灰冠の国造り商談録 第8話「第七章」
朝靄が谷を飾っていた。薄い灰色の膜の向こうから、サジャはいつもの狭い道を駆け抜けてきた。背負った袋は重く、端からは布箱に詰められた保存食の角が少しだけ覗いている。彼女の胸は攣るように痛んだ。グラドールの国境で交わした取り決めと、ここで回すべき配分表が頭の中で重なり、細い糸のように手繰るたびに指先が冷たくなる。
朝靄が谷を飾っていた。薄い灰色の膜の向こうから、サジャはいつもの狭い道を駆け抜けてきた。背負った袋は重く、端からは布箱に詰められた保存食の角が少しだけ覗いている。彼女の胸は攣るように痛んだ。グラドールの国境で交わした取り決めと、ここで回すべき配分表が頭の中で重なり、細い糸のように手繰るたびに指先が冷たくなる。
「検問さえ越えれば、半分は終わる」
自分にそう言い聞かせる。グラドールの検問は厳しい。道具や穀物には必ず証明を付けろと、彼女の雇い主は何度も言っていた。けれどその証明書の多くは、徴税官へ回る手数料や架空の延滞金のために書かれている。サジャ自身は、故郷のために働いていたつもりだった。だが、いつの間にか輸送の輪が徴税と私物化へ繋がっていたことを知ったとき、彼女の胸に残ったのはやはり罪悪と――役に立ちたいという、もはや隠しきれない欲求だった。
検問には若い兵が二人、銃の代わりに長い槍を立てかけて座っている。彼らの顔は無表情で、サジャの旅装を一瞥しただけで目を細める。「異邦か?」と訊かれ、サジャは旧王国の商人だと答えた。彼女の口調は緩く、訛りが残るグラドール語を意図的に混ぜる。敵国出身だと気づかれれば荷物を差し押さえられる。それは村にとって死を意味した。
「書類を見せろ」
一人が言う。サジャは袋の中から、都市同盟と交わした小さな白い紙を差し出した。白紙に押されたハンコは鮮やかで、そこに記された短い文言は――彼女が運ぶ保存食は、災害救援品として都市同盟の緊急備蓄から割り当てられたものだ、という体裁を取っている。真偽は兵たちには判りにくい。だが彼らは身分証を探すのが面倒だった。太陽が低いせいで彼らの影が長く伸び、石畳を濃く切り割る。サジャは肩の力を抜き、笑みを作って同盟の書類を差し出す。兵は紙をめくると、隣に目くばせをし、やがて首を振った。
「通れ」
その瞬間、サジャの中の重い石が少し浮いたような気がした。だが安堵は短い。検問の最後の小屋で、彼女は別の男と出会った。背の高い、油の光を帯びた黒い馬車から降りた男の目は、南国の商人ハーディだとすぐに分かった。ハーディは分厚い手で包みを確かめ、サジャの書類に指を這わせると、顔色を一瞬変えた。
「これは――ヴァルグの印だ」
その言葉は短く、しかし周囲の空気を別の温度へ変えた。ヴァルグの名を聞いた瞬間、サジャの背中に不意の寒気が走る。徴税官の印など見たことがある者はそう多くない。ハーディは普段は強面だが、しばしば数字の絡むものには敏感だった。彼の手が震えたのを、サジャは見逃さなかった。
「何か変だ」
サジャは低めの声で言った。「その書類、見せてくれ」
ハーディは少し迷い、だがやがて封緘された皺の深い封筒をサジャに差し出した。中の紙は薄く、だがそこに書かれた短い一行がサジャの心臓を再び縮ませた。徴税金の優先徴収と、条件に合致しない領地への強制移管――それが書かれている。期限は三十日、条件は厳格だった。ハーディは唇を噛み、視線をサジャの顔に戻した。
「お前たち、これをここで売りさばこうとしているのか」
「いや、我々は修理資材との先払いで交換だ。──その交渉のために来た」
サジャは嘘と真実の中を渡った。ハーディはしばらく睨みつけていたが、やがて肩をすくめた。数字が合えば、国籍は外見ほどの障害ではない。彼は大きな掌でサジャの肩を叩き、にやりと笑った。
