月蝕校正士と忘れられた神託 第8話「第7章」
路地に細長く差した月光が、石畳に薄い銀の帯を描いていた。セレネの声はまだ広間の残響となって城の隅々にこだましている。人々の話し声が風に混ざり、窓辺のランタンの揺らぎが影を震わせる中、リオネルは自分の左手の爪に触れた。黒い半月はわずかに熱を帯びて、触れた指先に冷たい針のような感覚を残す。
路地に細長く差した月光が、石畳に薄い銀の帯を描いていた。セレネの声はまだ広間の残響となって城の隅々にこだましている。人々の話し声が風に混ざり、窓辺のランタンの揺らぎが影を震わせる中、リオネルは自分の左手の爪に触れた。黒い半月はわずかに熱を帯びて、触れた指先に冷たい針のような感覚を残す。
「父上に、話をさせてくれと言ったら、追手が出た」ミナの低い囁きが耳に届く。彼女は肩に小さな帳面を抱え、表情を強くして前を見据えていた。ユールは刀の鞘に手をかけ、ガルドはいつものように鐘袋を小脇に抱えている。セレネは一歩も引かない。王女の背中には、さっき壇上で見せた確信がまだ残っていた——しかしそれは同時に、城の古い亀裂に触れたために軋む音でもあった。
路地の先で門が閉じる気配がして、羽交い絞めのように空気が止まった。石段の上、暗がりの向こうに一列に並んだ黒い影が現れ、長い杖の先に小さな鈴が光る。その群れの中から一人、年輪を刻んだ顔がゆっくりと姿を現した。神託院長オルディアである。彼の歩みには無駄がなく、まるで古びた文書をめくるように静かに場を支配した。
「リオネル・アステル」彼の声は、寒々とした月光を切り裂くように低く、しかし穏やかだった。「お前が校正を口にするには、あまりにも公な場だった。私はいつも、言葉の重さを秤にかけている。今一度、その理由を聞かせてもらおう」
オルディアは笑みを見せなかった。だが――その顔の皺のひとつひとつが、長年の選択の重さを物語っていた。周囲の衛兵は無言でリオネルの前に立ち塞がる。拘束は粗雑ではない。手首にそっと、柔らかい革の手枷がはめられ、それが人の運命を定める器具であるかのように冷たかった。
「何をするつもりだ、あの人たちに聴く権利は」セレネが前に出た。月明かりが彼女の肩の刺繍を銀に染める。だがオルディアは指を一本上げ、彼女の言葉を遮った。
「王女殿、私が話すのを妨げるな。話すべきことは私と彼との間だ。公にすべき真実は多い。だが、順序を守ることもまた、民を守ることに繋がる」
それは、攻撃でも正当化でもない。むしろ淡々とした弁明だった。オルディアはリオネルの目をじっと見て、座に手を添えるようにしてゆっくりと歩を進めた。城の内側にある古い会議室へと連れて行かれる間、廊下のランタンは影だけを落とし、外の風は月の端を揺らした。石の壁に反響する足音が、二人だけの会話を予告する。
会議室の扉は重く、開かれると中の空気が冷えた。長い机の上には蝋が垂れた古い文書が数枚置かれ、窓の向こうには満ち始めた月が顔を覗かせている。オルディアはリオネルを椅子に促し、自分は窓際に立って外の月を見ていた。月光が差し込み、机上の一冊の写本に細い銀線を引いた。それは、かつての約束が刻まれた写本の写しだろう。かすかな風が窓を撫で、紙鳴りが一度だけ室内に響いた。
「あなたが何を言うか、私にとっては驚くことではない」とオルディアは静かに言った。「だが、それでも語る。私がしてきたことを、一通りは聞いておくべきだろう」
彼は椅子の背に手をかけ、古い手帳を引き寄せた。指先は黄ばんだ頁を辿り、そこにある一つの行を指でなぞる。月明かりの下で、その指先はまるで筆で線を引くかのように見えた。リオネルは手枷の金属の冷たさを感じながら、呼吸を整え、相手の声を待った。
