灯を継ぐ聖女は、痛みの名前を知っている

灯を継ぐ聖女は、痛みの名前を知っている 第3話「第二章」

訓練場は朝の冷気を裂くように、木剣の擦れる音と甲冑の金属音が重なっていた。見物席には市井の者たちが詰めかけ、候補者たちの技量を確かめる目でざわめいている。豪快な詠唱と白光が湧き上がるたびに声援が上がり、聖堂の威信を確かめる日常がここにある。

訓練場は朝の冷気を裂くように、木剣の擦れる音と甲冑の金属音が重なっていた。見物席には市井の者たちが詰めかけ、候補者たちの技量を確かめる目でざわめいている。豪快な詠唱と白光が湧き上がるたびに声援が上がり、聖堂の威信を確かめる日常がここにある。

リゼットは端の陰に立ち、いつものように掌の中の金色の糸を確かめていた。細い光の線はまるで生き物のように震え、彼女はその震えから誰かの小さな願いを探す癖がついている。前世の夜勤で覚えた、息の緩急を読むやり方と変わらない。急がず待つこと。それが彼女のやり方だった。

広場の一角で、騎士見習いユアンが剣を構えている。無口で堅牢、だが瞳に消えない炎を宿す若者だ。ここの観客は彼に期待を寄せているが、数日前の魔獣討伐失敗の噂が彼を覆っていた。期待と不安は観客の視線となって、彼の肩に重くのしかかる。

訓練の合図とともに、模擬魔獣が放たれ、見習いたちは次々と対処に向かう。だがそのとき、外縁から小さな悲鳴がして幼子が走り出した。驚いた拍子に列へ転げ込み、木剣と群衆に押されそうになる。子の顔は真っ赤で、ぎゅうっと目を閉じていた。殴り合いの稽古でもないただの見世物の迫力が、小さな胸を押し潰さんとする。

ユアンは条件反射のように駆け出した。剣を投げ、群衆を押し分け、子を抱きとめる。その所作は誰もが称賛すべき素早さだが、勢いがありすぎて隣の席の老人を押し倒した。椅子が倒れ、木のきしむ音。老人は腕を打ち、呻く。場内の喧噪が一瞬でざわめきに変わる。

リゼットは金糸の震えを追い、子と母、ユアンの胸の中にある糸をひとつずつ撫でるように読んだ。子はただ「怖くないで眠りたい」とだけ望んでいる。母は「守ってくれ」と思うが、その「守り方」を指定してはいない。ユアンの糸は焦燥と責任、そして痛切な後悔で編まれていた。守るためなら何でもする、という強さが、人の選択を踏み越えてしまうことがある──彼女はそれを見抜いた。

「ユアンさん、落ち着いて」

人ごみの喧騒を裂かずに届く声で、リゼットは肩に触れた。彼の体がぴくりと震え、抱かれた子の小さな手が甲冑の裾をぎゅっと掴む。ユアンは振り返り、冷たい瞳でリゼットを見た。言葉に詰まりながらも、彼は自分の行為を糾弾される覚悟でいたのかもしれない。

「ここで何をしている。怪我人は――」

ユアンの声が途切れる。リゼットは彼の胸のあたりの糸を優しく引き、呼吸の乱れを探る。彼の肩はまだ震え、指先は冷たい。前世で学んだのは、痛みを無理に消すのではなく、相手が自分で選べる空白を作ることだ。急ぎの注射の代わりに、まずは呼吸の合図を差し出す。

「吸って、四つ。吐いて、三つ。私と一緒に、壁の向こうの空を数えて」

ユアンはぎこちなく頷き、ゆっくりと息を整える。彼の呼吸が落ち着くにつれ、肩の力が抜けるのが見える。金糸は彼の恐怖を消すのではなく、自分自身でその恐怖と向き合うための余白を作っている。緊張の波紋はやがて小さく収まった。

「俺は……妹を、助けられなかったんだ」

声が訓練場の空へ消えた。周囲のざわめきも一瞬止まる。ユアンは剣や名誉のためではなく、守りたい者を守れなかった罪悪感を抱えている。守ることが、時には相手の選ぶ権利を奪ってしまう。リゼットはその告白を、彼自身が口にするまで待っていたのだ。

