温泉番

温泉番 第8話「第7章」

湯気はいつもより濃く、白いカーテンのように灯りを細かく割った。ハルは浴室の隅に置かれた木の椅子に腰を下ろし、まだ指先に残る昨夜の痙攣を確かめるように、ゆっくりと掌を握った。肩の奥に残る鈍い痛みが、呼吸に合わせて波立つ。夜が深いほど、代償は身体の表面に現れてくる。昨夜、彼が一晩分の痛みを引き受けたことは、動作のぎこちなさとして町の者たちの目に映っているはずだ。だがそれが、彼を躊躇させる理由にはならなかった。

湯気はいつもより濃く、白いカーテンのように灯りを細かく割った。ハルは浴室の隅に置かれた木の椅子に腰を下ろし、まだ指先に残る昨夜の痙攣を確かめるように、ゆっくりと掌を握った。肩の奥に残る鈍い痛みが、呼吸に合わせて波立つ。夜が深いほど、代償は身体の表面に現れてくる。昨夜、彼が一晩分の痛みを引き受けたことは、動作のぎこちなさとして町の者たちの目に映っているはずだ。だがそれが、彼を躊躇させる理由にはならなかった。

「今日は客帳の整理をするつもりでしたよね?」と、入口から頭だけ覗かせていたミリがささやいた。彼女の表情には、いつもの無邪気さの影に、宿を守る者としての緊張が混じっていた。ミリは湯治場の帳簿係で、筆跡も勤怠の管理も彼女が担っている。ハルは顎を動かしてうなずき、浴衣の裾を引き寄せた。

「うん。来週から鉱山へ回る。客帳をもう一度全部確認したい。消えた名が本当に消えたのか、あるいは書き間違いなのかを確かめたいんだ」

ミリは入口から出てきて、畳の上に深く座った。机の上に置かれた革の綴じ帳が、薄暗がりの中で鈍く光を放つ。ハルはその表紙に手を置いた。いつものページめくりの音が小さく、しかし確かに、湯気の音と混じって響いた。客帳はただの記録ではない。ここに人々の名前が残るということは、誰かが存在を認めたことを意味する。消えるものは、存在すら否定される。

ページを開くと、最近のページには鉱山町から来た者の名が並んでいた。男たちの名、女たちの名、子どもの落書きに混じる丸印。ハルは指で記された色墨をなぞる。ページの端、線の薄くなったところに指先が触れ、そこだけ冷たかった。――ひとつ、ふたつ、名が欠けていた。

「ここ……」ハルは低くつぶやいた。ミリがのぞき込み、眉を寄せる。

「確かに、先週まであったはずの名がない。ダンの名前、消えてます」

「ダン?」

ミリの指差す先を見れば、そこにはかつて書かれていた三文字分のスペースがぽっかりと空いていた。墨のにじみはまるで誰かが濡れた掌でこすったように見え、紙の繊維が掻きむしられたように乱れている。周囲の名とは違う、不自然な空白だ。ハルは胸の奥がひゅうっと冷たくなるのを感じた。

「間違いじゃない。覚えてる。ダンは、先月の晩に来た。肩が痛むって言って、顔色が悪くて……」

ミリの声が震えた。帳簿には彼女自身が目で確かめた日の記録もある。けれど紙の上の空白は、誰かが確かに記録を消した跡だった。

「名前が消えるって、どういうことだ?」ハルは問いかける代わりに、声を落とした。言葉にすることで事実が増幅してしまいそうで、彼はそっと本を閉じかけた。そのとき、戸口から小さな足音が忍び寄り、一人の子が頭をのぞかせた。アオイだ。ダンの娘――ではなく、隣家の幼い少女だが、鉱山町では子どもたちの顔が似ているせいか、彼女の目はいつもより真剣に見えた。

「ハルさん、パパの名前、ここに書いてあったの。ぼくが見たんだ」

アオイは母親のように大きく息を吸い、白い手のひらで口元を抑えた。灰色の髪を縛ったその目に、涙はなく、ただ消えた何かを指差していた。ハルは彼女を膝へ招き、そっと膝に載せた。子どもの温もりが、今日の冷たい世界で唯一の救いだった。