「私は若かった。理想を信じた。神託はただ照らすだけだと。だが、真実をそのまま公表した時、民は動いた。怯え、奪い合い、狼狽し、思わぬ連鎖が起きた。台に上がった真実は、火を起こした。村を焼き、人を押し流した。私はその光景を見て、思ったのだ。真実を照らすだけでは足りない。真実が人々を壊すなら、片側を抑えることで——秩序を保つことが必要だ、と」
オルディアの言葉は剥き出しの記憶であり、それを語るたびに彼の肩の荷が揺れるようだった。彼は自分の過ちを隠そうとはしなかった。むしろ、それを幾重にも折り重ねて説明しているように見えた。リオネルの内側で、前世の手癖がかすかに疼いた。過去の自分が、原稿の上で余分だと思った一行を刈り取り、誰かの結末を滑らかにしたあの夜の感触が、ここで同じ形をとっている。
「あなたは、文章を整える者だろう」とオルディアは続けた。「私も、似たことをしてきた。民が読む神託の文面を整え、秩序が崩れないように、重すぎる言葉を削ってきた。だが私は、自分を『編集者』だとは称さない。私は守る者だ。誰かの命が一つでも救えるなら、ある文面の一片を削るという苦渋も受け入れた。お前の仕事を侮るつもりはない。だが、結果を見よ。時に真実の露出は――」
言葉はそこで切れた。オルディアは目を閉じ、息を吐く。机の上に置かれた写本の端が、月光に照らされてかすかに反射する。その反射の中に、かつてオルディアが見た炎や叫びが滲むと、リオネルは想像した。
「——民を壊すのだ」と彼が言った。声は穏やかだが、そこにある諦観は鋭かった。「だからこそ、選択をしてきた。私は秩序のために歪めた。だが、最近、私にも疑問がある。秩序のために隠した事柄は果たして永続するか。破られた約束が消えるのか。それを確かめるための判断を誤れば、同じ惨事がまた来る。だから私は、全てを賭けるかもしれない状況で、静かに道を閉ざすことを選ぶ」
リオネルの胸に、言葉の重みが落ちた。彼は前世の自分がしてきたことの断片を思い出していた。ある作家の枠に金輪をはめ、言い回しを「読みやすく」した結果、作家が本来語ろうとしたものが削がれ、当人の誇りといくつもの可能性が消えた夜。仕事として正しい一方で、他者の運命を無意識に塗り替えてきた自分。今、目の前の男もまた、同じ動機で言葉を削ってきたのだと——それを認めることは、リオネルにとって痛みだった。
「あなたは恐れているのだね」とミナが小さく言った。いつの間にか彼女が部屋にいた。帳面を抱えて、彼女の眼は真っ直ぐオルディアを捉えている。「本当のことが暴かれた時に、あなたの選択がもたらす反動を恐れている。その恐怖が、あなたを偽装へと導いたのだ」
オルディアは静かに笑ったように見えたが、それは自嘲だった。「恐れるなと言えば嘘になる。だが恐れが決断の全てではない。時に恐れは責任を生む。私は責任を取った。それが人を救ったこともある。しかし——」彼は視線を落とし、長い沈黙を置いた。「しかし、全ての秩序は偽装の上に築かれるとき、いつか崩れる。その崩れ方は、私の見たものよりも甚だしいかもしれぬ」
リオネルは思わず机の写本に手を伸ばした。月明かりの下、改竄の痕跡は本当にあるのだろうか。ページの端は繊維がざらつき、蝋の跡が乾いている。その蝋に指を滑らせると、かすかな凹凸を感じた。オルディアのしわがれた掌がすぐ隣に置かれ、彼のひと振りの動きが写本の上の影を揺らす。リオネルが月光で文字を覗き込むと、改竄された箇所は欠けた活字のように黒い穴として見えた。内部に、かつてあったはずの言葉が反転して浮かんだ。
見るだけは許されている。修正は許されていない。その規則が、重くのしかかる。リオネルは能力の縛りを改めて感じた。使えば記憶を一つ失う。今、どの記憶を差し出せるのか。しかもここで直してしまえば、事の