舟歌い

舟歌い 第15話「第13章」

朝の潮はまだ寝ぼけていた。縁の板を叩く波がゆっくりと膝を擦り、港の匂いは潮と古い木材と乾いた魚の粉が混じっていた。サラはいつもの赤いスカーフを首に巻き、薄い手袋をはめたまま舟の舷先に立っていた。下町の小さな渡し舟の娘として生きる今の自分の身体と、かつて指揮台で合唱をまとめていた記憶は、同じ声でありながら違う重さをもって胸に沈んでいる。

朝の潮はまだ寝ぼけていた。縁の板を叩く波がゆっくりと膝を擦り、港の匂いは潮と古い木材と乾いた魚の粉が混じっていた。サラはいつもの赤いスカーフを首に巻き、薄い手袋をはめたまま舟の舷先に立っていた。下町の小さな渡し舟の娘として生きる今の自分の身体と、かつて指揮台で合唱をまとめていた記憶は、同じ声でありながら違う重さをもって胸に沈んでいる。

「今日も見張りかい、サラ」

ルカが笑いながら網を肩にする。まだ若い筋肉が朝の冷えで硬く光っていた。ミナは商いの帳面をずらりと抱えて、舷側の小卓にそれを放り投げる。二人とも、サラにとっては仲間であり、隣人であり、歌を合わせて航路を作った数少ない証人でもある。

「そう。見張り兼、訊き込み」サラは返す。声は低く、だがはっきりしていた。「昨夜、子どもを見たっていう話が出てる。上町へ行く護衛隊が小さな笛を吹いて運んで行くのを、港の外れで見たって」

ルカの眉が跳ねる。ルカは言葉をいくつか噛み砕くように選んだあと、肩越しに港内を見渡した。「それ、本当か。誰が言ったんだ」

「魚屋のアネット。夜中に貨物の積み降ろしを見て、声を聞いたら子どもの泣き声と父親の名前を呼ぶ声が混じってたって。だが、護送は表向き『保護』って札がついてたらしい」

ミナは帳面をめくる手を止めて、紙の隅についたインクを拭い取った。「保護、ねぇ」。彼女は言葉を吐き捨てるようにして、顔に影が落ちる。「上町の決まり文句よ。危険だから引き上げた、後で説明する、保全の名の下に。子どもごと記録を変えることもあるって、噂には聞くけど……」

サラは舌打ちする代わりに、赤いスカーフの端を強く握った。胸の内に火が宿るのを感じる。あの子は、下町を離れて暮らすことなんて望んでいない。誰も望まないはずの引き離しを、上町の名の下に制度が行っている。だが、今ここで争いを起こせば、声を奪う力はすぐに手を伸ばしてくるだろう。エルドの目が、いつもどおり冷たく鋭く光るのをサラは知っている。

「一人で行くのはやめるべきだ」ルカが低く言った。「あいつら、表向きは保護だと言う。正装した役人と軍装した者が混ざってる。単身で突っ込めば、すぐに拘束だ」

「でも放っておけない」サラが即座に返した。怒りが言葉に押し出される。「子どもは、保護の名で隔離される。逃げ場を奪われる。私ができることがあるなら――」

「できることはあるさ、でも──」ルカが言葉を切る。彼は岸壁の向こうにある上町の石造りの倉や、塔の輪郭を指さす。「上町は高く、監視も多い。声を聞かせるのは簡単じゃない。向こうは音を消す技術を使ってる、装置を使って鐘の残響を作り替えたり、歌を記録して加工するって話だ。聞こえる・聞こえないで航路が逆流するなら、向こうはその逆流を武器にする」

ミナは帳面を胸に抱え直して、ゆっくりと口を開いた。「私たち、前みたいにこっそりやるべきじゃないわ。真っ向からぶつけるなんて無茶よ。でも、情報を吐き出すの。住民に。上町がどういう理由で子どもを連れて行ってるのか、文書があるんじゃないかってこと、証拠を探すの。逃げ込むんじゃなくて、公にするのよ。みんなの選択として取り返すって言えば、独裁とは違う形で動ける」

