月蝕湖のダイバー――沈都の命脈を継ぐ転生救難士

月蝕湖のダイバー――沈都の命脈を継ぐ転生救難士 第9話「第8章」

水は冷たく、重かった。月蝕湖の底に降り注ぐ光は薄い鉛色の布のように指先を包み、どこまで行っても光る場所は遠かった。レオは手袋の隙間から冷たさを感じながら、もう一度息を整えた。肺の奥に残る空気は少ない。だがそれより怖かったのは、胸の内側を掠める空洞の感触だった。名前が、その輪郭が、薄くなっていく。

水は冷たく、重かった。月蝕湖の底に降り注ぐ光は薄い鉛色の布のように指先を包み、どこまで行っても光る場所は遠かった。レオは手袋の隙間から冷たさを感じながら、もう一度息を整えた。肺の奥に残る空気は少ない。だがそれより怖かったのは、胸の内側を掠める空洞の感触だった。名前が、その輪郭が、薄くなっていく。

「準備はいいか?」ガルドの声が水上から低く響く。ロープを張る指先が海面に映る月光を切り裂き、細い波紋が口の中で音を立てる。トトはいつものように工具箱を抱えて、口元で何かをぶつぶつ言いながら最後の空気嚢のバルブを締めた。ミナは地図を濡れた指で押さえ、ページの縁に残る古墨の匂いを深く吸った。ユノは聖印の破片を袖に押し込み、祈りの代わりに自分の胸を押さえていた。

「三つの隔壁が向こうだ。時間が経つと、流路が狂う」とミナが小声で言った。彼女の声はいつもより硬かった。地図の上で指が震え、墨の消えかけた線が揺れる。

「行くぞ」ガルドが言って、船の喇叭を短く鳴らした。その音は水面を震わせ、沈んだ街の隙間を伝わっていった。そこから伝ってくる反響の遅れを聴き分けて、彼らは互いに合図を送る。ことのほか単純な、しかし頼りになる合図。人間の手と声が、頼りない銀の線よりも確かな道標にならねばならなかった。

レオは水に触れた。冷たさが皮膚を刺し、掌から肘へ銀色の線が流れ込む。過去の水路が目の前で立ちあがり、透明な絡繰りのように重なる。ひとつ、またひとつ。銀線はまるで海の記憶を糸で編み直すかのように伸び、彼の視界を満たしていった。そこに示された道筋は正確で、早くて、焦っている者を安堵させる誘惑を持っていた。

だが──。

「長居はするな」ガルドの声が遠くで割り込む。彼はいつも短く、だが的確に命じる。トトが右舷の空気嚢を二つ増やす合図を出し、ミナは地図のページを一枚だけめくった。すると、銀線は微かに震え、重ねてあった過去の流路がずれる。一本だった道が、二本、三本と分かれる。重ねられた日の数だけ別の線が顔を出し、互いに重なり合い、交差し、やがて糸が絡まるように崩れ始めた。

「あっ」レオは声にならない声を漏らした。視界の端で、幼い自分の腕が泳いでいる。前世の冬の風、消防服の擦れる音、ライトの冷たい光が断片となって逆流する。記憶が水の記録と混ざって、彼の内側から外へ逃げていく。最初は顔の輪郭、次にその脇に寄り添った名字の影が、するすると剥がれていった。

「朝倉──」名前の先端を掴もうとして、掌からすり抜ける感触が襲う。言葉の塊が水の中で砕けて、正しい形にならない。胸のどこかがひりついた。湊という音だけが、遠くで波に乗って残る。朝倉の輪郭は、もう紙の縁のように薄かった。

「レオ、大丈夫か!」ミナが叫んだ。彼女は手にした地図をアルミニウムのペンで指して、二つの声帯が重なる地点を示す。そこには、沈んでいる日の繰り返しの中で何度も小さな助けを求める叫びが現れていた。地図は北を指していなかった。声の位置が中心だった。ミナはそれをずっと昔から知っていたように操作している。だがそれを知っていたという事実が、今、レオの胸に重く落ちる。

