異世界転生雨傘職人の王都魔導師 第8話「第7章」
朝の市場はまだ蒸気を吐いていた。屋台の布が乾ききれない匂いと、軒先に溜まった魔力の雨水が石畳に微かな光を撒いている。カイは工房の小さな戸を半分だけ開け、椅子に腰を落ち着ける余裕すらない手で黒傘の縁をなぞっていた。穴の空いたその傘は、今も彼の店の奥で毎夜彼を睨むように掛かっている。直すべきか、返すべきか。それが彼の頭から離れない。
朝の市場はまだ蒸気を吐いていた。屋台の布が乾ききれない匂いと、軒先に溜まった魔力の雨水が石畳に微かな光を撒いている。カイは工房の小さな戸を半分だけ開け、椅子に腰を落ち着ける余裕すらない手で黒傘の縁をなぞっていた。穴の空いたその傘は、今も彼の店の奥で毎夜彼を睨むように掛かっている。直すべきか、返すべきか。それが彼の頭から離れない。
「また修理会の日にしようって、みんな言ってたじゃないか」外から声がした。ラニが戸口に立って、薄い外套の裾をはらいながらこちらを見ている。市場の連絡役の一人だ。彼女の目は曇りなく、しかしどこか疲れていた。
「やるよ。午後からでも」カイは生地の繊維を指先で確かめながら答えた。本当は今、壊れた軒を直すために店の外へ出たかった。けれども先週、閉じた傘を手にした者が噂の通り『忘れた』という話を聞いて以来、彼は慎重になっていた。ラニが開くべきだと信頼するなら、彼は修理を教える。だが自分で傘を開いて守ってくれる人が必要だった。
「子供たちがまた…向こうの通りで騒いでる」ラニが窓の外を指さす。市場の狭い通路の向こう側で、色とりどりの屋台が寄り集まり、人だかりができていた。カイは立ち上がって、濡れた靴底が軒先の鉄板に触れる感触を確かめた。直した傘だけが一粒の恐怖を弾くということ。持ち主自身がその傘を開くと、恐怖を凝縮した一滴が弾かれ、その瞬間だけだが安全な空間が生まれる。誰かのために、彼が傘を開けばいい──そう思うことは彼の胸に常に刺がある。閉じた傘に頼れば、記憶が濡れて消えるという代償がある。自分の記憶を失うことの恐ろしさは、夜毎に夢の中で形を変えて襲ってくる。
市場に出ると、人混みの緊張が肌を刺した。なにかが壊れたときの音、布がはじけるような音、そして誰かの嗚咽。露店の一つ、青布の屋台の前で人だかりが渦を巻いている。中を覗くと、屋台の天幕が半分崩れ、腰を抜かしたように座り込む女性と、地面にうずくまる小さな子どもがいる。子どもは泥と魔力雨のしずくで顔に模様を作っていて、泣いているが目はどこか遠い。
「落ち着いて、屋根を直す」トーマが言う。元傭兵で今は市場の護り手の一人だ。腕に巻いた布には、古い傷の跡が残っている。彼は人を押しのけて手際よく瓦を抱え、落ちた骨組みを支えようとする。
「この傘を!」叫び声がした。誰かが差し出したのは、カイが先日直した青い傘だった。柄元にまだ小さな修理の跡が残っているのを、カイはすぐに見分けた。騒ぎの中心にいるのは、屋台の娘、ミアだ。ミアは小柄で、いつも明るく魚を売っている。彼女の手は震え、唇を噛みしめている。傘は折り畳まれている。持ち主の手元にある――だがそれを開ける者はミア本人ではなかった。屋台主の夫が慌ててその傘を引き寄せ、まるで火が付いたように広げた。
「待って!」カイの声が届かず、時間は二秒ほどゆがんだ。開かれた瞬間、屋台の上空で小さな光の弾が跳ねて、まるで虹の切れ端のように弾けた。風が吹いた。守られた空間は確かに生まれ、倒れかけた棚はその間に持ちこたえた。周りの人たちの叫び声は一瞬で止む。だが次の瞬間、傍にいた男の目に透明な膜が張るように光が飛んだ。彼はふらりと膝をつき、手のひらに自分の頭を当てた。
「何だ…何だこれは?」男が呟く。言葉は細く、彼の顔から何かが音を立てて抜け落ちたようだった。彼の瞳の奥の記憶が、まるで雨に溶けたインクのように薄れていく。
