異世界転生雨傘職人の王都魔導師 第2話「第1章」
朝の露も降らない王都の市場は、いつもより早く人の声で満ちていた。カイは作業台に肘をつき、針と糸で黒い骨組みの隙間を埋める手を止めなかった。いまやりたいのは、この一本の傘を直し終えて、壊れかけた屋台の前へ戻ることだけだ。屋台に並ぶ干し魚の匂い、栗を割る音、子供たちの笑い声——それらを守らなければならない。だから、直し終えて持ち主の手で開かれることを見届けるまでは、ここを離れない。
朝の露も降らない王都の市場は、いつもより早く人の声で満ちていた。カイは作業台に肘をつき、針と糸で黒い骨組みの隙間を埋める手を止めなかった。いまやりたいのは、この一本の傘を直し終えて、壊れかけた屋台の前へ戻ることだけだ。屋台に並ぶ干し魚の匂い、栗を割る音、子供たちの笑い声——それらを守らなければならない。だから、直し終えて持ち主の手で開かれることを見届けるまでは、ここを離れない。
「もう少しだけ」と呟いたところで、扉が勢いよく開いた。風ではなく、足音の速さで入ってきたのはミラ。魚屋の女で、いつも前掛けに何枚もの布を縫い付けている。ミラは傘の柄を抱え、顔を紅潮させてカイを見た。
「カイ、頼む。早く直してよ。北側の路地で——一粒、落ちたんだ。屋台の上に。あれが来たら、網も箱も全部駄目になるって。誰かの顔も抜け落ちるって、噂よ」
ミラの手の中の傘は黒かった。外側は煤で擦り切れ、骨のところに丸い穴が空いている。カイはその穴を指先で確かめる。穴は四分の一の径ほどで、縁はまるで燃えかすのように細かく崩れていた。見覚えのある刻印はない。ただ、内側の布地に薄く残る光る糸のようなものが、彼の胸の奥をひりつかせる。
「それ、あなたの?」とカイ。
「うちの旦那の。夜行の魚売りで、今朝帰ってきたらこれを差してた。傘に穴が空くなんて、普通じゃない。カイ、どうか直してくれ。開けて、あの一粒を弾いてほしいの」
ミラの目にある不安は、単なる損失の恐れではなかった。彼女は言葉を選んで、指を震わせながら付け加えた。
「彼、あの……最近、空から落ちてくる雨が怖いって。赤い光の粒。直してくれれば、誰かが自分の手で開く権利を持てるでしょ? お願い」
権利。市場ではその言葉が波紋を生む。カイは手にした針を動かしながら、口の中でゆっくりと頷いた。傘を直すことは彼の仕事であり、守るべき対象はここにいる人々だった。だが、彼は同時にいつも自分に課す制約を思い出していた——直した傘は、持ち主本人が自分で開いたときにだけ守りをつくる。誰かが代わりに開いては効かない。そして閉じたまま頼ってしまうと、彼の記憶が濡れて消えるという代償がある。
「自分で開くのよ」とカイは短く言った。「俺が開けたら、働かない。お前さんが、旦那さんが自分で開けるんだ」
ミラの顔が一瞬落ち込み、続けて強い決意が浮かんだ。「分かった。そんな命令、誰にも渡したくないもの」
カイは糸を引き締め、裂け目に沿って細かく縫い目を刻んでいく。彼の手仕事は無駄がなく、長年の癖で呼吸とリズムが整う。針の先からは油の匂いが立ち上る。作業台の奥にある油壺を指でつつき、余分な油を布で拭いながら彼は心配そうに窓の外を見た。空は相変わらず高く澄んでいる。王都は昔から雨を知らない街だ。それが余計に、空から落ちるという一粒の存在を不吉に見せる。
縫い終えたとき、傘の穴は塞がった。表面を撫でると、補修の跡が光ってちらりと光りを返す。カイはその光を確かめると、直した傘を差し出した。
「気を付けて。開けるのは旦那さん自身だけだ。開けて手を離さないで——一人で開かないと、守りは働かない。閉じたまま誰かに頼るのも駄目だ。俺の記憶が、濡れて消える」
ミラは傘を抱いて俯き、次に笑みを浮かべて小さく頷く。「分かってる。まさかそんな代償があるとは思わなかったけど、あなたに頼めるのはあなただけよ。気を付けて」
