蒼天の雛竜と星喰いの王国

蒼天の雛竜と星喰いの王国 第12話「第十一章」

地下は冷たかった。空気は鉄と潮の混じった匂いを帯び、どこか遠くでいつまでも響いているはずの鐘の余韻は、断片としてばらばらに浮遊していた。カイは薄暗がりの中、革の工具袋を胸につけたまま低い灯りを頼りに歩いた。指先には黒い粉が付着しており、触れたものごとに微かな染みを残す。粉は、ここにあるものの生息証――彼らが追い来たものの匂いだった。

地下は冷たかった。空気は鉄と潮の混じった匂いを帯び、どこか遠くでいつまでも響いているはずの鐘の余韻は、断片としてばらばらに浮遊していた。カイは薄暗がりの中、革の工具袋を胸につけたまま低い灯りを頼りに歩いた。指先には黒い粉が付着しており、触れたものごとに微かな染みを残す。粉は、ここにあるものの生息証――彼らが追い来たものの匂いだった。

「ここだ」ミレアが囁く。彼女の声は一種の緊張で細く、だが確かに数字を含んでいた。青白い蝋燭が石床に淡い円を落とし、その縁に古びた共鳴輪がうずくまっている。輪は三重に重なり、外周の銀の歯が蜘蛛の脚のように細く伸びていた。歯と軸の合わせ目には、黒い鱗のような塊がこびりつき、そこから低い断続音が漏れていた。音は言葉になろうとして中断されるような、寂れた歌の断片だった。

ノアはリュネの腕の中で小さく震えていた。幼竜の鼻先がほんのわずかに空気を掬い、周囲の記憶の欠片を吸い寄せる。ノアは吸ったものを吐き出すときだけ、それを短い音のかけらとして返す。だが共鳴は、誰かが心を差し出さなければ働かなかった。ここで必要なのは多量の声と、それを繋ぐための時間だ。

カイは装置を見上げ、その構造を頭の中で分解した。どの歯を噛ませば回転を逆に誘導できるか。どの張力点に力を伝えれば外殻が慣性を乗り越えるか。標準の竜具では届かない外周まで、彼の臨時の「腕」しか届かない。器具は不恰好で、先端のフックと小さな回転歯は試作のままだ。だが理屈は通る。道具師としての目は、あり合わせの部品で奇跡を作ることに慣れていた。

「数字を出すわ」ミレアが言う。彼女は懐から古い観測板を取り出し、指で欠けた数列を追った。そこに書かれた周期と位相が、装置の共鳴と奇妙に重なり合っている。彼女の声は震えていたが、計算は冷たく正確だ。「逆転に必要な摩擦係数と回転の遅延はこれで……三十七秒。誤差はプラスマイナス八秒。カイ、あなたが外殻に噛ませるタイミングはその間しかない」

三人の計画は単純にして残酷だった。ミレアが塔から改ざん前の観測記録と、失われた歌や名前の断片を送出し群衆の記憶を刺激する。カイは補助具で外殻を逆回転させ、装置の起動を遅らせる。リュネとノアは奪われた声を人々へ返す――ただしノアの共鳴は、リュネの本心と、取り戻す相手の真摯さが揃わなければ働かない。ノア一体で大量の声を同時に戻すことはできない。信頼の瞬間を一つずつ刻むことが必要だった。

「分かった」カイは短く言い、腰のベルトを締め直した。工具の重みが彼の背骨を押す。いつもなら「乗れない」という劣等感が胸を締めつけたはずだ。だが今のカイの心は静かだった。器具師として、誰よりも近くで機械を眺め、ここでしか見えない揺らぎを読み取る。乗れないことは欠陥ではなく視点の違いだと、自分に言い訳をする代わりに、誇りに変えた。

彼が補助具を外周の歯に噛ませると、金具が軋んだ。古い魔力の残滓が指先にまとわりつき、皮膚を軽く刺す。回転の軸からは低い唸りが来る――まるで眠る獣の呼吸のようだった。黒い竜影が装置の中心でうごめいている。形はあるようで決して定まらず、人々の忘却した言葉や歌が羽根のように張っては縮み、名前の断片が繋ぎ合わされてはほどける。目を凝らすと、ヴァルドの妹の笑い声に似た旋律が、その中で輪郭を作っていた。

