異世界転生雨傘職人の王都魔導師 第13話「第12章」
柱にぶら下がった古いランタンの油が揺れて、夜明け前の市場はまだ眠りの縁にあった。カイは木の台に腰をかけ、濡れた布で仕上げた傘の撥水を確かめるように掌で叩いた。やりたいのはただ一つだ。開いた傘を持つ者たちに、それぞれの「一粒」を守らせること。閉じた傘には頼らない。自分の記憶を守ること。守るのはここに寝起きする露天の人々と、昨夜彼の店に駆け込んできた子供たちだ。
柱にぶら下がった古いランタンの油が揺れて、夜明け前の市場はまだ眠りの縁にあった。カイは木の台に腰をかけ、濡れた布で仕上げた傘の撥水を確かめるように掌で叩いた。やりたいのはただ一つだ。開いた傘を持つ者たちに、それぞれの「一粒」を守らせること。閉じた傘には頼らない。自分の記憶を守ること。守るのはここに寝起きする露天の人々と、昨夜彼の店に駆け込んできた子供たちだ。
「カイ、そろそろ人が来るって噂よ」アーシャが腰にかけた布箱から温かいスープを差し出しながら言った。彼女の顔には眠気と緊張が混じっている。市場の主だった者たちが、今朝の動きを話し合っていた。リオンは杖を握りしめ、修理した傘を箱に並べ直している。子供たちは毛布の中で震えながらも、カイの視線を求めていた。彼らは最初に彼に助けを求めた人たちだ。無力ではいられない。
「開くのは自分で、だ」カイは低く言った。「誰かが代わりに開けても、守れない。閉じた傘に頼ったら何が起きるか知っているだろう」
「知ってるわよ。ヤン長老の話じゃ、閉じた傘の呪いのようなものって」アーシャが言葉を濁す。長老の話はいつも部分的で、全てをはっきりさせない。しかしここにいる全員が知っている。カイの能力は直した傘だけを有効にし、持ち主が自ら開いたときに一粒の「恐れ」を跳ね返す短い安全域を作る。閉じた傘に頼ることは、その代償としてカイの記憶の一部が濡れて消えることを意味する。カイ自身が誰よりもそれを恐れていた。
遠くで馬蹄の音が硬くなった。評議会の部隊だ。黒い制服に白い徽章。人工雨を撒く装置を背にした兵士たちが列を整え、歩みを進めて来る。彼らの先端には小さな機械が吊り下がり、空気を切る音とともに薄い水蒸気が立ち上る。市場全体がざわついた。露店の帆は束ねられ、商品は箱に押し込まれる。カイは立ち上がり、店の前に並んだ傘を見渡した。
「できるだけ多くの傘を開けて。自分の傘を、自分で開いて」カイは叫んだ。声は震えないように努めた。リオンがすばやく周囲を駆け回り、目の前の人に傘を手渡す。アーシャは自分の帆布を引き上げ、客たちに大声で呼びかける。長老ヤンは杖をついて中央に立ち、手のひらで合図を送る。合図があれば、合意のもとで誰がいつ傘を開くかを決める。昨夜から築き上げてきたルールが、今ここで試される。
評議会の兵士が近づくにつれ、空に薄黒い斑点が現れた。それはまるで逆さまに開いた蓮の花のようだった。だがそれを見上げる暇はなかった。兵士の一人が手元の機械を操作し、鋭い音とともに小さな雨滴が弾けた。最初の一粒は、一軒の屋台の天幕に当たり、思わず露店主が叫んだ。雨滴は単なる水ではない。落ちてくるたびに、その中に触れた者の怯えを増幅させ、市場の人々を動けなくする。足がすくみ、声が出ない。みるみる間に混乱が広がる。
カイは走った。修理した傘を抱え、誰がどの傘を持っているかを確認しながら動く。開いた傘の下では、空気がきつく引き締まるように静かだった。そこは一瞬の安息。だが安全域は短く、一つの傘で守れる「一粒」は限られている。兵士たちは計算ずくで群れを分け、落とす雨粒をずらしてくる。ある場所では子供の側まで届きそうになった。「ミナ、ここを開けて!」カイは子供の小さな傘を差し出した。ミナは震えながらも手を伸ばし、傘を開いた。傘の縁から薄い光の輪が広がり、一粒の雨が弾かれて消えた。ほっとする間もなく、別の列で悲鳴が上がった。
