温泉番 第12話「第11章」
朝靄がいつもの湯治場を抱き込む頃、ハルはまだ腰かけの縁に座って、生ぬるく残った湯気を手の甲に当てていた。したいことは二つある。ひとつは今日来る予定の鉱夫たちの顔ぶれを確認して、誰にどの順で入ってもらうか決めること。もうひとつは、昨夜湯底で見つけた金属のかけらをきちんと洗い、それが何者なのか確かめることだった。
朝靄がいつもの湯治場を抱き込む頃、ハルはまだ腰かけの縁に座って、生ぬるく残った湯気を手の甲に当てていた。したいことは二つある。ひとつは今日来る予定の鉱夫たちの顔ぶれを確認して、誰にどの順で入ってもらうか決めること。もうひとつは、昨夜湯底で見つけた金属のかけらをきちんと洗い、それが何者なのか確かめることだった。
「ハルさん、朝ごはんはもう炊けてるよ。あの指輪みたいなの、見せてくれる?」とミナが顔をのぞき込む。彼女は湯守として働き始めてまだ浅いが、視線と口が早い。手拭いで髪をかき上げながら、鉱山町の噂話をスパイスにして日々を回している。
「後でな。まず湯を替える。底に泥が溜まってると、療法に良くない」ハルは立ち上がり、湯桶を抱えて湯殿へ向かおうとした。その背に、レンが重い声でつぶやいた。「俺は、あれが何か知りたい。売れるかもしれねえだろ。金になるんじゃないか?」
レンの言葉に、ミナが舌打ちをする。「何でも金にしようとするのやめてよ。あれがなんで湯底にあるか考えてよ。ハル、あなたはどう思うの?」
ハルは湯舟の縁で足を止めた。湯の表面には、まだ昨夜の入浴者が語った痛みの「流れ」が薄く残っている。青く細い筋が湯気の中に揺れて、波紋のように静かな模様を作っていた。話した者の苦痛だけが、水面に流れとして浮かぶという自分の能力は、いつもそうして現実の声を映し出す。だがそれは同時に不利でもある。黙る者の病は読めない。流れを無理に動かせば、ハル自身がその痛みを一晩だけ引き受けねばならない。昨夜の夜明けに負った残り香のような疼きが、その代償の重さを思い出させる。
「今は触るな」ハルはレンに言い、湯桶を向こうの洗い場に置くと、手の平で湯の表面を軽くなぞった。青い筋は指先の風に揺れて、深く底の方へと細く集まるように見えた。その先に、泥に埋もれた金属の輪郭が、湯の底で鈍く光っていた。指輪だ。だが真鍮のような色はせず、くすんだ銀色に、何かの刻印がぼんやり見えた。
ミナが息を飲んだ。「こんなもん、どうしてここに……」
「誰かが落としたんじゃない。もっと古いものだ」ハルは答えを持たなかったが、湯の底に沈む物がただの忘れ物でないことは、本能で察した。湯は鉱山から引かれた水と町の生活が混じり合うところだ。そこに古い金属が沈んでいるということは、何かが隠れている可能性を示している。
「ハル、流れをつかめば出所が分かるんじゃないの?」レンが目を輝かせる。彼は実利主義者だ。流れをたどれば、誰がその痛みを抱えているのか、あるいはどうやってそこへ繋がるのかが分かるかもしれない。実利と真実はいつも紙一重だ。
ハルは湯面を見据えた。能力を使えば、水面に浮かぶ「流れ」を引き寄せて、その先にあるものを炙り出すことができる。だがその代償は抜き差しならない。流れを変えるたび、自分は一晩、誰かの痛みを背負う。昨夜引き受けた痛みは冷たい汗となって再発し、彼の胸の奥を締めつけた記憶になって残っている。彼には守らねばならない共同体がある。代償を無分別に払えば、次に助けるべき人を助けられなくなるかもしれない。
「今はやらない」ハルは静かに言った。「まず、これが何か確かめたい。湯治場の記録、客帳、古い伝承。ここで働いてきた人たちの記憶を当たる。急いで結論を出すのはやめよう」
