白砂月時計のルゥン

白砂月時計のルゥン 第1話「序章」

朝倉透は、秒針を三度確かめた。工房の窓から差し込む黄昏の光は、磨き上げた真鍮の表面を舐めるように滑り、彼の指先と一緒に小さな影を揺らした。客の依頼は単純だった。親の形見の懐中時計を、七十年ぶりに正確に鳴らしてほしい——誰かにとっての「明日」を一つ、きちんと働かせてやること。透はそれを仕事と呼んだ。正確さは彼の体内にある習慣であり、決断を先延ばしにする理由でもあった。すべてを完璧にしてからでないと手を離せない。それが安全だと自分に言い聞かせるための方法でもあった。

朝倉透は、秒針を三度確かめた。工房の窓から差し込む黄昏の光は、磨き上げた真鍮の表面を舐めるように滑り、彼の指先と一緒に小さな影を揺らした。客の依頼は単純だった。親の形見の懐中時計を、七十年ぶりに正確に鳴らしてほしい——誰かにとっての「明日」を一つ、きちんと働かせてやること。透はそれを仕事と呼んだ。正確さは彼の体内にある習慣であり、決断を先延ばしにする理由でもあった。すべてを完璧にしてからでないと手を離せない。それが安全だと自分に言い聞かせるための方法でもあった。

工房の作業台の端に、見慣れない歯車が置かれている。歯は十三、均等に刻まれ、薄く銀色に光っていた。どこから来たのか、その由来は客も忘れているという。透は歯車を回してみる。指に伝わる心地よい重みと、十三という数の持つほんの少しの不協和音。頭の中で、昔師匠から聞いた言葉がざわつく。「歯は目盛りだ。刻まれた数には気をつけろ」——が、理由は思い出せない。彼は結局その歯車をケースにしまい、懐中時計の最後の歯と噛み合わせを調整して、秒針をもう一度見た。

帰り道、透はいつもよりゆっくり歩いた。夕闇が路地を押し広げ、瓦屋根の輪郭が切り取られていく。小学生の頃に覚えた帰り道の匂いが鼻先をくすぐった。道の曲がり角で、突然の騒音が裂けた。人の叫び声、鉄の軋み、遠くでガラスが割れるような金属音。足が先に向かう。家の前の広場が異常に歪んで見えた。古い時計塔が、一瞬にして自分の体を崩すように崩落している。塵の柱が立ち、木っ端や瓦が空中でぎこちなく踊った。

そこにいた。男も女も子供も、瓦礫の下に寝そべるように張っていた。誰かが叫び、誰かが泣いた。だが透の視線は、瓦礫の間に落ちて止まった一つの小さな懐中時計へ向いた。露出した文字盤に、青い夜のような針が止まっている。止まってはいけない。透の理由はいつも単純だ。正確性があれば、秩序は戻る。時計を直せば——と、そう信じた。

「救急を呼べ! 人が下敷きに——」と言う声が耳の端で囁く。透は声が自分の周囲を通り過ぎるのを感じた。瓦礫の下に腕を潜らせた細い足の指先を触れたとき、時間の感覚が急に濃くなった。彼は手を伸ばし、指先で懐中時計を拾う。粉塵が口に入る。誰かが彼の腕を掴む。救助だ——それが筋だ。だが透の手はすでに懐中時計を胸元に抱えていた。時計の背蓋を開け、透は息を整えながら歯車と針を合わせる。指先の技術だけで三分を削ることができる。だがその三分は、瓦礫の下で確実に誰かの呼吸を奪う時間でもあった。

指先が最後の歯をはめた。秒針が動き出す。ひとつ、動いた。彼は安堵の吐息を漏らす。遠くで誰かが喜びの声を上げる。だが秒針は、続けてもう一度、小さく跳ねるように動いた。透はそれを見て、胸の奥から嫌な寒さが湧き上がるのを感じた。二度動いた瞬間、空気の粘度が変わった。世界が一拍遅れる。瓦礫の山の向こうで、時計塔の崩れた輪郭が、月のような白い光を帯びて回転を始める。透はそれを見て、初めて自分が後悔の中にいることを知った。