「ならば条件を見せろ。だがこの土地の連中が、どれだけ信用できるかは別だ」
そう言いながらも、ハーディの目は一つの可能性を見た。商人の目はいつだって利益を嗅ぎ分ける。サジャは胸の奥で小さく舌打ちをし、約束した配分表を取り出した。そこには、食料の配給優先順位、部品の納入スケジュール、鉱石の段階的な販売計画が平仄を取って並んでいる。だがそれだけでは不十分だ。グラドールの徴税官が介入してくれば、すべてが水泡に帰す。
サジャはここで一つの賭けに出た。自分がこの荷の「象徴的な運び屋」であることを示す代わりに、ハーディに条件を書面で保証してもらう。都市同盟からの前払いが部品の値段と一致したこと。鉱石は段階的に買い戻されること。その買戻しは、町の貯蔵と修理が成功した場合に限る――と。
「保証は?」ハーディは問う。
「あなたの名で、彼らに約束を出す。正規の商会の印で。そうすれば我々は卸し先を確保できる。買戻しは私たちの信用の証明として、鉱石の一部を押さえる形で行う」
サジャは冷静に提案した。ハーディはやがて、濃い眉を緩めた。彼もまた冷たい論理で動く。条件が筋に合っていれば、東の山からわざわざ運んだ部品を無にする手はない。彼は太い指で紙切れに朱を入れ、封を結んだ。その印を見た瞬間、サジャの胸にあったわだかまりが、少しだけほぐれた。
だがそれでも、ハーディの目は何かを告げる。紙の端に、小さな追記事項があった。その文字は薄く、だがそこに「徴税官の権限下でこの取引は無効とされる場合がある」と記されている。サジャはその行を指で追い、顔を収めた。彼女はこの取引が、ヴァルグの目に留まることを恐れていた。だからこそ、彼女は次の動きを逆手に取ることにした。
町には既に、屋台が並ぶ小さな広場が確保されていた。レイはそこで配分の最終確認をするはずだ。彼は狂おしいほどに帳簿に頼る男だが、同時に三つの契約を同時に並べられないという欠点があった。今日の交換は、鉱石の前払い(町側)、修理部品の前払い(都市同盟→ハーディ)、保存食の低利配給(町民向け)が同時に交わる必要がある。レイが同時に光る帳簿を三本伸ばせないことは、彼も知っている。
そこでサジャは自ら役割を受け取った。ハーディとの条件交渉と、検問を通す実務。ミナには部品の技術チェックと職人のサインを頼んだ。レイは売買の総合条件と、配分表の最終承認を一件ずつ読む――その計画は、彼の《勘定眼》の制約を逆に利用したものだった。サジャは胸の内で、前世の自分が交渉で培った細かい駆け引きを思い出す。相手の傾向を読む。疑いを向けさせ、安心させておいて確かな保証を取る。その技術は、彼女がただの運び屋でなく交渉人へと変わるための武器だった。
広場に着くと、既に人々の群れが集まっていた。床に敷かれた古布、木箱、偶に笑う子ども。灰色の町並みに、いくつかの色が差している。ハーディの赤い旗、都市同盟の職人が巻いた青い布、そしてリュネの土臭い灰色。三色が互いに釣り合わないまま混ざり合い、空気の緊張を生む。サジャは目を細め、深呼吸をした。
「みんな、聞いてくれ」
レイの声が広場に振動を走らせる。彼は《勘定眼》で表示される光の文字を一つずつ、村の古い掲示板と照らし合わせながら説明した。食料は優先的に子どもと病人へ。部品は水車の修理にまず回す。鉱石は市場で段階的に売るが、最初の部分は都市同盟の前払いで据え置き、町の債務返済へ充てる。数字を一つずつ示していく。だが、数字だけでは住民の不安は払拭できない。目の前の母親が子どもの手を強く握る。老人の目は冷たい。
そのとき、サジャは自分の番だと分かった。彼女は箱の蓋を開け、小さな袋を取り出した。中には白い粉であったり、硬く焼いたパンが詰まっている。匂いが広場に広がる。子