「今は過去をなぞるときじゃない。合図を刻むんだ。俺たちが道になる」ガルドの低い言葉が、波の合間を走る。彼の手つきは簡潔だった。ロープの結び目を替え、船の桟橋を押し付け、浮力具の位置を少しずつ変える。彼が動かすたびに、水中の抵抗が変わり、子どもたちの呼吸の音がわずかに聞こえやすくなった。銀線はその変化に敏感に反応して、たちまち違う形に折れ曲がった。

レオの視界で、銀の道が一度、目に見えて砕け落ちた。粉々になった糸は水の音と一緒に崩れて、紙屑のように沈んでいく。彼はそれが何を意味するかを理解した。過去の地図は未来を保証しない。彼が延々と読み続ければ、そこに記された道はより鮮明になるだろう。しかし、その鮮明さは彼個人の歴史と混ざるたび、現在の選択が反映される余地を奪ってしまう。仲間が一手動かせば、銀線は崩れる。誰かがわずかに違う方向を向けば、過去の答えは虚像に変わる。

「読解をやめろ」トトの叫びが割り込んだ。小柄な鍛冶師の顔は、油と泥で汚れている。だがその目は真剣で、工具を握る指は震えていなかった。「お前の線に頼るのは簡単だ。でもそれに縛られたら、今ここにいる奴らの命が消える。糸じゃなくて、俺たちが道になろう」

彼の言葉が、レオの耳を叩いた。人が道になる――その発想は、理屈で考えれば幼稚だ。しかしそこには血が流れ、力がある。結び目一つ、掛け声一つ、触れ合いの確かさがあった。トトは言葉を補わせるように、バケツから長い麻縄を取り出した。縄は濡れて重かったが、光を反射するたびに温かみを帯びたように見えた。

「お前は誰のために潜る?」ヴァルザの問いが、先刻の威圧を思い出させる。だが今は、問いに答える時間はない。レオの中で、名が消えかける空洞が疼く。だがその疼きの先に、仲間の掌があった。ミナの指先、ガルドのふくらんだ腕、トトの煤のついた掌。彼らの手が、糸を、いや、水路を編み直すのだ。

レオは自分の手から銀線を手放した。視界は一瞬、真っ白に近い灰色になった。過去の流路の微かな残り香が揺れ、幼い自分の影が最後の抵抗を見せる。それを見届けるのは辛かった。思い出を捨てるというのは、自分の一部を湖へ投げ入れるようだった。だが紡がれるのは、誰かの命だ。レオは息を吸って、現実の糸に触れた。

「声を探せ。声を頼れ」ミナが地図を掲げ、口を滑らせた。彼女の瞳は灯油のように暗く光っている。ページを重ね合わせる指先の動きは、精緻な儀式のようだ。彼女はページの北を無視し、声の強さを中心に円を描く。幾つかの点が一致した。小さな濁りが沈都の廊下で揺れている。そこに沿って、縄を結んでいく。ミナが示した交点に向け、トトがロープを投げ込む。人の手が、一本ずつ、確かな線を作っていった。

銀の道が崩れ落ちていく中、人の縄はゆっくりと光を帯びていった。月光が麻縄の繊維に沿って走り、小さな光点が幾重にも並ぶ。水中の色が変わるのがわかった。銀の冷たい光が溶け、暖かな琥珀の線が浮かび上がる。アニメのワンカットのように、月の銀と人の琥珀が交差して大きな画面を作る。泡の一つ一つが金色に反射し、子どもたちの呼吸がその中で小さく震えた。

「俺が先導する」ガルドの声は短かったが揺るぎない。彼は船の舵を捨て、縄を握って潜り込んだ。水中の波は彼の体を押したが、彼は縄をしっかりと握り、仲間たちに合図を送る。ユノは自分の体を低くして、呼吸弁を外すわけにもいかない胸を抱え、盾になる位置に立った。祈りはしない。だがその表情は静かな決意を宿していた。

三つの隔壁は予想よりも堅かった。古代の金属が水圧に耐え、そこに縦横に刻まれた記号は訓練された手でも解けないように見えた。だがトトは無言で工具を差し込み、レンチを回し、噛み合った歯車の隙間を叩いた。火花は水中では見えないが、彼の顔は熱で染まり、汗が工具に滴る。人間の力が、古い仕掛けに押し返しの一手をかける。

銀線がまた一度、しなやかに伸びた。過去の一日が二重に重なり、子どもたちが逃げ惑う過去の影が揺れる。レオはその中で迷