月裏階段の測量宿

月裏階段の測量宿 第3話「第2章」

朝の空気は、まだ熱を帯びていない。火の残り香と干し草の匂いが交じる白環亭の前庭に、いつもより多くの足音が重なっていた。客たちのざわめきが、台所側の戸を軽く叩く。戸は何度も開け閉めされ、細かな不満が風と一緒に流れ込む。

朝の空気は、まだ熱を帯びていない。火の残り香と干し草の匂いが交じる白環亭の前庭に、いつもより多くの足音が重なっていた。客たちのざわめきが、台所側の戸を軽く叩く。戸は何度も開け閉めされ、細かな不満が風と一緒に流れ込む。

「姉さん、道がまた変わったんですって! 馬が同じ橋を三度も渡ったって言うんだ」

若い荷車引きが息を整えながらそう言うと、そばにいた中年の旅人が頭を抱えた。額には昨夜の月の名残りが白く映っている。彼らの話を聞いて、リュネは胸の奥がひんやりするのを感じた。数字は嘘をつかない。だが、目の前の現象は数字の枠をひとりで超えているように見えた。

「どのくらいずれたの?」

リュネは普段通りの口調で尋ねる。感情を測れないのは知っている。だが地表のズレは、彼女の身体に染みついた感覚で確かめられた。距離と角度は、前世の仕事の残響のように、指先から足裏へと伝わる。彼女はたたんであった麻糸の束を取り出し、目の前にいる旅人のひとりに差し出した。

「まず、あの柱まで歩いて。並んで数を数える。私が杭を打つから、そこを基準にする」

旅人は戸惑いながらも従う。三歩、四歩と声が重なり、リュネは靴底の摩擦と土地の微かな傾斜を覚えた。人の歩幅で土地は語る。だが計算を終えて杭を打ってみると、その杭もまた、次の瞬間には微妙に違う方角を示しているように見えた。地平線が呼吸をしているように、道は朝の空気の中でずれていく。

「おかしい。杭を打ったはずの基準が、また──」

年配の旅人が短く呟いた。彼の手は震えていない。震えているのは景色だった。白環亭の木製の看板が、四方から同時に見えるように感じられる。東へ進むと看板、北へ行っても看板、南に戻っても看板がある。ひとつの宿が、街道をぐるりと取り囲んでいるように見えた。その光景は、外から見ると不可解で、内側にいる者だけが混乱する。

リュネは糸を手に取り、気配を集める。糸が指先に触れる感触は、昔からの友達のように馴染んでいた。だが、糸を張っても空中に浮かぶ目に見えぬ角がある。路面の裂け目が、前後にずれては現れ、消えていく。旅人たちは同じ道をぐるぐると回って戻り、白環亭へたどり着く。見慣れない顔が戻ってくると、宿の常連も眉を寄せた。

「昨日も同じあんたがここに泊まった」「違う、俺は昨夜は東の宿に泊まったはずだ」

言葉と体験が噛み合わない。記録は何を信じればいいのかを慌てさせる。リュネは糸を刺している杭の頭に小さな紙片を結び、そこに「仮路」と書いた。あまり目立たない淡い字で、だが確かにそこに印を残す。彼女は数字を信じたい。しかし今必要なのは、精密な最終図ではない。命が通る仮の線だ。

「姉さん、巡察隊に報告した方が──」

母の手がそっと彼女の袖を引いた。母の目は眠れぬ夜の疲れを帯びている。リュネは母の顔を見返し、首を振った。白環亭は小さな宿だ。巡察隊が来れば、検分はするが同時にここを動かす権力が動く。王都の手が入れば、この場は保全どころか、記録ごと掘り返される可能性がある。今は旅人たちの足先をつなぐことが先だ。

「まずは客を守る。仮の路をつくる。精度は後で詰める」

声は簡潔だった。リュネは糸巻きと小さな木杭を引き、宿の入口から外へ向けて仮線を延ばしていく。彼女の指先は、不安定な地面のわずかな波を読む。高さ一尺の範囲で地面が遊んでいる場所、車輪がはまる溝、足跡の深い場所。どれを避ければ安全か、肌が答えを返す。糸が引かれるごとに、歩き手たちの表情にわずかな安心が戻る。だが安心は脆く、風に吹かれた埃のようだ。