「向こうの通りを塞ぐつもりだ!」リオンが叫ぶ。兵士たちは隊列を分散させ、市場の奥で圧迫を試みていた。屋台の一つが壊れ、荷物が散乱する。人々が引き裂かれそうにバラバラになる。カイは身体が引っ張られるような焦りを感じた。できることは限られている。直した傘の数にも、持ち主がその瞬間に自分で開く信頼にも限界がある。誰かが倒れたら、その傘は機能しない。
一番奥の路地で、老人のように見えた露店主が兵士に押されて地面に倒れているのが見えた。その人の傍らに置かれた黒い傘が、知らぬ間に地面に落ちていた。黒傘には小さな穴があいている。あの穴──カイは目を見開いた。あの傘が序章の夜に彼の店に置かれていた黒い傘だったのかもしれないという気配が、胸に冷たく差し込む。持ち主は動かない。兵士が近づく。一粒の雨が、老人の顔をかすめそうになる。
「だめだ!あの傘を開けられるのは、本人だけだ!」アーシャの声が届く。
カイは走り出した。理性が後から追いつく。規則は破ってはいけない。閉じた傘に頼れば記憶が濡れて消える。それでも、老人の顔はかつて自分が助けた誰かのように見えた。子供たちの未来が、そこに掛かっている。カイの手が黒傘に触れる。黒い布地は濡れて冷たい。体の奥で何かが引き裂かれるような音がした。
「やめろ!」リオンが叫んだ。だがその叫びより先に、カイは傘を開いた。規則に反する行為だ。開いた傘は黒い光をはらんで震え、空気が凍りつく。短い安全域が生まれ、老人とその周囲にいる四人の露店客が一粒の雨から守られた。雨粒は傘の周縁で砕かれ、粉になって消えた。だが同時に、カイの頭の中で何かが溶け始めた。記憶が水を吸うように、音のない雨のように薄れていく。
最初は断片だった。どこかにあったはずの母の顔の輪郭が、掌にすべすべと滑る石のように感じられなくなった。子供時代の路地で鳴らした自転車の鈴の音が、遠くの音楽に変わる。カイは必死に手繰り寄せようとした。だが思い出すべき名前が、糸の先のように手元で切れていく。痛みではない。空洞の感覚。胸が切り裂かれるように熱くなり、同時に冷たくなった。
「カイ!」アーシャが駆け寄る。ミナが彼の腕にしがみつく。周囲の人々の顔は彼を心配そうに覗き込む。カイはかすれた声で言った。「すまない……」言葉は自分でも驚くほど軽かった。彼は自分の口から出た謝罪の意味を、どうしてもつかめなかった。だが、謝る気持ちだけは確かに残っていた。
戦いは続いた。兵士たちは装置の稼働を強め、雨の粒が市場の斜めに当たりだした。カイはふらつきながらも立ち上がり、他の傘が必要な場所へ走った。傘を手渡す。持ち主に「自分で」開くよう促す。リオンが叫ぶ。「カイ、無理するな!記憶が……」
だがカイはもう、何を失ったのかを正確に言えなかった。自分の店の棚に並ぶ小さな道具の名前を一つ忘れてしまっている。修理の手順の一つが、どういう順番だったかが曖昧だ。だが道具を握れば手が動く。身体の習熟は残っている。彼は職人だったのだ。
戦いは長かった。複数の傘が開かれ、多くの人が短い安全域の中で守られた。兵士たちは機械を調整し、試行錯誤で策略を変えてきたが、市場側の連携も粘り強かった。誰がいつ傘を開くかを決める合図が連携を生み、傘の光が雨を砕く。最終的に、兵士たちは補給の遅れと、市場住民のしつこい抵抗に押されて撤退を始めた。歓声が上がる。人々は抱き合い、泣き笑いをする。屋台の隙間から潮の匂いと焼けたパンの香りが混ざって、空気が平和を取り戻す。
だがカイは、その歓声の響きの中でひどく小さく思えた。胸の奥の空白が勝利の味を薄める。リオンが傍らに来て、額から汗を拭き取りながら言った。「カイ、どうした?顔色が悪いよ」
カイは、リオンの