「頼む」リュネが小さく言った。彼女の指先はノアの額にそっと触れ、本当の恐れと、本当の守りたいものを吐露するようにして言葉を紡いだ。リュネは《予兆編み》を封印に近いかたちで使った。能力は波のように細い糸を編み、数十秒後の最も可能性の高い流れを映す。だが一度視れば、視た記憶の代価として彼女の過去の断片が一つずつ薄れていく。今回、彼女はそれを覚悟した。必要な時間の幅、群衆の心理変動、装置の共鳴の位相――それらを糸に編み込む。糸は指の間で銀の光を放ち、短い未来を示した。

視えた未来は、彼女に残された小さな過去の一片を連れていった。前世の仕事中、観測台の端で飲んだ缶入りの温かいコーヒーの匂い、そこに貼ってあった小さなラベルの文字――そうした些細なものが、リュネの胸からするりと抜け落ちるのを彼女は感じた。痛みは、胸にぽっかりとした空洞を残すものだった。だが代価は今、命を繋ぐために払われねばならない。彼女は目を閉じ、ノアの方へ全ての信頼を注いだ。

「行くよ」カイの声が低く響き、彼は両足を踏ん張って力を込めた。ハーネスが肩に食い込み、金具が地の震えを伝える。歯車が微かに揺れ、装置の内側から一本の高い笛のような共鳴が立ち上がった。それは逆回転を誘い出した合図でもある。ミレアは塔の回線を開き、書き残された歌詞の一節、地元の古い商店の名、子どもの呼び名を流し始める。彼女の声はモノクロームの空に色を塗る筆のように、おぼつかないが確実に届いた。

地下で、音が戻る瞬間があった。まるで空気の色が一瞬だけ濃くなったように、人々の記憶が小さな光を放ってはじける。だがそれは装置の喰らう餌でもあった。放たれた記憶が装置に吸い寄せられれば逆効果だ――だからタイミングを合わせる必要があった。逆転が成功すれば、装置は供給元を断たれ形を保てずに崩れる。だがその代わりに、逆回転の反動は装置の外殻と噛み合った補助具を壊すだろう。カイはそれを承知の上で踏んでいる。

黒い竜影が声を紡ぎ、囁く。声は甘く、傷を癒すように、失われた人の呼び名を模してカイたちの胸の裂け目を撫でた。だがその囁きは幻だった。ヴァルドが、装置の縁に立っている。鎧は擦り切れ、顔には泥と血が混ざっている。彼は片手で胸の内の鱗をぎゅっと握っており、その目は震えていた。影は妹の声をまね、彼を誘う。ヴァルドはうなるように一言だけ出した。

「やめろ」

その短い命令は、彼自身への願いでもあった。影は彼を撫で、さらに甘くその幻を差し出す。カイはそのとき怒りを感じた。単純な怒りではなく、誰かの痛みを利用して正義を履き違えることへの憤りだ。彼は低く唾を吐くように言った。

「己を利用するな」

ヴァルドは鱗を、地面に叩きつけた。小さな破片が弾け、ひび割れた音とともに彼の顔が歪んだ。かすかな涙が頬を伝う。影のいくらかが縮まり、空気が鋭く引き戻されるように感じた。そこにできた余白に、リュネの声が入った。

彼女は、本当に恐れているものを、恐れずに言った。母の顔は戻らない痛み、その代わりに今ここにいる人々の名前を取り戻すと誓う言葉。リュネの言葉の正直さが、ノアの胸を震わせる。幼竜は鼻を鳴らし、振幅の浅い鳴き声を放った。その音が、地下の薄い膜に振幅を作り、記憶の羽根を一つずつ剥がしていく。

音が巻き戻る。カイは歯車に伝わる振動を感じ、腕に全力を込めた。金具が悲鳴を上げ、接続部に亀裂が走る。血が手首からぽたりと落ちる。痛みが激しく、思考が焦点を失っていく。だが歯車は回り、慣性に逆らって軸が滑り始める。ミレアが空中の小さな魔力網に観測板をかざし、塔からの生の声を一撃で地下に流し込む。小さな放送が、街の一角で朽ちかけた歌を再生させ、人々の喉元で何かがずっと眠っていたと叫ぶ。

記憶の破片が空中で散り、戻るべき場所を探して飛び去る。老商人が店の看板を指でな