「待っていればよかったんだ……」と、透は思った。完璧を求めるあまり、手を止めてしまった自分の癖。誰かの声が遠ざかっていく。瓦礫の隙間で、指先の温もりは徐々に冷たさになり、胸の鼓動は水面に落ちる石の波紋のように広がった。彼は救助を遅らせたことを、戸惑いながらも確信していた。だが、後悔はもう遅い。光が一瞬だけ、強くなる。透は懐中時計の文字盤を見つめながら、自分で記したはずの決断の言葉が軍手にこぼれる砂粒のように消えるのを感じた。

そして、秒針が二度動いた。

透の視界は白く反転した。砂の匂い。冷えた金属の残り香。耳には遠い金属音ではなく、何かが水面を撫でるような均一な音が流れた。彼の体は息をしようとしたが、空気が違っていた。胸を押し上げる力がなく、足元には見慣れない白い粒が広がっている。彼は叫ぼうとして口を開ける。言葉が出る前に、声がひとつの景色になった。

目を開けると、見慣れない世界があった。空は薄い硝子のように冷たく、低い角度で光る。地面は白砂で、砂粒は細く、真新しい月の表面を思わせた。遠くには小さな街が白砂に埋もれかけて立っている。屋根は白く、建物の縁取りに青白い灯がともっている。空には、しかし、見慣れた夜の月はなかった。そこにあるのは、欠けた輪郭のようなもの——円環の隙間が空いているように見えた。

「ここはどこだ……?」と、自分の声を確かめる。声は若く、透の知る四十の声ではなかった。胸の奥に別の体温がある。彼は自分が若返っていることに気づいた。指先を見ると、肉体は薄く、日焼けした肌が緻密に光をはじいている。ポケットの中に手を入れると、小さな革袋があった。バッグの中から、懐かしい感触——あの十三歯の歯車が入っている。透は眉を寄せた。自分の職人としての癖は、どうやらこの体にも残っているらしい。

ふと、背後から声がした。「ルゥン?」

彼は振り返る。見知らぬ女の顔。年かさの中年の女性が、白い布で頭を覆い、困惑したように彼を見つめている。女は夏の夜の匂いを持っていなかった。何か別の、乾いた香り——白砂の匂いだ。女は彼の顔をじっと見つめてから、もう一度名前を呼んだ。「ルゥン、目を覚ましたのね」

ルゥン。──その名は耳に馴染んでいなかったが、胸のどこかが温かく反応した。朝倉透は、ここではルゥンだと理解した。転生というのがあるなら、それは現実のようにも思えた。女の手は彼の髪を優しく撫でる。触れられた瞬間、透の胸の奥のどこかに、母の細い声が引っかかった。言葉にはならない。だが確かに、工房で聞いたことのある語調がそこにあった。「直したのね、透……」

声は消えた。女が言った。「あなた、ずっと眠ってたのよ。ここはクレセント。月時計守の見習いをしている人が、あなたを運んできたの」

「月時計守……?」透はその言葉を繰り返した。思考が追いつかない。だが同時に、懐かしい手の感覚が指先に戻ってきた。彼は無意識に作業台にある薄い木片を探す仕草をした。指が触れたのは、向かいの壁に掛かった古い小時計。文字盤は白砂色で、銅の縁に青白い光が滲んでいる。思わず手を伸ばして針に触れると、微かな振動が掌を伝った。指先に、ほんの一筋、銀色の縦線が走るように感じた。それは記憶のようであり、時間のずれのようでもあった。透は息を呑む。目の前の時計は微かに鳴った。ひとつ、澄んだ音。だがそのとき、胸の奥のどこかにぽっかりと穴が開いたような感覚がした。具体的な何かが、一本の銀線に引かれて消えていくような。

「ここは月が少し遅れているの」と、女は言った。「満月の夜に時砂が降るはずが、欠けたままで戻らない。夜が三日遅れているのよ。だから月時計守の仕事は忙しい。でも、あなたは今は休みなさい」

休め、という言葉に安心しようとした瞬間、彼は床に目を落とした。足元の砂は白く細かく、普通なら足跡がくっきり残るはずだ。ルゥンは一歩踏み出して確かめた。砂は崩れた。だが、振り返っても自分の足跡は見えない。彼は二歩、三歩と歩く。白砂は平らなままで、そこにいま確かに彼が通った形跡はなかった。胸がぴくりと跳ね、何かが彼の内側で揺れた。記憶の欠片が、微かに引き裂かれたようだ