「どのページに書いてあった?」

アオイは小さな掌で机の端をたどり、ページをめくろうとしたが、ミリがすっと手を差し伸べて止めた。

「触らないで。湿気で、消えたら困るから」

ミリの言葉に、アオイはしょんぼりと肩を落とした。ハルは自分の無力さを再確認する。物質的な記録が改竄される。声を出すことでのみ現れる「流れ」がある世界で、声が奪われ、名前が消されると、何が残るのか。

「アオイ、君はその日、パパを見たの?」ハルは静かに訊いた。子どもは頷く。

「うん。仕事終わって、家へ帰るところだった。駅の方へ向かってた。でも次の日に来たら、ママは泣いてて、役人さんが来たって。そしたら、パパの棚から、服が一つなくなってた。ママが言ってた。『どこへ行ったの』って」

ハルはそのくだりを頭の中で繰り返した。服がなくなっている。夜にひっそりと名前が消される。誰かを「いない」ことにするための手口は、以前にも見たことがある気がした。だが指先に残る昨夜の痛みが、彼に警告する。ここは手探りで動くしかない。ただし、彼の力には限界がある。黙る者の病は読めない。人が沈黙を強いられているなら、手段は言葉と記録だけだ。

「家族に聞いてみよう。直接行って、話を聞かせてもらうんだ」ハルは立ち上がり、外套を手に取った。膝の奥に小さな痺れが走るが、それを押し殺して呼吸を整える。ミリが慌てて着いてきた。彼女は湯治場から持ち出した少量の支援物資と、筆記具を胸に抱えている。

「危ないよ。監視が増えてるって、聞いた」

ミリの声に、ハルは首を振った。「だから、慎重に行動する。夜に来る必要はない。昼間の方が目につきにくい。家族の記憶を紡げば、何かが見つかるはずだ」

街の空気は鉱山の粉でしょっぱく、鉄の匂いを孕んでいた。家々の壁は煤で黒くなり、窓からは粗末な布が垂れていた。ハルとミリは半日かけて、地図のように鉱山街を歩いた。山の傾斜に沿って並ぶ家々は、どこか互いに寄り添って生き延びていることを示している。声が出ない者を抱えた顔は、皆似たような疲労を浮かべていた。

一軒目に訪れたのは、ダンの家だとアオイが言ったあの場所だった。内部に入ると、薄暗い土間に一枚の子ども用の布が干してある。奥の小さな神棚には、煤をかぶった小さな銅像と、ほつれかけた写真。写真には笑うダンが写っていた。目の奥にあるやわらかさが、見る者の胸を締めつける。

「ダンは、どこへ行ったのか、知りませんか」ハルはそっと尋ねる。相手はダンの妻ではなく、その向かいに住むトメという老女だった。トメは鉱山で昔を知る女だ。頷いてから、彼女は低く息をついた。

「役人さんたちが夜に来てな、帳場を見せろって言ったらしい。その晩、ダンは無断で仕事場に呼ばれて、翌朝にはもういなかった。だが……名前だけが消えたというのは、初めて聞いたよ」

トメの声には憶測と諦観が混じっている。ハルは床にしゃがみ、写真に触れた。写真の隅には小さな泥の斑点があった。子どもの手が誤ってつけたのだろうが、その泥の縁取りが、何かを隠すために置かれたように見えた。

「あなた、ダンと会ったとき、何か変だった?」ハルはさらに尋ねる。彼は情報を得るために、直截的に人々の言葉を引き出す必要がある。だがそのためには、相手が話すことを選ばねばならない。

トメは目を伏せ、少し間を置いてから、ゆっくりと語り始めた。「痩せてた。夜に咳をしてた。肩が冷たいって、眠れないって。家族には言わなかったんだろう。あいつらは、病気を見せれば仕事を取られるかもしれないって怖がる。黙っているのが取り柄だ。だがな、あの夜は、誰かに押されるように出て行ったって聞いた」

ハルは胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。黙ることが生存の手段になる場所で、誰かの存在を消す手口が始まれば、救いは途端に狭くなる。声を奪うことが、最も効果的な弾圧だった。

「声がないと、俺の湯は役に立たない」ハルは心の中で独り言のよ