彼女は傘を持って店の外へ走り、角を曲がって路地へと駆け去った。カイは彼女の背中を見送る。修理を終えたばかりの手が少し震えているのを感じた。鼻の奥に、ほんの一瞬だけど、子供の頃の記憶の端が濡れたように曖昧になった気がした。気のせいだと自分に言い聞かせて、針と糸を箱に戻す。だが胸の一枚が、湿っているような感覚だけが残った。
市場の通りはいつもより人が多かった。朝の市場は昼に向けて盛り上がるが、今日はそこに緊張が混じっている。赤い布を掲げた政庁の使者が数人、遠巻きに通りを歩いているのが見えた。評議会の影はいつもここまで指を伸ばしてくる。配給だという名目で、天から落ちるものを管理する計画が囁かれている。人々は言葉を飲み込みながらも、互いに目で情報をやり取りしている。
路地の先で、ミラの旦那が息を切らして立っていた。傘を抱えたまま、彼は震える手で柄を握っている。カイは彼に近づくと、軽く膝を折って目線を合わせた。
「大丈夫か?」
旦那は小さな頷きで応える。傘を膝に立て、深呼吸をしてから――ゆっくりと自分の手で傘の留め金を外した。市場のざわめきが一瞬静まる。彼の指先が、傘の骨を押し広げる。開ける瞬間、周囲の空気が針先のように細かく震えた。
――それは小さな音だった。布が伸びる音。しかし、その音がもたらしたものは寒気のように広がった。空から落ちてきたのは、宝石の欠片のように小さな一粒だった。半透明で、内側に黒い斑点が渦巻く。市場の人々は息を詰めた。あの粒の落ちる先に立っているのは、ミラの屋台だ。
その一粒が、布の外側を触れてはじかれた。音は水がはじけるようだったが、その光景は水のそれとは違った。弾かれた粒は、反発の余波で小さく震え、やがて空中で粉々になって消えた。傘のまわりに、手のひらくらいの空白ができた。それは短い時間だけ、まるで透明な殻のように市場の空気を守った。
人々から歓声が上がる。ミラが小さく息をつき、旦那の肩に手を置いた。彼は目を潤ませ、小さく笑った。カイの胸の中に、救えたという喜びと同じくらい、冷たい恐怖が走る。能力は働いた。直した傘が、持ち主の恐れを跳ね返したのだ。
「効くんだな」誰かが呟いた。その声は驚嘆と疑念が混ざっている。
カイは傘を見つめながら、自分の中に鋭い針先のような痛みを感じた。直した傘は一粒を弾くだけだ。屋台を守るにはそれで十分だったが、次の粒がいつどこに落ちるかは分からない。彼は、本来の制約を身をもって知っている。持ち主が自分で開かなければ効かない。誰かが閉じたまま傘に頼ると、彼の記憶が一つ、二つと濡れて消える。
歓喜の波の向こうで、若い家族が急いで小さな子供を抱えてやってきた。子供の手には裂けた帽子があり、泣き顔のまま周囲を見ている。母親が言った。「あの、すみません。あの、どうしてもあの子を——」
母親は傘を開く指が震えていた。子供は恐怖で硬直している。カイは瞬時に状況を把握する。あの子を一刻も早く濡らさない場所へ連れて行きたい。傘を閉じたまま抱えれば物理的には雨を避けられるかもしれない。閉じた傘に頼れば、彼の記憶が浸食される可能性はある。それでも他人を助けるために記憶を失うべきなのか——心の中で天秤が揺れた。
「自分で開いて」とカイは言った。言葉は短く、厳しかった。母親は顔を上げるが、指がどうしても動かない。子供は震えている。カイの手が襟に触れ、小声で付け加えた。「開けないと、傘は効かない。俺が代わりに開けたら、効かない。閉じたままなら、——俺の記憶が濡れて消える。俺はそれを選べない」
母親の目が切羽詰まった。周囲の空気が一瞬だけ冷たくなった。彼女はゆっくりと、ぎこちなく留め金を外す。指先が震え、子供が力なく笑おうとする。布が開くと、またあの