カイの心臓がぎゅっと痛んだ。彼は目の前で起きたことを反芻する。傘は直したものだ。持ち主は傘を手にしていたが、自分で開いたのではなく、夫が開いた。ルールが示すように、傘は「持ち主が自分で開いたとき」に働き、持ち主以外が開くと代償が生じる。代償が誰に、どんな風に降りかかるかは、噂に揺れている部分でもあった。だが今、目の前の男の表情でそれはただの噂ではないことを示していた。彼の胸に手を当てていると、そこから細い糸が引かれ、本当に何かが抜けていく音が聞こえるような気がした。
「彼は……」ラニの声がふるえた。「誰の記憶?」
「自分の名前も、どこから来たかも話せないみたいだ」ミアが答える。泣きそうな顔で男を見下ろし、くすんだ指で彼の肩を掴む。男は自分の名を忘れたらしく、涙も出せない。泣く行為すら思い出せないのかもしれない。
カイの胸に冷たい石が落ちた。あの時、彼が店の奥で黒傘を見つめながら考えたことが蘇る。直した傘は人を守る。しかし、誰が開くか、それを誤ると取り返しのつかないものを奪う。それは彼の規則であり、呪いでもある。噂はただのささやきではなかった。誰かが誰かのために傘を開ける──その善意が別の形の暴力になることがある。目の前の男は、その重さを代金として払った。
「ミア、彼のことを落ち着かせて。名前は?」カイは声を曇らせずに命じた。命じることしかできなかった。自分が傘を開かなかったこと、開ければ自分の記憶を失うというリスクを冒すかもしれないという理由で。だが同時に彼は、自分の中にうずく責任感も知っていた。もし自分があそこで傘を開いていれば、誰が代償を払っていたか。彼の記憶だろうか。それとも別の誰かだろうか。判断の結果に、常に静かな刃が潜んでいる。
ミアは震える声で男の肩に耳を寄せた。「あなた、どこから来たの?」「ここで働いてたのよね?」だが男は首を振るだけだ。空っぽに見える瞳が、誰かの顔を探している。トーマが周囲の人を手早く整理し、濡れた布を持ってきて男の肩に掛ける。人々は囁き合い、目を逸らす者もいる。市場の連帯は動き出すが、その動きはどこかぎこちない。彼らは自分たちの作った網が、誰かを絡め取ってしまったことを知っている。
カイは短く息を吐いた。自分の店に戻ると、無造作に叩かれた革のノートを掴んだ。これは、近頃彼らが小さく進めてきた「記憶の棚」用の帳面だ。人々が自分の名や出来事を書き留めるためのもの。記憶が消えるということが現実に起きた今、これだけは早急に機能させなければならない。記憶を物理に写し取ることができるわけではないが、誰かの名前や習慣や故郷の匂いを記録に残すことは、失われたものの代替として機能しうる。
「みんな、聞いてくれ」カイは声を張った。人だかりの中心に戻ると、彼の声は不器用だが確かに通った。「誰かの記憶が消えた。だが忘れた人を見捨てるわけにはいかない。ここに、君たちの話を書き留めるノートがある。彼の名前、顔、好きだった食べ物――思い出せることを誰でも書いてくれ。私たちはそれを彼に見せる。彼の記憶の代わりになるかもしれない。あるいは、思い出すきっかけにだってなる」
ラニが手を上げ、トーマが同調する。市場の人々は最初戸惑っていたが、次第に近づき、紙に触れる。おばさんが指で皿の絵を描き、魚を売る者は男の顔の輪郭を描き、幼い子は小さな淀みのない字で「優しい目」と書いた。言葉は混ざり、埃と雨の匂いの中で誰かの人生が一つずつ紙に置かれていく。カイはその様子を見ながら、胸の奥で何かが締めつけられるのを感じた。それは罪悪感か、それとも救済への希望か。
「なあ、カイ」ラニが小声で耳打ちする。「もし、彼が本当に何も思い出せなくても、これで……」
「これで十分だとは言