彼女は手を離さずに問いかける。「そのとき、あなたは何を自分で決めたいの?」

問いは単純だが深い。ユアンの目に戸惑いが走り、やがて苦い笑いがこぼれる。

「妹を守れるようになりたい――でも、誰かに『強くあれ』と押し付けられるのは嫌だ。自分で決める時間を奪われるのは、違う」

リゼットは頷き、掌の糸を少し強く弾くと、金色が彼の体に小さな波紋を作った。外の人間には見えない変化だが、ユアンには確かな安堵となって伝わった。涙が一粒、甲冑の縁で揺れた。彼は恥じるどころか、初めて自分の弱さを見せることで軽くなったように見える。

「わかった。君のやり方でやる。君が望むときだけ、俺は手を出す。だが――君を一人にはしない。約束だ」

彼の誓いには守りたいという強さと、支配しないという決意が混じっていた。リゼットはその誠実さを見極めて微かに笑うと、提案を一つ出した。

「じゃあ、最初の訓練は、私と一緒に呼吸を合わせることからにしましょう」

二人は剣を下ろし、互いの呼吸を合わせ始める。場内の雑音が遠ざかるように、彼らだけの小さなリズムが生まれた。照明の色が一瞬赤から琥珀に変わり、また静かに戻る。金属が床に当たる低い音が、彼らだけの合図となる。

訓練が終わり、見物客が散っていく夕暮れの中を二人は歩いた。泥はねする足元、甲冑の擦れる音、誰にも聞かれない会話。ユアンの肩にはまだ影があるが、確かに軽く見える。やがてユアンがぽつりと尋ねた。

「ところで、ノアって誰だ? あの記憶のない少年――君が連れてきたんだろう?」

その問いに、リゼットは少し黙った。言うべきことは短く簡潔であるべきだと思ったからだ。そして、彼女はその朝のことを思い返す。

今朝、聖堂の螺旋階段へ向かう途中、薄く朝霧が残る石段の隅で彼女は声を聞いた。足下から、まるで土の中の水音のように、誰かが囁いている。見れば泥にまみれ、薄汚れた小柄な少年が座り込んでいた。目は焦点を失い、身体の震えが止まらない。首には昔ながらの灰色の布切れ。言葉はほとんど出ず、ただ細い声で「――水が逆に流れている、聞こえる、聞こえる」と繰り返すだけだった。

リゼットは近づき、ポケットのパンを差し出した。少年はそれを黙って受け取り、ぎこちなく口に運んだ。彼の掌に触れた金糸は、そのときに奇妙な反応を示した。まるで地下の灯脈に触れたような低い震えだ。リゼットは瞬時に判断した。記憶を奪われた者に深く触れても、彼の失われた過去を無理に引き出すことはできない。回復のためには彼自身の同意が必要だが、そもそも同意を示せるだけの「自分」が戻っていない。

それでも放っておけなかった。もし彼が光脈の異常を耳にする体質なら、外に出しておくのは危険だ。誰かに狙われる可能性もある。聖堂の外で、記憶のない子が地下の声を聞いている──それは非常にまずい。だから彼女はその場に連れ帰ることにした。食堂の隅で鍋の残りを分け、暖かい布を与え、聖堂の見習いに簡単な観察を頼んだ。少年はほとんど自分の名を知らず、名前を聞かれても戸惑うだけだった。

「名前はあるかい?」

リゼットが重ねて尋ねると、少年は小さな声で「ノー」と漏らした。言葉の響きが短く切れて、でもどこか柔らかかった。彼女は咄嗟にふざけ半分で「ならば、ノアと呼ぶか」と言ってみた。ノアという音は古い歌に出てきそうな、優しい余韻を持っている。少年はその瞬間、顔を少しだけ緩め、口を開いて「ノア」と繰り返した。まるで自分でその音を選んだかのように。

それが彼の名前になった。名づけは彼自身の選択のように見せたかったからだ。彼女は強制せずに、少年が自らその音を受け入れられるよう誘導した。名前を持つことは、小さな自己回復の第一歩になる。彼が名前を口にしたとき、少しだけ目の中に揺らぎが戻った気がした。

だから今、ノアはリゼットの側にいる。