温泉番

温泉番 第19話「第17章」

夜の湯治場は、昼間とは別の呼吸をしていた。石畳に残る熱の匂い、浴室の五寸ほど上でゆっくり立ち上る湯気、その向こうに一直線にぼんやりと見えるのが、ハルが今してしまいたいことの全てだ。王宮の水路の源流へ行く──そこで手に入る「物理的な証拠」だけが、役人どもの否認を打ち破る鍵になる。否認が続けば、誰かがまた移送され、記憶を操られ、声を封じられる。守るべき人々の顔が、暗闇の中でぬっと現れては消えた。

夜の湯治場は、昼間とは別の呼吸をしていた。石畳に残る熱の匂い、浴室の五寸ほど上でゆっくり立ち上る湯気、その向こうに一直線にぼんやりと見えるのが、ハルが今してしまいたいことの全てだ。王宮の水路の源流へ行く──そこで手に入る「物理的な証拠」だけが、役人どもの否認を打ち破る鍵になる。否認が続けば、誰かがまた移送され、記憶を操られ、声を封じられる。守るべき人々の顔が、暗闇の中でぬっと現れては消えた。

「決行は今夜か?」アルドが低く訊ねる。水路の配管修理をしてきた男だ。手の小骨が目立つ、頑丈な指先が、使い古した地図の端を押さえている。彼は王都の下水や導水を知る数少ない市井の技術者で、自分の腕に誇りを持っている。対価は信用と少しの酒だけでよい、と言ったのは昨夜のことだ。

「今夜だ。公式の検査はまだ終わっちゃいない。証拠を抑えれば、否認を突く時間をこっちに作れる」ハルは地図に目を落としながら答えた。胸の奥がざわつく。自分が一人で何とかするつもりはない。だから仲間を集めたのだ。セリナは湯治場の帳場を仕切る女性で、言葉の収集と人心の扱いを得意としている。ヤンは鉱山地帯出身の引き込み屋で、夜道の案内役に向いていた。ミユは鉱夫の妻で、兄を失っている。彼女は行動の目的をハルに向けて確実にする、静かな怒りを持っていた。

「勝手に突っ走るなよ」セリナが短く釘を差す。「見つかったら、全部ばれる。あなたが主導だけど、あなた一人の問題じゃない」

「分かってる」ハルはうなずく。「洗い場で話した者の『流れ』は、まだこちらの味方だ。だけどあれだけじゃ裁判には足りない。水源の沈殿物、管の継ぎ目、何よりも汚染が意図的であるという物証が必要だ」

「で、どうやって入る?」ヤンが訊く。彼の眼差しは暗がりにも慣れていて、地図の小さな印を拾い上げた。「軽装で行く。犬も火も鳴らさず。だが、監視が増えたら足がつく」

アルドが地図に指を滑らせる。そこから見えるのは、旧い貯水池とそれを囲む石造りの溝、そして王庭側へと続く短い水道だ。「ここ。表向きは農場所有の溜め池だけど、実際は王家と契約した導水の分岐点だ。夜間は門番の交代が薄い。俺が蓋を外す。だが内部は鋭利な鉄製の桟や、薬品の混じった沈殿がある。手袋は俺が用意する」

「行くなら、能力は現場で使わない」セリナが言葉を選ぶように続けた。「ここで『流れを変える』なんてことをしたら、あなたが一晩痛みを背負う。その分動きが鈍る。私たちが護らなきゃいけない人たちをあなたが一人で背負うわけにはいかない」

ハルは黙った。言葉にしなくても仲間はわかっている。夜明け前に彼が一晩痛みを負うことは、次の行動を遅らせるのだ。彼が能力を使うのは、浴槽に浸かって誰かが自分の痛みを語ったときだけだ。黙る者の痛みは読めない。流れを変えることは、言葉で語られた痛みを自分の身体に引き受けることを意味する──それは、仲間に負担をかけることにも繋がる。今回の目的は物理的証拠であって、能力で即断的に解決する場面ではない。ハルはその限界を深く理解していた。

「では分担を決めよう」ハルが言った。「アルド、管と蓋の扱いは君に任せる。ヤン、警備のルートを教えてくれ。セリナは記録係だ。何かあれば客帳に書き残して。万一捕まっても、後で使えるように。ミユは……君には、もし現地で負傷者に出会ったら、彼らを説得して静かにここへ連れてきてほしい。話すことができれば、後でここで『流れ』を見て証言と結びつけられる」