ミナは不満そうに唇を噛んだが、自分の言葉が届くのを待っていたようにうなずく。レンは肩をすくめ、売る案は却下された。「お前がそう言うなら、とりあえず金は寝かせておく」彼は投げやりに笑ったが、目はどこか不安げだった。仲間たちは、それぞれ自分の判断で動いている。誰もがハルの能力を単なる道具とは見なしていない。だからこそ、彼の決断は重い。
ハルは湯舟の縁に腰を下ろし、古いつぼを取り出した。そこから出したのは薄い布と、小さなへら。湯底から指輪を引き上げるための道具だ。彼は手袋をはめ、そっと湯に手を入れる。湯は温かく、泥の匂いが指先にまとわりつく。青い筋は、その動きに合わせて揺れた。流れをいじるような感覚に胸がざわつくが、ハルはへらを泥に差し入れ、慎重に金属を掘り出した。
指輪は思ったより重みがあり、表面には泥と鉱石がこびりついている。へらでこそげ落とすと、底からわずかな青い粉がぱらりと零れた。鉱石の色だ。指輪の峰には小さな刻印があり、完璧な円の内側に細い線で何かの紋章が刻まれている。ハルは布で拭い、その紋章を見つめた。見覚えがあるような、しかし思い出せない形。どこかで見たことがあるが、なぜここにあるのかが分からない。
「これって……王家の紋みたいじゃないか?」ミナが震える声で言った。彼女の指先が指輪の表面に触れ、その冷たさに小さく体が震えた。
「王家のものが、こんなところに落ちてるはずない」レンは眉を寄せる。「王族が湯に落とす、ってか?」
「かつてここは、王都の外れにある旧い湯治場だった。王家の者や役人が来ることもあったらしい」老人のキヨが煎茶を持って入ってきてから、ぽつりと言った。彼女は湯治場の古株で、物言わぬ蔵書のように過去の話を持っている。話は断片的で、口伝に頼るところが多かったが、重ねられた年の記憶は決して軽くなかった。
ハルは指輪を掌に包み込み、熱さと冷たさが交錯するのを感じた。もしこれが王家のものならば、ただの落し物では済まない。王の関与、あるいは王に仕える者の関与が、この湯と何らかの関係にある可能性が出てくる。鉱山の水、王都の水路、そして毒――心の中で点と点が結ばれそうになり、冷たい予感が背筋を走った。
「キヨさん、客帳と古い領収書、倉の古文書を見せてもらえないか?」ハルは即座に行動に出ることを決めた。目の前の金属片を証拠に変え、記録を当たって繋がりを探すほうが、危険な代償をすぐに負うよりも確実だと判断したのだ。
キヨは小さくうなずき、鍵束を取り出して奥の戸棚を開けた。扉の奥には炒れた紙の匂いとともに、巻かれた客帳や焼けた帳面が積まれている。そこには年月日、客の名、簡単な症状、湯の効能を書き付けた走り書きがぎっしりと詰まっていた。ハルは指輪をそっと布で包み、客帳を膝に広げた。
ページをめくるたびに、町の暮らしが現れる。鉱夫の名、女房の名、時には「王の巡見」といった言葉が、訓と印で記されていた。ハルは指輪の刻印を思い出し、客帳の縁にある小さな紋を探す。暫くして、彼はページの隅に描かれた小さな図と、控えめな注記に目が止まった。そこには「御用留 水路試料」とあり、傍らに同じ紋章が小さく描かれていた。墨は擦れていたが、紋の形は指輪のそれと酷似していた。
「これだ」ハルは声を漏らした。ページの墨がはがれるように黒々と浮かび上がり、彼の心拍を速めた。古文書は更に別の紙へと繋がっていた。そこには、かつて王室が湯の水質を試料採取していた旨と、「御用鍛冶に依頼した封印品」「水路経由の送付」などの断片的な語句が続く。完全な文章は欠けているが、指輪と客帳の紋章が同じであることは疑いようがなかった。
「王室の御用って、ここにまで…」ミナの声が震える。レンは指輪に手を伸ばしそうになって、ハッと手を引っ込めた。誰もが、この発見の意味をそれぞれの角度で量ろうとしている。