月苗の辺境農園主は、欠けた夜を実らせる 第2話「第1章」
土の匂いで目が覚めた。冷えた土と干し草、それに少しだけ錆の混じる鉄の匂いが、八歳の身体を満たす。目を開けると、低い木の梁が見え、窓の切れ間から夜明けの青が差し込んでいた。肩には粗い麻布が掛かっていて、指先はいつの間にか小さな爪が丸くなっている。
土の匂いで目が覚めた。冷えた土と干し草、それに少しだけ錆の混じる鉄の匂いが、八歳の身体を満たす。目を開けると、低い木の梁が見え、窓の切れ間から夜明けの青が差し込んでいた。肩には粗い麻布が掛かっていて、指先はいつの間にか小さな爪が丸くなっている。
――ここはどこだ。
透真としての記憶が、温室の記録と蚀みの匂いを残したまま、ふと新しい名へ溶けだす。トーマ・ルーセント。没落した辺境の月苗農園の三男。八年の月を数えたばかりの小さな体が、自分の手足をぎこちなく動かす感触があった。
母親がいないらしいことは、戸の外から漏れる足跡と台所の空いた椅子でわかった。父は村の外へ借金の件で立ち回り中だと使いの者が言っていた――という断片も、まだ冷たい頭の片隅へ残る。だが透真として流れこんだのは、もっと重いものだった。植物の「枯れる前の兆候」に関する観察の癖。試料の取り方。土中の塩分の読み方。夜間の温室で見た根だけが腐る奇形株の列。世界が違っても、眼差しの運び方だけは変わらない。
戸を開けると、朝の風が畑から吹き込んだ。外には短い丈の少女が一人、鍬を担いでいた。目が合うと、少女はぱっと口を閉じ、腕をすこし引いた。耳の先が少し尖った、獣人の血の混じった顔つきだ。彼女がこちらへ歩み寄る足取りは確かで、言葉は必要最小限だけを選ぶタイプらしい。
「起きたか。飯は炊けてる。十八の籠は乾かしといた」
「トーマ、だな。八だろう。手伝え」
温度の低い声。彼女の名はミナ・ハース。農園を守るために残っている者の一人で、トーマはその名を覚えていた。ミナはいつも、匂いを嗅ぐように畑を歩き、土の異常を見抜く。透真の身体は知らぬうちに彼女の横へ動き、台所の水汲みを手伝った。
水桶に差した手に、淡い光が映った。夜の月が欠けている晩ではない。空はまだ薄い雲に覆われ、月は見えないはずだ。だが井戸水は淡く、べールのように光っている。ミナがそれを見て、眉間に小さな皺を寄せた。
「今日も光ってるな。月のない夜に、井戸だけ光るのは初めてじゃない」
「そうなんだって。村の人たち、喜んでるよ。神様の水だって」
「神様の水ね」ミナの声に笑いはなく、言葉は控えめに真実を敬遠していた。
透真は、その光を指先で受け止めるように覗き込んだ。微粒子のように光が散っている。温度は変わらない。化学的に言えば、発光物質の混入か、あるいは微生物の発光――だがここはルナークだ。月の欠片が土へ落ちる世界だ。あの光が何か別の現象と繋がる気配を、彼の肌が覚えた。
朝食の間、村の噂が集まってくる。夜も眠れない者が増えたという。子どもが朝方まで跳ね回り、老人は目の下に深い影を作る。理由は皆同じ。畑の月苗が白く硬化して、かつての柔らかい葉の匂いが消え、夜のぬくもりが薄れていくのだと。月苗はこの国の希望であり、作物であり、祈りだった。だが今は、いくつかの畝が粉のように白く、根がガラス細工のように透けている。
食を終えたトーマは畑へ向かった。外へ出れば一面に並んだ畝が目に飛び込む。見開きの一幅画のように、畝は一直線に伸び、そこから伸び上がるのは白い茎と青銀の葉――ではなく、薄い白い殻を纏った月苗の列だった。彼の視線は瞬時に分析へ切り替わる。どの畝のどの列が、どの段階で硬化したか。葉の縁の欠損は均一か、ランダムか。土の色は同じか。根が浅い株ばかりか、深く広がるものか。ミナの鼻先にゆらめく匂いの線が、見えない色で畑の地図へと重なっていく。
