蒼天の雛竜と星喰いの王国 第10話「第九章」
ヴァルドはいつものように馬の鞍に腰を据え、隊列の先頭で空を睨んでいた。鋼で固めた胸板の下で、心臓は規則正しく打っている。だが今は、その鼓動がいつもよりも重く、胸の骨に当たるように感じられた。犬歯のように並んだ城の旗が風を受けてなびくはずのところ、風はどこかを避けるように薄く、音だけが手の中から滑り落ちていく。
ヴァルドはいつものように馬の鞍に腰を据え、隊列の先頭で空を睨んでいた。鋼で固めた胸板の下で、心臓は規則正しく打っている。だが今は、その鼓動がいつもよりも重く、胸の骨に当たるように感じられた。犬歯のように並んだ城の旗が風を受けてなびくはずのところ、風はどこかを避けるように薄く、音だけが手の中から滑り落ちていく。
鎖に繋がれた灰色の塊が、彼の視界の中心にいる。幼竜ノア。体毛の端が月明かりに銀を散らし、左右の翼は不揃いに折りたたまれている。取り囲む兵たちの顔は固い。王の命令は厳しいものだった。異端は見せしめにされねばならない。国の不安を鎮めるため、灰翼の象徴はこの広場で消される。
だが空は、先に進まなかった。最初に消えたのは、誰かのかすかな咳。次いで遠くの屋根裏で鳴っていた風鈴の余韻が、指先で弾かれたように薄くなった。兵士が命じ声を張り上げても、拾うべき音がそこになく、言葉は宙を切って溶ける。名札の文字が、金属の冷たさを保ったまま霧に溶けていくようだった。色も同じ速度で抜け落ちてゆき、旗の赤が淡い灰へと溶けていく。
「ここで終わらせる」——胸の奥にある言葉が、ヴァルドを突き動かしていた。妹リーアを焼き尽くした空のこと、燃え残った布の匂い、妹が最後に歌った小さな詩句。彼はその痛みを秤にかけ、世界を秤の片側へ傾けたつもりでいた。だが今、目の前で起きていることは、彼のただひとつの答えを揺るがしていた。
ノアは首をすくめ、何か小さな声を出した。最初は誰にも届かない弱い音だった。だが次の瞬間、その声は広場を満たし始めた。糸のように伸びる低い響き。人の胸の奥にひそんでいた一節、封じられていた名前のかけらが、まるで縫い合わされるように呼び戻されていく。
「エリス……トハル……」——名が、断片が、戻るたびに人々の背筋が伸びる。自分の名を失いかけていた兵士が、ぽつりと母の名を思い出し、目を潤ませる。近くにいた老女の肩が震え、小さな手で幼竜の足元に触れる。戻った声は完全ではない。断片が紡がれ、欠けた絵が繋がっていくような揺らぎがある。しかし、その揺らぎは確かに「人」であることを取り戻させる。
ヴァルドの胸に、複雑な感覚が押し寄せた。怒りと安堵が同じ器に注がれるような痛み。ノアの声は妹の面影をも浮かべさせるが、同時に他者の名をも返す。理屈では割り切れない現象が、彼の徴兵された信念を裂いていく。自分は妹のために正義を貫いてきたのではないか。いや、もしかすると守ろうとしていたのは自分の怒りのかけらだったのではないか——そんな考えが、泥のように胸の底で重く沈んだ。
そのとき、ヴァルドは左腕に鋭い痛みを感じた。昨日の捕縛の際、ノアの体から剥がれ落ちた黒い鱗が、刃のように食い込んでいたのだ。赤い点が広がり、掌に熱が走る。無意識に鱗を握りしめると、掌の中でそれは微かに震えた。表面は冷たく、しかし触れると内部から低い囁きが立ち上るような違和感がある。黒い粉が指の隙間から落ちる。鱗は不自然に温かく、指先に小さな振動を残した。
「ヴァルド」——耳元で、誰かが呼んだ気がした。幻聴かもしれない。だが次の瞬間、少年の頃にだけ聞いた妹の声が、確かな柔らかさで彼の耳に流れ込んだ。屋根裏で二人きりで笑った声。寝巻の袖に鼻を埋めた夜。記憶は突然、鮮やかに切り取られて胸に押し寄せる。鱗から零れる囁きが、甘く、執拗に命じる。「私を見つけて。排除すれば楽になる」——言葉は甘美で危険だった。
