渦巻いている。別の者は恐れて震え、子供を抱きしめて背を向ける。仲間たちはそれぞれの判断を持つ。だがイツキが仲間を道具にするつもりはない。彼らには自分の声があるはずだ。
監察局の中佐だという男が、群衆を睥睨しながら詰め寄った。顔には昔ながらの時計職人の檀が刻んだような深い線があり、その眼差しは針のように尖っていた。「イツキ・塔見習い。あなたが町で不法な『時間の休止』を煽動していると聞く。証拠に基づき、関係者の事情聴取をする。あなた自身も同行願おうか」
同行しない自由はない。だがイツキには別の選択肢が瞬時に浮かんだ。直感と、これまで町で培ってきた信頼の重さが混じり合って、彼は口を開く。「ここで、皆の前で話をさせてください。隠れて聴取するべきじゃない。市民の前で、あなた方が何を根拠にこの逮捕をしたのか、説明してもらう」
監察官は笑った。だがその笑いにはひびが入っていた。外に集まったのは普通の人々であり、その眼差しは次第に固まっていった。説明を求める声が、荒い咳のように広がる。街の秩序を守るという錦の言葉も、今は市民の疑念の前で引き裂かれてゆく。
「話す時間をやる」中佐は言った。「だが録音は許さん。干渉は一切禁止だ」
そこでイツキは、身に着けてきた古い懐中時計を机に置いた。その表面には最近、彼自身が細工を施した痕がある。直した時計には、二人の合意があれば短い待ち時間を記録する仕掛けを入れられる。公開の場で示せば、彼らの“時間の記録”が何であるかを皆が目にし、監察局の言い分が正当なものかを測る材料になる。だが同時に、もし監察局が合意の形を装ってその仕掛けを使い、イツキの寿命を奪おうとすれば──彼の身体は代価を払うだろう。
「合意を記録する時計だ」とイツキは言った。「だが使うには両者の同意が必要だ。合意なしに操作すれば、僕の命が減る。ここでの合意は公開の下でのみ有効だ」
中佐の眉がぴくりと動いた。彼はニヤリともせず、しかし手を伸ばして時計に触れようとした。群衆の一人が咳払いをした。レイナが前に出て、低く厳しい声で言う。「我々は誰かが命を代償にすることを望まない。説明の場を設けるなら、市民の前で合意を取ってください。あなた方もその場に出てください。でなければ、ここに居る全員の安全は保障されないわ」
中佐はしばらく沈黙して、やがて肩をすくめた。「仕方ない。公開の場で聴取をする。その場で合意した時間だけ、我々も停滞の実験を受けるというなら、話は別だ」
その言葉に、イツキの胸が固く絞られる。相手が“停滞の実験”に名を借りて合意を装う可能性はある。だがレイナの顔を見ると、彼女は眉間に皺を寄せていた。ノアは息を吐き、サイは縄で縛られているにもかかわらず微笑もうとしていた。彼らの目は、「自分たちの時間を守ってくれ」と語った。
「分かった」とイツキは答えた。「明日の正午、広場で。公開で合意を取る。だが一つ条件がある。拘束された者たちは、監察局側が提出する“違法の証拠”をここで示し、公開の審理で扱うこと。証拠を隠蔽するつもりなら、町の民がそれを許すことはない」
中佐が息を吐いた。「いいだろう。だがその場で反逆的な行為があれば、私の権限で鎮圧する」
その言葉は脅しのように聞こえ、通りにはざわめきが走った。ノアは手を握り締め、サイは口を引き結んだ。イツキは胸の時計に手を当て、父の残した刻印を思った。「時間は分かち合うもの」と刻まれていた。それは彼が守るべき言葉だ。代償によって孤独な英雄になるのではなく、共同体が自ら選ぶための装置として時間を使うことを目指す。今日はその初めての公の場になる。
だが夜が深まる頃、監察局の圧力は別の形で現れた。夜の風が街を吹き抜けたころ、囁きが届いた。逮捕された者たちのうち二人が、既に移送の準備をされているというのだ。巡査が密かに言い寄った。「中佐の命令だ。疑いが重いと判断された者は、地方の監察所に送られる。向こうでは訊問も長引くだろう」
イツキの胸が締めつけられた。移送されれば、明日の広場で顔を合わせることも、合意を取ることも難しくなる。彼は短い時間、選択肢を巡って戦った。力で押し返すこともできる。だがそれは暴力を招き、町を血で汚すかもしれない。無理に時間を奪ってでも救うことはできるかもしれない。だがそれは