「ここだ。西側の三畝だけ、鉄と灰の混じった匂いがする」
ミナは指をさした。彼女の鼻の先に浮かぶのは、文字ではない。透真には、幼い頃に読んだ色鉛筆画のように、灰色と金属光の帯が畝の西端へ溶けるのが見えた気がした。観察と記録の欲求が胸の内で膨らむ。透真は、前世のクセでさっと小さな木片のノートを取り出したいと思った。だがポケットには、別のものがあった――切れ端の黒い半月の形をした紙片。いつの間にか体の中の匂いと同じところに触れている。
「村は、王都へ売れって言う」ミナがぽつりと言った。「借金の分は、来年の収穫で。だがあの硬化じゃ、値段にならない。父さんもそれで焦ってる」
「売るのは……簡単だ」トーマの声は平坦だった。前世の彼なら、効率と再現性を天秤にかけて結論を出していただろう。ここでも同じだ。だが別の何かが胸の奥で反発する。月苗は単なる経済資源ではない。土地と記憶を繋ぐものだと、本で読んだような概念がここにある。
「三日だけ、畑を調べさせてくれ。三日で原因の見立てがつかなければ、そのときは売れ」
トーマが言うと、周囲の視線が強く向けられた。八歳の小僧が現実的提案をすることが、ここでは驚きなのかもしれない。ミナは少し考え、唇を噛んで答えた。
「三日、だな。収穫まで時間はない。勝手なことはさせない。だがもし最後に失敗したら、農園のことは父さんに任せる。売れば借金は消える。分かってるな?」
トーマは頷いた。言葉は冷静だったが、内部では計画が回転し始めている。三日で可能な検査項目。土壌の塩分、排水、導管の有無、周辺の火山性鉱物の存在、微生物の光学活性。やれることは限られる。だが彼は記録の仕方を知っている。数字を並べ、次へ進む。何より、誰にも頼らずに正解を出す癖に慣れすぎていることが、自分の弱点だと、なんとなく感じていた。
「分かってる。貸してくれ。道具は使わせて」
「お前、道具壊すなよ。餓えたら売るって選択肢もあるんだ」
ミナの声は冷たいが、どこか柔らかい。条件付きの信頼。それが、トーマには足りないものだった。
午前の検分で、最初に目を引いたのは井戸だった。村の井戸は中央にあり、風呂場や洗い場を兼ねている。普段は日中でも透明な水が澄み、夜は月光を借りて淡く光ることがある。だが今は昼でも、薄い光を帯びているように見えた。トーマは桶を持ち上げ、井戸の中へ身を乗り出して覗き込む。水は静かに揺れ、底に小さな砂が靜かに積もっている。光は、水そのものの中から発せられているようだった。
「村では、ありがたいって言ってるけど」年老いた女が近くで話した。白髪の縺れた手で、幼い孫の髪を撫でている。「夜のない家に必要だってさ。灯りのある村って、安心だろう」
「安心かもしれない。でも、これがどうして起きてるのかは別だ」トーマは自分でも驚くほど淡々と言った。だが年老いた女の眉がゆがむ。光は慰めにも、脅威にもなる。
午後の陽が傾くころ、トーマは畑の端で小さな物を見つけた。泥に半分埋まった小さな種の袋。紙は古く、角が擦り切れている。中には小さな粒が残されていて、色は灰黒く、微かに銀粉が散っているように見えた。袋の隅に、手書きのメモ。字は確かに母親の躍動的な筆跡に似ていた。トーマは胸の奥がぎゅっとなった。母は夜ごと欠けのない月の絵を一枚ずつ隠している――という断片的な噂が、昨日の晩に耳に入ってきた。その絵が何を意味するかは分からないが、筆跡がここにあるということは、何かしら母が苗のことを深く知っていた証拠かもしれない。
「それは……」ミナがそっと覗き込む。「あんたの母さんの箱の中にあったよ。いつも、夜に取り出しては眺めてたんだって。絵を、欠けのない月の絵をね」
「ど