サラはその言葉を飲み込み、心の中で回してみた。住民全体の行動にする。自分が行って奪還するのではなく、下町・中町の人間に選択肢として提示する。歌で開く航路は二人以上でなければ機能しない。声を共有することで力になる。自分の能力は共有のためにあるのだ、とサラは思い出す。

「証拠を探す」ルカは床に足をつけて嗅ぎまわるように言った。「役所に潜り込むのか?」

「潜り込むんじゃない。本に書かれたことを盗むんじゃなく、記録の公開を迫るの」ミナは帳面を開き、丁寧に書き付ける。「上町の記録局。水門局の保全担当の決裁書。連れて行った理由と日付。『保護』の名での隔離に関する条項があれば、それを住民投票の場で使える」

サラは手を軽く震わせながらうなずいた。自分が指揮者だったときに学んだことは、人の声を合わせるだけで群衆の心を動かせるということだった。だが指揮台と街路は違う。ここでは声が法的文書よりも重い瞬間がある。人々が自分の意思で声を発したとき、初めて制度は揺らぐ。

「やるなら、きちんと準備をしよう」サラは言った。「公開の場を作る。証拠を出して、住民投票につなげる。奪還の段取りは、その後で。奪還を一つの共同作業にするんだ。私が旗を振るのではなく、皆で決める。誰かが犠牲になる形で解決しないように」

ルカは渋い顔をした。「でも、証拠ってどうやって?」

ミナが指先で帳面の隅を叩く。「記録局に入る。私は帳簿の扱いに古い知識がある。薄い紙で封筒の中身を見る方法、偽の申出を出してサンプルを引き出す術。ルカは港の外れで働いてる友人に頼める。運送の経路を聞き出せば、護送の出入りがわかる」

サラは視線を港の流れに泳がせる。潮の色が灰色から微かに緑を帯び、遠くの波止場で人が忙しく動いているのが見える。自分たちの共同体を守ること。それがこの数日の最優先だった。

「私は歌で示す」サラはあえて低い声で付け加えた。「証拠が出せたら、合唱で公の場を作る。歌は人の注意を奪って、心を解く。だけど今は、歌で直接奪還に向かうのは危険。独唱で水を荒らしたら、注意を引くどころか航路を逆流させる。向こうはそれを狙っている」

ミナが小さく笑んだ。「サラ、いつも賢いわね。でも今回はあなたの歌を道具にしない方法でやりたいの」

そのとき、船着場の端で小さな足音が走った。魚屋のアネットが息を切らして走ってきて、肩で息をする。「見たわ、さっきの護送の護衛が、上町の執務所に入るところを。小さな子どもを二人の手で運んでた。張り紙がしてあったの、赤い印で『保全』って」

「保全」――口に出しただけでルカの顔が硬くなる。上町の言葉は確かにそうだった。安全、保全、秩序。声を奪う行為は善意の言葉で塗り固められる。

「誰の子どもか見えた?」サラが問う。

アネットは目を伏せて首を振った。「昼間だったらはっきり見えたかも。でも夜だったの。笛の音が小さくて、泣き声が変に抑えられてた。誰かが口元を塞いでた。名前が呼ばれたのは、セバの名前だった、って聞こえた気がする。セバは下町の古い漁師の孫で、あの小さな靴をいつも履いてた子よ」

セバ。名を聞いた瞬間、サラの胸がきりりと引き絞られた。行方不明になった子の名前だ。無邪気に岸を走り回っていたあの子が、上町の建物に隔てられているという事実は、サラにとって個人的な刺となった。

「上町に行くなら、私は同行する」ルカが言った。「だが、入るのは難しい。記録局には受付がある。誰でも閲覧できるって言われてるが、閲覧条件は増やされてる。私の友人を通して書類の写しを取る方法はある。正面きって開示を迫るなら、証拠が必要だ」

ミナは帳面にぐいとペンを走らせる。紙に生える線の音が小さく響いた。「まずは会合。住民に話す。証拠が見つかるかもしれないってこと、子どもが隔離されてるかもしれないってことを、隠さず告げる。私たちが一度に歌って示す場所を作る。公聴会の場を作りたいのよ。住民の前で証拠と歌で情勢を示す。