午前の市が開かれ始め、行商人たちが荷を整理し、子どもたちが石を蹴って遊ぶ。ある子が砂利の上で立ち止まり、空を見上げて歌い始めた。子守唄のようで、旋律は短く繰り返される。歌が風に乗ると、いつの間にかそれが路地の奥からも聞こえ、次第に合唱のように増えていく。リュネの胸に、小さな違和感が走った。歌は地上のどこからも来るが、曲の最後には必ず一拍、音が沈む。まるで誰かが地面の下で拍子をはずしているように。

そのとき、戸口で静かに声がした。

「ここが、白環亭ですか。道が分からなくて……」

声は若いが落ち着いていた。足音が近づき、小柄な女が姿を見せる。軽い旅装に黒い帯を巻き、胸には細い紙の札がぶら下がっている。それを見た瞬間、リュネの心臓が少し跳ねた。紙の札には「暦府文書呈示」とあった。巡察隊とは違う、王都の記録官の身分だ。記録官は地図と公文の番人であり、表向きは事実を扱う職業。だがここで顔を見せるとは、普通ではない。

女性は視線を落として名乗る。

「セラです。王都の暦務局から来ました。……ええと、あなたがこの宿の方ですか?」

セラの瞳には疲労があり、同時にどこか決意めいたものがある。リュネは糸を一度巻き上げ、呼吸を整えてから首を横に振った。彼女は公式の協力を求めるつもりはない。だが記録を知る者がいるのは、致命的なようで救いだ。

「リュネです。客の避難経路を仮に繋げています。状況は変動的。記録は役に立たないかもしれない」

セラは指先で紙束を取り出し、差し出した。そこには巡察隊の前夜の報告書らしき写しがあった。ページには整った字で「街道異常なし」とだけ書かれている。リュネはそのとき、文字の間に入れられたわずかな赤い線を見つけた。訂正の痕だ。だが訂正線は本来あるべき場所を消し、別の言葉を差し込むように見えた。セラの手は震えていないが、指の腹に薄い墨の跡があった。

「これは……巡察隊の報告になっているけれど、本省の写しではない。上がるはずの座標が薄く消えていて、別の文言に差し替えられている。私が見つけたのはこれが最初ではない。元の地図も、書換えられている」

リュネは紙を受け取る。文字の重さが、紙についた油のように感じられる。言葉は形を変えることで、土地をも変えてしまえる。リュネは前世でそれを知っていた。地図が改竄されたら、人の避難路は正確に残らない。

「君は、どうしてここへ?」

セラは小さく息を吐いた。それは告白のようでもあり、逃亡の理由でもある。

「私が改竄を止められなかったから。私の仕事は証拠を整えることだったのに、上はその証拠を消す側に回った。署名をしてしまえば、それで終わりになる。私は署名を拒んで、ここへ逃げてきた。戻れない。だから、この町の状況を自分の目で確かめたくて」

その言葉に、宿の客の間に一瞬の静寂が落ちる。リュネはセラの顔を見つめた。記録を守るという矜持は、ここでは刃にもなる。セラの瞳の奥にある焦燥は、本当に消したくないものを守りたいという気持ちだとリュネは確信した。だが同時に、その矜持は彼女を王都の敵に回した。

「ここを、公にすると判断が出る。だがまずは目の前の人を守らなければ」

リュネは紙をセラに返し、杭を拾った。セラは頷き、露のついた左手の手袋をぎゅっと握り直す。二人の背後で、看板鴉のミモが屋根に舞い戻ってきて、いつものように軒先に止まった。だが今回、気になるものがあった。ミモの左翼だけが、朝露というには重い水滴で濡れている。羽根の黒が濡れで少し鈍く光る。ミモはリュネの視線を受けても平然としていて、その大きな目は何かを告