同時に広場では、小さな奇跡のような景色が広がった。ノアの共鳴が次々と断片を戻し、いくつもの顔が震え、抱き合う者が現れる。命令の絶対性が、人の個々の声に押し潰されていくのが見えた。兵士は銃床を落とし、王の使者は震えながら報告書を握り直す。民の視線が王権へ向く。威儀は、確実に揺らいでいた。
だがリュネの姿は、広場の端に浮かんでいた。灰色のコートが夜に馴染む中、彼女だけが小さな光のように見えた。吐息が白く夜に溶け、彼女の手は胸に当てられている。その指先は震え、顔の輪郭が少しずつ薄れていった。リュネは叫ばない。叫んでも、この場の音は持たない。彼女のやっていることは、誰にも当てはまる言葉がない——音と色と名を編むという行為。だが編むたびに、一つずつ自分の中の何かが抜け落ちていく。目に見えるのは、彼女の存在が徐々に「絵」になっていくことだった。肌の影が薄くなり、口元の皺が消える。まるで誰かが彼女の過去の一枚ずつを剥がしていくかのようだ。
ヴァルドはその光景を見て、胸が痛んだ。妹の声は自分の懐に甘く囁き続ける。だがそこにあってはいけないもう一つの現実が、彼の視線を捕らえる。リュネの払う代価。彼女が誰かを救うたびに、自分の一部分を差し出していく。もしも今、彼女のすべてを返してあげる代わりに、それを奪う責任を問えるのなら——しかし命令は命令である。城の決定は重い。だが目の前の光景は、簡単な執行を許さなかった。
王の使者が短く角笛を鳴らし、儀式の始まりを告げようとした。だが鳴らされた音は途中で切れ、角笛はただの筒になった。広場の空気が、微かな震えを伴って止まる。その瞬間、老女が一歩前に出て、ノアの膝元に膝をついた。顔に泥と涙の跡があり、手は震えている。だが彼女は幼竜の足先に触れ、「ありがとう」とだけ言った。その言葉はか細かったが、ノアはそれに応えるように小さく身を震わせた。戻った声がまた一つ、老女の胸に光を灯す。
「止めろ」——誰かが叫んだわけではない。だが空気が変わった。群衆は散発的に動き出し、王の使者は顔色を変える。民の目が、王の決定を疑い始めたのだ。ヴァルドは馬上で指を鳴らした。秩序を取り戻すための命令。しかしその声ですら、かつてほどの権威を持っていないことを彼は感じた。
混乱のさなか、ヴァルドの手は無意識に鱗をもっと確かめるように動いた。表面の凹凸、鱗眼のような模様、小さな亀裂に詰まった黒い粉。軍の道具や、古い遺跡で見かけた文様の断片と、どこか似ている気がした。記録係に伝えられた古文書の挿絵、城の石室の隅に掘られていた三つの渦文──それらと繋がるような、構造の痕跡。思考は断片的だが、手の中の冷たさが彼に何かを示している。これは単なる生体の殻ではない。何かの「器」の一部であり、何かを媒介するために作られたものだと。
ヴァルドは短く息をつき、決断した。命令をただちに実行するのは、今は得策ではない。憎悪だけで判断すれば、より大きな代償を生むかもしれない。鱗を廃棄すれば心は安らぐかもしれないが、これが何かの鍵ならば、それを失うことは手掛かりを失うことでもある。妹の幻影が胸を締めつける。だが同時に、彼は知りたかった。何が、この国の空を食らっているのかを。
「ノアは直ちに城に収容せよ。厳重監視のこと。だがここでの処刑は当座見合わせる」ヴァルドは冷静に命じた。言葉は杓子定規に届き、兵は命令に従う。だが彼の心は揺れている。胸に抱いた鱗を懐の内側に押し込み、冷たい金属が布を噛む感覚を確かめた。誰にも見せまいとする所作だった。拾った物は、これから先の問いの鍵になるかもしれない。
広場の人々は散り始めた。帰路につく者、抱き合って泣く者、ただ立ち尽くす者。リュネはゆっ