ミユはじっとハルの顔を見た。ゆっくりとうなずいて言った。「兄さんのためにも……やる。私たちの声が消される前に、出してやる」

出発は二十一時。月は薄く、風はほとんどなかった。ハルは浴衣の上に薄い外套を羽織り、帯に小さな布袋をぶら下げた。そこには鋭利な小刀、硝子瓶、封蝋をするための蜜蝋、そしてセリナが作った小さな客帳の複製が入っている。彼はそれを握ると、湯気の向こうで眠る町を最後に振り返った。守る対象がある限り、動かなければならない。

道中、ヤンは狭い路地を使い、街頭の灯りを避けて進んだ。石畳は夜露で滑りやすく、足元に気を遣いながら歩く。アルドは手袋をはめ、蓋を外すための工具を背負っている。セリナは帳を持ち、必要ならば誰にでも話を引き出せるよう微笑みを整えていた。ミユは静かに、しかし確固たる足取りで前にいた。

導水の周囲は思ったよりも人が少なかった。王家の巡回は最近厳しくなっていると噂に聞いていたが、今夜は入念に門番が配置されている様子はない。古い石造りの溜め池の縁まで来ると、月光が水面を銀色に揺らした。その銀の中に、ほんの少しだけ──蒼い筋がひとすじ、波に乗って揺れていた。

ハルはそれを見て、胸がきゅうとした。あの蒼い筋は以前に湯気の中で見たものと同じだった。鉱夫たちの湯面に浮かんだあの線が、この源に届いていたのだと、現物が示している。アルドは車輪の音を立てないように蓋を外し、狭い鉄製の梯子を慎重に下りていった。気をつけろ、とヤンが囁く。地底からかすかに薬品のような匂いが上がってくる。鼻腔を刺す冷たさの中に、不快な甘さが混じっていた。

アルドが硝子瓶を取り出し、器具を水中へ沈める。瓶の口は風と波で揺れる水面に慎重に合わせられた。ハルは残りの役割を確認した。ミユは周囲に目を走らせ、警戒を怠らない。セリナは帳に細い筆で時刻と場所を走り書きした。彼らは分業が成り立っている。誰もが自分の判断で動いている。

瓶が一度、水を満たした瞬間、石造りの向こうから乾いた足音がした。誰かが来る。ヤンが低く唸る。「交代か、見回りだ。距離は二人、こちらには気づいてない。だが時間はない」

アルドが急いで蓋をして封蝋をとりだす。瓶の口に蜜蝋を垂らして固める。封を急ぐ手つきは慣れている。だが、アルドの指先が錆の付いた網に触れてしまい、思わず小さな金属片が瓶の中に沈んだ。月光に反射するそれは、丸い形だったが欠けていて、中央に小さな彫り込みがあるように見えた。ハルの胸がまた締め付けられた。金属片を目で追い、その彫り込みに見覚えはないかと探る。王家の紋章──までは見えない。だが、何かの意匠だ。アルドはそれをはじき出すと、素手で拾い上げ、ふところにしまった。

「急げ」ヤンが低く命じる。足音が近づいてくる。二人の門番が溜め池の縁に立って、昼間と同じ無表情で水面を眺めている。巡回の速度は速い。彼らは足を止め、互いに何かを囁いている。アルドは梯子を上がり、ハルに瓶を手渡そうとしたその時、もう一人の影が角を曲がって現れた。長い外套、官職を示す金属の徽章が胸に光っていた。王宮の監察官らしい。

「そこになにをしている?」その声は命令口調だ。夜の静けさに鋭く切り込む。

ヤンは言葉を飲み込んだ。ここで言い訳をするのではない。ハルが一歩前に出た。彼の声は落ち着いているつもりだったが、足が震えた。監察官の目は顔を一瞥しただけで、仲間たちの周囲を走らせる。その目がアルドの胸にある金属片の位置へスッと滑ったように見えた。

「夜の巡回は厳しい。何をしているか確かめさせてもらう」監察官が指差すと、門番の一人が素早く近づいてくる。背後にはさらに数人の影。

退くわけにはいかない。こ